大革命をもたらした東芝日本語ワープロの発明
(はじめに)
令和5年(2023年)の今、インターネットのホームページが日本語で書けること、日本語をインターネットで送れることなどは、当たり前のことですが、これは、1978年東芝による日本最初のワープロJW-10が開発されたことが始まりです。東芝総合研究所の4人(森健一さん、河田勉さん、天野真家さん、武田公人さん)のチームが、アンダーザテーブルの研究により、発明した日本語ワープロの技術のお陰なのです。現在、中国語も韓国語もタイ語もアラビヤ語もまた、自国の言語と文字でホームページが作成出来、さらにインターネットで文章を送ることも出来ます。これら多くの非ヨーロッパ語のワープロは森さん達の日本語ワープロの開発思想そのものが手本になっていると言われています。東芝の森さん達の業績を是非皆さんに、知って頂きたいと思い、下記の過去の2つの随筆をまとめて改めてここに掲載しました。多くの皆さんに、ご笑覧いただければ大変嬉しいです。
令和5年(2023年)9月20日
[ 1 ] 日本語ワープロを世界最初に発明した東芝
私は放送大学が好きでよく見るのですが、先日(2001年)、「日本語ワープロの開発」という特別講義が放映されていて、東芝の何とかという子会社の社長になられた森健一さんが講師としてお話しされていました。私は実に20年振りに森さんをお見受けしました。森さんは、もう髪がロマンスグレイになっていて、テレビでは57,8歳に見えました。子会社とはいえ社長となられてずいぶん偉くなっておられました。あの森さんであればさもありなむと、テレビを見ながら私はうなずきました。
私が東芝総合研究所にいたのは昭和56年~昭和57年(1981年~1982年)の極短い期間でしたが、当時、総研内にある2階のレストランで夕方、確か若手の有志の主催か何かで、1ヶ月に1回ほど、30代の中堅で特に顕著な業績を上げている研究員から、研究開発の苦労話や秘話を若い人たちが聞くというざっくばらんな勉強会がありました。私は、何回か出席していろいろな話を聞かせてもらいましたが、いつまでも印象に残り今でも覚えているのが、日本最初の日本語ワープロJW-10(ジェーダブリュ=テン)を開発した森さんの話でした。その時、森さんは30代後半の年齢に見えました。もちろん当時は髪も黒かったです。20年振りにテレビで見て、ずいぶん白くなったなあと思うと同時に、歳月の流れの速さを感じました。
レストランでコーヒーを飲みながら一通りお話を聞いたあと、座長を務められておられた電子部品研究所(電部研)の花田さんだったと思いますが、花田さんが森さんに、「このJW-10を開発する上で一番苦労されたのは何ですか?」と聞かれました。その答えは2つあったと記憶しています。1つは、日本語の文法がわからないので、文法を徹底的に勉強し、同時に計量国語学という分野の学会に入ったとのことでした。およそ、それまでの理科系人間からは想像できないようなことを一からやったそうです。それで、当時東芝総研の図書館には、場違いだと思われる計量国語学の学会誌が並んでいたのが、私はその時初めて納得がいったのを覚えています。2つ目は、日本語ワープロの開発は1971年にアンダーザテーブルとして始めたことです。アンダーザテーブルとは、東芝総研の独特の言葉だと思いますが、本務の研究テーマを、研究員はやるが、もし、自分に興味のある独自のテーマが別にあれば、1割か2割くらいの力をそれに注いでも良いという自由裁量が、東芝の伝統として許されていました。しかし一応上司の許可は必要であるので、闇研究という意味ではなく、オープンな研究でした。そうはいうものの私個人の当時の印象では、上司により、チームの抱えている本務の研究テーマの方が忙しい場合は、とても許されないという雰囲気があったように思います。従って、研究員各自の自由裁量といえども、上司によりけりだと思っていました。それで森さんの2つ目の答えがとても印象深かったのです。1971年に日本語ワープロの研究を始めて、3年たっても4年たっても全く開発の目途が立たない。上司もサラリーマンだから自分の在任期間中に部下の成果が上がらないようだったら、その研究テーマをやめさせようとするのが普通なのですが、森さん達の上司は、所長などさらに上からの圧力を一切はねのけて、森さん達を守ってくれ、このアンダーザテーブルのテーマを続けさせてくれました。森さんは、「この上司の防波堤がなかったら7年間もこの研究を続けられなかったと思います。」と答えておられました。私は、森さんの上司を研究管理者として見習うべきところが大いにあると感銘を受け、長く記憶に残りました。
