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「美味しい」は美味しさを騙る

 好ましい食べ物を口にした時、「なぜ美味しいのか」とあれこれ思索するのは筆者にとっての日常だ。一般的には何かしら食への探求やレシピの研究・開発等でもしていない限りそのような態度は稀であろう。美味しさとは深々と考え込む対象ではなく、素直に感じ、浸るものなのだ。ましてや往年のグルメ漫画のように美味しいと感じた理由や経緯を聞かれてもいないのにペラペラと喋ったり、逆に他者から根掘り葉掘り聞かれるといった尋問のような場面など日常においてはまずもって無い。

 それは、美味しいという人間の感応が味覚を起点とする生理的な快の情動として発露し感情に至るものであり、他者がその喜びにも似た反応に同調することはあっても必要以上に立ち入って水を指すのは単純に野暮だからである。すなわち美味しいの全容は基本的にそう感じた者の専有物であり、そこから生じる感情の余韻や余白も当然のように他者の踏み入れない聖域ないしブラックボックス化していくのである。

 普段そうやってベールに包まれた「美味しい」を具体的に定義することは、食分野における永遠のテーマと言っても過言ではない難題のひとつだ。

 飲食物の美味しさには一般的に生理的な風味の好ましさ、食感など風味以外の要素がもたらす物理的・心理的な喜ばしさ、食事環境(人・場所)の心地よさ、体調・気分・経験・知識・思想なども含めればそれこそ数え切れない変数が関わってくるのは想像に難くない。しかし、食に関わる者に限らず、多くの人間がその未分化な感情のままの「美味しい」の中にこそ普遍的な味の真理や方程式のヒントがあると信じて止まないのが現実だ。つまり、論理の対極にあり、定量化の困難な感情という大海原で一片の貝殻にも等しい確たる論理を見出そうとしているのである。

 確かに、「美味しい」という感情が生まれること自体、その飲食物にそれを引き出した何らかの要素が含まれることを示唆している。しかしながら、感情とは人間の生理的・心理的な内外の各要素が相互に作用して形成される「状態のシンボル」のようなものであり、要素そのものの具象化ではない。「美味しい」が快の情動として分かりやすく表層に現れたからと言って、背後にあるそれらを即座に復号したり、直接的に理解することが出来るわけではない。美味しさを感じた当人自らが「美味しい」という感情の成り立ちを振り返り、ひとつひとつ紐解いていき、明確な論理へと解読・整合し、それを他者へ正確に伝達できて初めて為されるのである。

 とは言え、人間は元来自身の感情を完全にコントロールしたり、網羅的に認識したりはできない生き物だ。故にその成り立ちや細部を自ら明らかにするのは容易なことではない。そして、個々人の専有物という性格上、「美味しい」は感情のまま当人自身に消費されるのが常であり、不必要に論理化されて露見するようなこともない。従って、そういった条件下で他者が美味しいの論理を読み解くアプローチがあるとすれば、「美味しい」を形作った各要素を当人の外面的な情報から統計的に推定し、その可能性の組み合わせに確率論的に踏み込んでいくしかないのだ。

 さらに言えば、人間の食に対する「注意の焦点」(別記事参照)が多様であるならば、食が当人に与える意味性や価値性も同じく多様化する。それは個々の「美味しい」の成り立ちも大きく変化し得ることを意味している。

 飽くまで一例だが、愛する母が作ってくれた玉子焼きはいつも焦げていて、幼心にもあまり好ましいものではなかったという記憶があるとする。苦手としていた味の思い出は年月と共に氷塊し、時として懐古の念と化していく。年齢や味覚の変化も相まって、同様の味わいが「懐かしい味」「おふくろの味」といった好意的な要素へと昇華され、いつしか「少し焦げているくらいがいい」といった本来とは真逆の「美味しい」の感情形成に作用することだってあり得るのだ。

 その意味で、不用意に「美味しい」を詳らかにすることは、その概念を無用に複雑なものにしかねない諸刃の剣とも言える。書物の類ではそういった捉えにくさこそが美味しさの本質であると結んでいるものも多いが、筆者は敢えて否定したい。

