信州上田市サンライン日本遺産
(1) 上田市のサンライン
今日は冬至の日です。その冬至の日に、信州上田市の国分神社の鳥居の中に丁度夕日が沈むのを、上田千曲高校建築科の相原文哉先生が20年ほど前に偶然発見されました(*1)。そして、相原先生は、さらに数キロ離れた生島足島神社の鳥居の中に、夏至の日の朝日が昇ることも発見されました。そこでこの国分神社―生島足島神社を地図上に結んだ線上には、上田では重要な遺跡や重要な神社が、並んでいることを発見しました(*1)。
2000年から1800年くらい前にこの地方が縄文時代から弥生時代に移行する時期に、この線上に意図的に、重要な神社が建てられたことがわかりました。このサンラインと古代からの史跡や神社を含めて、2020年の今年、日本遺産に認定されました。
https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/shogaku/30087.html
文頭および下の写真は、夏至の日の出の時の生島足島神社のものです。
(2)サンラインを発見された相原文哉先生
2020年の年末に、上田ケーブルビジョンのテレビ番組を偶然見ていたら、20年ほど前に作られた番組の再放送をしていました。それは、千曲高校の相原先生が、出演されてこのサンラインを発見されたいきさつを述べていました。相原先生によると、冬至の日に、たまたま国分神社を調査していたところ、夕日が、鳥居の真ん中に沈んでいくのを発見しました。不思議に思い、地図の上に、この鳥居の夕日が沈む方向に直線を引いてみたところ、上田市塩田平の生島足島(いくしまたるしま)神社や、泥宮神社が並んでいるではありませんか。生島足島神社は日本中央にある神社として、上田では、太古の昔から大変崇敬されている神社です。また、泥宮は、生島足島神社が、さらに昔に建っていたところで、伝承では、タケミナカタがこの地に来て稲作を教えたとき、水田には泥が大切なものだということを原住民が知ったことから、この神社が建てられたということです。これらの鳥居も、夏至のときの朝日が昇る方向、冬至のときに夕日が沈む方向に、向いていることを、相原先生は、確認されました。そこで、相原先生は、地図上にこのサンラインの線を引いたところ、「王子神社―泥宮―生島足島神社-生島足島神社一の鳥居―国分神社-大日霎(おひるめ)神社」が、一直線上に並んでいることを発見されました。
上田ケーブルビジョンのテレビ番組では、相原先生が、大日霎神社を現地調査しているところも写っていたのですが、どういうわけか、2020年の日本遺産では、塩田平にある「泥宮―生島足島神社-生島足島神社一(いち)の鳥居」のサンラインだけが、認定され、「王子神社」や「国分神社-大日霎神社」は認定から外れていました。相原先生のサンライン発見の発端になった国分神社が外れていることが不思議です。国分神社は、古代に国分寺があった場所のすぐ横の高台に建っており、国分寺を守護する神社として作られたのではないかと推察されています。テレビ番組では、相原先生が、大日霎神社も現地調査されていましたが、大日霎神社がある地元の上田市芳田地区の方々に聞いても、この神社の詳しい由緒などがわからなかったようです。また、王子神社に裏には立派な古墳もあるのですが、なぜこれが外れたのかはよくわかりません。察するに生島足島神社との関係がよくわからなかったからのようです。それで、残念なことにこの三つの神社は、日本遺産の認定から外れてしまったようです。
(3)国分神社
私は国分神社の近く住んでいるので、2020年12月21日の冬至の日の午後3時ころ、この国分神社に行って、鳥居越しに太陽を見ました。まだ日が高かったですが、日没時には確かにこの鳥居の中に夕日が入る位置にあるのが見て取れました。それで、いったん家に帰って、また日没時にもう一度写真を撮ろうと、自宅に帰りました。何しろ寒くてここであと1時間も待っていられなかったからです。日の入りは16:35分とのことなので、16:10頃にもう一度国分神社に来てみました。ところが、前の小牧山がじゃまして、すでに太陽はその山の後ろに隠れていました。う~ん、残念。また、1年後チャレンジしてみようと思います。
この写真は、冬至から数日後に撮ったものです。確かに夕日が鳥居の真ん中に沈んでいきます。もっとわかり易いのは、夕日を背にして木の影が、この鳥居前の階段の真ん中に写っていることです。ユカタン半島のマヤ文明のピラミッドの階段の中央に夕日の影が昇るのを見たことがありますが、これとそっくりでした。https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/091900354/
(4)上田市芳田にある大日霎神社
また、私は、上田市芳田にある大日霎神社は、天照系よりも先に、日本を最初に統一した饒速日(にぎはやひ)を祭った神社であると、推定しています。詳細は、https://note.com/ko52517/n/n941ff6fbb372 をご覧ください。おそらく、饒速日の命は、タケミナカタが信濃の国を開闢するよりも以前に、近畿地方から東北地方にいたる広大な地域を初めて統一し、ここに上田の地にも饒速日を祭る神社が建てられたものと考えられます。したがって、この神社は、科野大宮や生島足島神社よりももっと古く、上田市で一番古い重要な神社だったと考えられます。古代の人たちには、サンラインの東の起点として認識され、崇敬されていたのではないかと考えられます。
(5)最後に
まとめますと、上田千曲高校建築科の相原文哉先生が、20年ほど前に、「王子神社―泥宮―生島足島神社-生島足島神社一(いち)の鳥居―国分神社・国分寺-大日霎(おひるめ)神社」が、夏至のときに朝日が昇る方向に、冬至のときには夕日が沈む方向に、一直線上に並んでいることを発見されました。そして、「泥宮―生島足島神社-国分寺」のサンラインとその周辺の塩田平が、日本遺産として、2020年に認定されました。このサンラインの発見のきっかけになった国分神社は、この認定から外れてしまいましたが、国分神社では鳥居につながる階段に、冬至の日、マヤ文明のピラミッドと同じく、夕日の影が階段を一直線に上るのが見えます。また、大日霎(おひるめ)神社は、日本最初の大国を築いた饒速日大王を祭り、この地区で最も古い神社と考えられ、古代にこのサンラインの東の起点として崇敬されていたと推測されます。
信州上田之住人和親
2020年12月21日随筆
2021年4月10-16日加筆
*1:上田千曲高校建築科の相原文哉先生は、『社寺建築を読み解く』(ほおずき書籍 (2012))という本を書かれていることから、上田市内の神社仏閣を見て回っている間に、上田市内に、このような大変興味深いサンラインがあることを発見されたようです。
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