20年振りに、この森さんから同じテーマで、今度は放送大学の特別講演として聞いたお話には、この上司の話は出て来ませんでしたが、改めて聞いてみて一層深い感銘を受けました。大学の講義であるのでよく整理されていて、日本語ワープロ開発の歴史もよくわかりました。
邦文タイプライターは1915年に発明され、1923年にはカナタイプライターも発売されました。しかし、欧文タイプライターと違い、邦文タイプライターは字数が極めて多く、一字一字を拾う植字形式なので、特別に訓練された技能者でないと、一般の人には、とても使いこなせるものでは到底ありませんでした。またカナタイプライターの方は、カナばかりで書いた文章が極めて読みづらくて、普及しませんでした。そこで、1971年に森さんら4人(森健一さん、河田勉さん、天野真家さん、武田公人さん)のチームが、東芝総研で日本語ワープロの開発を始めた当時、つぎの3つの目標を立てました。
(1)かな漢字変換:かなを打つと自動的に漢字かな混じり文に変換される機能を持たせる。
(2)ポータブル機能:それまでの植字型の邦文タイプライターはものすごい重さだったので、誰もが携帯できるものにする。
(3)アクセス機能:遠隔地へ転送できる機能を持たせ、通信に日本語が使えるようにする。
目標の(1)は、森さんらが日本語の文法を徹底的に研究し、それまで国語学者が明らかにしていなかったところまで、新たに文法を作り出して解明した「精緻文法」と、語順により現れる語彙の組み合わせが決まる「共起関係1)」を10万語の一語一語につけた日本語辞書とを、日本語ワープロに組み入れることにより達成しました。また、コンピューター用の漢字は縦横24ドット×24ドットの点の集まりで表すことにし、約1万字を3年がかりで作りました。気の遠くなるようなものすごい努力です。この「かな漢字変換」を組み込んだ、日本最初の、ひいては世界最初の日本語ワープロJW-10が、1978年東芝から発売されました。1台、630万円もして、記憶容量はわずか64キロバイトしかなく、8インチのプロッピーディスクを用いていました。図体は事務机くらいあり、かなり大きなものでした。しかし、まさに画期的な「かな漢字変換」機能があり、2001年の今も日本国内でまだ3台が現役で使われているそうです。また、1985年にパーソナル型ワープロRupoが東芝から発売されて、森さんらの目標の(2)のポータブル機能が初めて付与されました。さらに1995年頃までには、日本語ワープロで書いた文章が、インターネットで転送できるようになり、目標の(3)である遠隔地とのやりとりも可能になりました。このように、森さん達が1971年に立てた目標は現在全部達成されたことになります。
これらは、日本語における革命的な出来事と言って良いです。今(2001年)からほんの10年20年ほど前までは日本語の手紙は、個人では手書きが一般的でしたが、現在はワープロ書きが8割を越えていると言われ、さらに、手紙も、多くは電子メールに変わりつつあります。これらは、森さん達が発明した「かな漢字変換」の技術がなければ可能ではなかったでしょう。
今では、このかな漢字変換は当たり前になっていますが、森さん達の大変な努力のおかげで、日本国民が大いにその利便性を享受しているのです。森さん達に感謝しなければなりません。また、日本だけにとどまらず、このかな漢字変換の技術はアジアの多くの言語に応用され、自国語ワープロの開発モデルとなっていると聞きます。現在の中国語ワープロは部首による入力法が一般的ですが、入力速度に限界がありかなり遅いです。かつての邦文タイプライターの植字方式に近いらしいです。そこで、高速入力を可能にするため、今、併音字母漢字変換(ピンイン漢字変換)の開発が、このかな漢字変換を手本に進んでいるといいます。因みに、中国語は略字体(漢字)を用いているのはご存じの通りでですが、発音は中国語独自のローマ字表記法、ピンインツィームー(併音字母)が正書法として用いられています。したがって、発音だけを打てば漢字が自動的に正確に出て来るという方式を開発しようというものです。つまり、日本語の発音(かな)を打つと漢字かな混じり文が自動的に出てくるという、森さん達が開発した同じ方式です。東南アジアの諸言語のワープロにもこの方式が採用されているといいます。森さん達の発明は、アジアに巨大な恩恵をもたらしているのです。
