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同窓会に行ってみた

 先日、久しぶりに同窓会に行ってきた。とはいっても、同級の同窓会ではなく、卒業会の異なる同窓会で、顔を知る人物は誰もいなかった。それはそれで居心地は良かったのだが。その同窓会は一風変わっていて、幹事学年の方が企画をした出し物が披露された。立食形式のものではなく、浅草花劇場で行われ、まるっきり鑑賞スタイルであった。卒業生の中には音楽活動やパフォーマンスに従事でしている方もいて、その演奏があったり、現在の母校を訪問するという企画のもと撮影された映像が流されたりした。

 2027年(おそらく)に建て代えが終わる母校の新校舎は—その建設はまだ途中だけど—全然知らないものになっていた。「懐かしの母校の姿が変わるのは寂しいですね」—こういうセリフは卒業したもっと後に言うものだと勝手に思っていたが、懐かしのという時間の厚みを経る前にその時はやってきてしまった。5年前という、つい最近まで通っていた母校が見違えるほど綺麗に一新するらしい。私がいた頃はかなりボロがきていて、トイレはいくら掃除をしても匂いが落ちなかった。少し長雨になると、排水能力がキャパオーバーし、部活棟の地下にある部室は水浸しになっていた。3階の実験室は空調がつかず熱がこもり、春先から飼育したカイコは夏を終える頃にたったの1匹だけが羽化をした。実験室に備え付けられた延長コードは古すぎて夜中に発火しボヤ騒ぎになるし(これは関係ないかも)、実験器具を洗う水道水もしばらくは茶色水を出し切らないと使えなかった。極めつけは校舎の棟によって、階の高さが異なるという始末。継ぎ足し、継ぎ足しの増設の結果、4階と3階が連結しているバリアフリー未対応。面白いのが(笑ってもいられないのだが)、わざわざエレベーターを設置しているその近くに、その階の継ぎ足し階段があるというあり様。車椅子の人はどうするのかといつも疑問に思っていた。その階差のある校舎の構造はしばしば、電磁気の授業で電圧の例に用いられていた。そういったことが今でも印象に残っている。

 次に母校に行くのはずっと先で、いつになるかもとても想像できないが、そのときには少し使い慣らされた見知らぬ校舎になっているのだろう。

 私にとっての母校はおそらく高校時代を過ごした場所になるのだが、それは人によって違うのだろうか?小学校は転勤もあり(最終的には入学した学校に戻ってきて卒業したのだが)いまいち母校という感じがしない。なんとなく記憶も曖昧で、印象としても薄い。遠い記憶の印象が強い。覚えている先生もいるが、その先生の所在もその頃とは違う場所になっていると聞くし、学校のあった場所と思い出と、人の匂いのする記憶があまり噛み合わない。

 中学校も小学校ほどではないにせよ、母校という感覚があまりない。不思議だ。

 高校に少なくとも母校としての感覚がある。なぜだろうか?

(続く)

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