「日本人の味覚が世界一」という嘘と現実
日頃、食の情報を漁っていると「日本人の味覚は世界一である」とか「日本人の味覚は海外のそれよりも繊細だ」といった自画自賛とも思える記事を見かけることがある。それらを目にする度、同じ民族の端くれとして反射的に誇らしく感じてしまう自身の正直な一面は否定しないが、実際のところ、筆者としてはその味覚に対する考えの半分は誤りだと見なしている。
少なくとも残り半分を否定しない理由として、日本が四季の移ろう温暖な気候条件の下、四方を海に囲まれ、国土の7割近くを山林が占める食資源の豊かな国であること。古来農耕が営まれ、作物の育種や品種改良が盛んに行われてきた背景、日本各地に根付く醤油や味噌を始めとする発酵・醸造文化の多様性など、諸々の得難い食の環境要因が広く日本人の味覚発達を支えてきたことには疑う余地がない。また偶然にも全国的に水の硬度が食材からうま味を抽出しやすい軟水が中心である点は出汁文化の発展を促し、食材そのものの味を活かし吟味する多感な食文化の醸成にも寄与してきたと考えられる。
近代化以降、海外の食文化を貪欲に取り入れてきた食への尽きない好奇心と飽くなき探究心は言うに及ばず、国民の大半が宗教上の特定の宗派に属していないことから食材を教義で禁じられる等の大きな縛りがほとんど無く、歴史上の律令で表向き禁忌とされていた一部の獣肉類(実際は工夫して食べられていた例もあり)を除けば様々な食材を実際に味わい食文化に取り入れてこられた点も特筆すべきところだろう。
さて、一見すると繊細な味覚が育まれても何ら不思議のない種々の条件が揃い踏みだが、なぜ筆者が冒頭の考えの半分を誤りと見なすのか。くどい様だがこれにも日本のお家芸「うま味」が関わってくる。
日本人は古くから出汁文化に慣れ親しんできた関係上、食習慣から得られる経験則的に食べ物に含まれるうま味の存在に敏感だ。実際、日本人と外国人とを交えた味覚実験では水溶液からうま味を感じ取る能力に大きな差が開いた例も報告されている。しかし、ここで注意しなければならないのは、着目するべき点がそういった実験等によって表面上示される味覚の能力差ではなく、日本人がうま味の"不存在にも敏感"である可能性を強く示唆していることだ。
筆者はここまで現代日本の食市場はうま味偏重であると表現してきた。その実態は以前の記事で触れた「記号化された味」と同じく消費者に画一的な味覚を植え付け商業的に搾取しようとする食のグローバリズムが暗躍している側面も小さくないと考えるが、その是非を問う前に、本来その企みにやすやすと乗せられるような消費者側のある程度普遍的な味覚の嗜好性が根底になければ需給が噛み合わず思惑通りにはならないはずだ。逆説的ではあるが、そこに先程の可能性を支持するべき「うま味の不足に対する不満足」という日本人独特の潜在的な負の嗜好性が存在し、うま味の需要を過剰に下支えしているとは考えられないだろうか。つまり、日本人にとってうま味とは味覚上不足する時にこそより明確に(空白として)認識されるという考え方だ。
生来食習慣として”あって当然のうま味”を味わい続けてきた現代日本人である。うま味が味覚上のありふれた感覚であればあるほど、その不存在や不足に"本の落丁"のような予想外の欠損を感じたとしてもそれはある種の必然と言えよう。だからこそ、その空白を感じさせまいと味覚上の外堀と思わしきを兎に角埋め尽くしてきた国内食市場のうま味の氾濫が一定の成果を上げ、日本の食文化をより一層うま味偏重型に作り変えてきたとも考え得る。当たり前の味であるからこそうま味の存在は日本人の味覚上の強みと言えるが、同時に最大の付け入る隙でもあるというわけだ。
前回の記事で基本味であるうま味を三原色のひとつに例えたが、仮にそれが赤色であれば、うま味偏重という特異な状況が常態化している日本の食文化は客観的に見ればきっと赤系統ないしは暖色系の絵画で埋め尽くされた異質な光景に映ることだろう。そういう特殊性に一度でも思い馳せれば、安易に日本人の味覚が世界一だ繊細だなどと杓子定規なことは到底言えないはずである。真に重要なのは各々が自らの味覚の現在地がどこなのかということを把握し、偏りを肯定し、中庸とは何かを見極めていくことだ。