森さん達に、ノーベル賞を与えても良いと私は思います。ノーベル賞は欧米中心のきらいがあるというなら、先ず日本で森さん達に文化勲章を与えるべきでしょう。私は、多くの日本人に森健一さんらの業績を知ってもらいたいと思います。最近のNHKの人気番組、プロジェクトXに取り上げてもらったらいいのではないかと陰ながら思います。日本人は日本人を独自に評価すべきです。白川英樹先生は2000年ノーベル化学賞をもらったあとで文化勲章や日本化学会賞を授けるといわれ、日本化学会賞は辞退されたのは記憶に新しいです。まず日本で評価されて、日本の文化勲章や日本化学会賞を先にもらってから、ノーベル賞じゃないかと思います。なので、この受賞辞退の一件で日本人は大いに考えさせられたと思います。森健一さんらの業績をまず日本で顕彰し、この轍は2度と踏むまいと、日本国民の一人として私は思います。
注:1)「共起関係」というのは、例えば、「きかん」という言葉があると「産業」と一緒の時は「基幹(産業)」、「試験」の時は「(試験)期間」というように、語彙の組み合わせで正しい漢字がそれぞれ自動的に決まることをいいます。この共起関係を用いることにより現在では98%の正しいかな漢字変換率になっているそうです。
平成13年(2001年)3月3日随筆
令和5年(2023年)9月20日加筆
[ 2 ] 日本語ワープロ発明 Before and After
(2-1)一般の人が使えないそれまでの日本語タイプライター
(2003年)現在45歳以上の方なら、覚えておられるかもしれません。今の様に日本語のワープロがない時代、公式の文書を清書するのには、印刷屋さんへ行って頼むか、自分で、とても一人では運べないような極めて重い日本語タイプライターを買って、一字一字鉛の活字を拾って打つかしなければなりませんでした。だから、1982年に私が運転免許証を横浜の二俣川へ書き換えに行った時、警察の人が、「この申請書をそのままコピーして作りますので、氏名住所が手書きのまま交付されますが、いいですか。もし活字がよかったら、前にあるお店でタイプで打ってもらって申請して下さい。」と言われました。そこで、行ってみると、日本語タイピストの女の人が、猛烈な速さで鉛の活字を選んで、私の名前と住所を打ってくれました。「さすがプロ!」などと思って感心しました。
一方、私の家内の日本語タイプライターの思い出は、逆に悲惨です。彼女は独身時代、大阪大学工学部応用化学科で塩川二郎先生(前塩川正十郎財務大臣の実弟)の研究室で技官として勤めていました。その頃、塩川先生の日本化学会賞応募のため大変分厚い申請書類を作成する必要から、塩川研でわざわざこの植字式の日本語タイプライターを購入したそうです。そして幸か不幸か、その書類のまとめを、彼女が担当することになりました。彼女は化学の出身の技官で秘書ではありませんし、また日本語タイピストの資格を持っているわけではなく、全くの素人でした。それでプロじゃないので、2800字に及ぶ鉛の活字がどこにあるのか判らず、一つ一つ探すのに大変苦労しました。遅々として進まず、またその上、一度間違えると修正がもう大変で、精根尽き果てたといいます。
したがって、今(2001年)から20年前の当時では、プロの資格を持っている人以外、日本語のタイプライターに触れることは、私の未来の家内以外、まずほとんどなく、まして、自分の家に1台持とうなんて思うことなど念頭にすらありませんでした。当然、一般の人は皆文書は手書きが普通でした。学会の講演予稿集なんかも、確か1985年くらいまでは全部手書きでした。それで、字が上手な人は立派な教養人に見えたものです。字が下手だと、何だか講演内容も安っぽく、その人物もぱっとしないのではないかと勘ぐったりしたものです。だからでしょうか、歴史上有名な人の手紙など、達筆だと額に入れて、「何でも鑑定団」に出されて高額な評価を得たりするわけです。教養人=字の上手な人というのが、2000年近く日本における長年の評価基準でした。
(2-2)大革命、日本語ワープロの発明