 前述したように「美味しい」とは感情=生理的・心理的な状態のシンボルであり、それを形作った各要素の具象化ではない。自他を問わず「美味しい」という感情の存在それ自体が独り歩きして飲食物の直接的な美味しさに安易に飛躍されてしまう可能性にも常に留意しなければならない。曖昧で不確かだが、確実に存在する感情というものの実在性の威を借りて、これ見よがしに尤もらしい美味しさの論理であれこれとラベリングする無理筋が横行している現実があっても、目まぐるしく変化する情報消費社会の現代において、我々がその全てを看破できるとは言い難い。すなわち、今、「美味しい」は言った者勝ちの時代なのだ。

 美味しさの本質が一概に捉えにくく、定義も困難を極めるというのは、こういった厳密には実体を伴わない美味しさの虚像や虚構の実態とその無自覚な伝播が総意としての美味しさの概念に無視できない振幅の揺らぎを起こしてしまっている影響も大きいと筆者は見ている。それが問題視されにくいのは「嗜好性(好み)」や「個人差」というより大きな観念が都合よく緩衝材となっているせいでもあろうか。

 食を取り巻く環境は時代の移り変わりによって大なり小なり変容するものだ。よってそこから生まれる「美味しい」の感情を頑なに固定的な概念の枠で縛り付ける必要はないが、玉虫色のような自由に過ぎる扱われ方を看過すれば、政治が緩やかに腐敗していくように「美味しい」という人間の感応もいつしか排他的かつご都合主義的な価値へと貶められ、ひいては人類がこれまで蓄えてきた食の叡智や歴史の風化にも繋がりかねない。

 それを未然に防ぐには改めて「美味しい」の概念の基礎固めが肝要だ。差し当たっては玉虫色の原因となる概念自体の揺らぎの振幅を小さくすること。そのために出来ることがあるとすれば、「美味しい」を改めて感情として再ラベリングし、可能な限り美味しさの論理から遠ざけること。もしくはその必要がないほど揺るぎない美味しさの論理を各々が持つことだ。

 食関連のマーケティングや広告宣伝の場において、時々、"美味しいには訳(わけ)がある"といった主旨の謳い文句が用いられる。その真意は飲食物の美味しさの後ろ盾となる作り手の論理(=訳)が食べ手の「美味しい」の感情を引き出し得るというものだ。一義的には聞き手・読み手の腑に落ちる一方で、語順的には「美味しい」の感情が美味しさの論理の存在を直接示唆するという表現でもあることに留意したい。優良誤認とまでは言わないが、まるで感情が論理の実在性をも担保するといった大胆極まる言いっぷりである。

 世の中にはこういう美味しさの論理を感情表現に置き換えた営利情報の発信が少なくない。ビール会社のCMにおける「うまい!」の一言も究極的には演者の感情描写に美味しさの論理が集約されていく構図である。消費者の感情に直接訴えかける手法論と見れば手堅くひとつの正攻法とも言えるが、美味しいの概念を強固にしていく上で、感情が自身の領域を越えて論理を代弁するような情報が流布されることは決して望ましいことではない。

 こういった感情と論理の距離を無用に縮めようとする発信者の見えざる意図が介在する食情報が広く流通することは、本来感情である「美味しい」がその実在性の多寡によって一定の論理性を帯びるという二面的なイメージを消費者へ植え付ける。もう少し分かりやすく言えば、他者の「美味しい」の感情の強弱が美味しさの論理性の高低(≒説得力の強弱)を暗示するという一種の認知バイアスを発生させるということだ。それが一般化し、浸透すればするほど「美味しい」の虚像が増殖、肥大化し、そして虚構がより堅固なものとなるのである。

 一般に感情と論理は水と油のような対極のものだ。それが認知バイアスという乳化剤で一体となり、安定的に組み上げられた虚構は堅牢で、切り崩すのは至難のこと。それでも、「美味しい」の概念を今一度確かなものとし、食の未来を明るく照らすためには避けて通れない茨の道である。そして、それは筆者一人の力や考え方でどうこうなるものではなく、感情の及ばない確かな美味しさの論理を持ち得た者たちがいかにその価値観を世に波及させられるかに掛かっている。その観点から本稿が各人にとって”感情と切り分けた”美味しさの論理を見つめる一助となり、また、食に限らず感情と論理の境界を改めて意識する契機となれば幸いである。その積み重ねの先に「美味しい」の真理へと通じる道があるものと筆者は信じている。

出典元:大人のための「感性の食育学」 - コラムニスト・フジワラコウ

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