今(2001年)はほとんどの人がパソコンで日本語の文章を作成したり、携帯(電話)で(電子)メールを送ったりしています。これらは全く「日常茶飯事」となりました。現代風に言い換えると、「日常パソコン・メール事(ごと)」と言えるでしょうか。しかし一体誰が、このように、コンピューター上で日本語を扱えるようにしてくれたのでしょう。以前はローマ字しかコンピューターで処理できなかったはずです。これは、日本語の大革命だと私は思います。
私は、この大革命を成し遂げた人、その開発チームリーダーの東芝の森健一さんを、偶然にも知っています。私が、東芝の総合研究所に勤めていたとき、研究所内でざっくばらんな勉強会が組合主催で夕方行われ、森さんの「最初の日本語ワープロ・ジェーダブリュ-テン(JW-10)の開発」の講演を聞いたからなのです。その時、講師の森さんとは同じ総合研究所にいたとはいえ所属の部所が違っていたので、この時1回会ったきりで個人的なつきあいは全くありませんでした。しかし私はこの素晴らしい講演を聞いて深い感動をおぼえ、永く記憶にとどめていました。その詳細は、既に2001年10月の、信州大学繊維学部図書館の季刊紙Library 41号に、寄稿した通りです(1)。今、これを読んでくれている皆さん、是非あのLibraryの記事も合わせて読んでみて下さい。きっと、森健一さんらが世界初の日本語ワープロを開発した当時の御苦労が判って頂けるものと思います。また、この開発思想が、後に多数の非ヨーロッパ諸語のワープロ開発に、多大の貢献をしていることもお判り頂けるものと思います。日本語ワープロの開発は、実は日本という枠を越えた世界の画期的な出来事だったのです。
(2-3)プロジェクトXに日本語ワープロの開発を番組にするよう推薦
それで、私はあのLibraryの記事にも書いたように、NHKの人気番組「プロジェクトX」にこのことを取り上げて欲しいと思い、電子メールでNHKにLibraryの記事(1)を添付してお願いしました。そしたら半年位して本当に取り上げてくれ、2002年9月3日に森健一さん達3人(4人?)が「プロジェクトX」に出演されました。私は陰ながら応援していたので、自分のことのように本当に嬉しく思いました。
さて、誠に不思議なことがあるものです。私は東芝に1981年から1982年の2年ほど在職した後、この信州大学繊維学部に赴任して丸20年になりますが、21年ぶりに東芝の森さんと、今年2003年の9月4日に信州大学で再会しました。森さんが信州大学の私の所へわざわざ訪ねて来られ、御丁寧なお礼を述べられ、高価なワインを2本置いていかれました。なぜかというと、全くインターネットの威力の賜なのです。ただし「プロジェクトX」のことではありません。森さんは私が「プロジェクトX」にメールを送ったことなど知る由もありませんから、全く別のことで、わざわざ来られたのでした。
(2-4)森健一さんと再会と本田賞
上に述べた通り、私は2001年10月にこの季刊紙Libraryに「日本語ワープロを開発した森健一さん」を寄稿しました。これはすぐ、信州大学繊維学部図書分館のホームページにアップ(掲載)されました(1)。それから1年半後の2003年の5月、突然図書館の内海係長が来られ、「本田財団から、『太田先生が書かれた森健一さんに関する記事を読みました。是非、先生に頼みたいことがあるのですが、大学のホームページからは先生の電話番号などの連絡先が判らないので、連絡先を教えて欲しい。』とのことです。」と、図書館宛の電子メールのコピーを手渡されました。そこで、お尋ねの本田財団の事務局長さんに電話したところ、「本田財団では、ノーベル賞級の人を毎年独自の基準で一人選び、1980年から毎年本田賞を授与しています。森健一さんが今回候補者の一人として推挙され、その為、インターネットで森さんのことを調べていたら、信州大学繊維学部図書分館の季刊紙に太田先生が、森さんのことを書かれている記事を見つけました。これをコピーして選考会の先生方に読んでもらったところ、皆大変感心して、森さんが最終選考に残られました。つきましては、太田先生に正式に森健一さんの推薦状を書いて欲しいので、御連絡しました。」とのことでした。大変光栄なことですが、私の専門とは全く違う分野のことですしLibraryの記事以上のことは書けないので、事務局長さんの了解を得て、Libraryの記事に英文の要約を付けてこれを推薦状として、本田財団に送りました。8月の末に、本田財団から私に森健一さんが、見事本年度の本田賞受賞者に決定されたので、是非、御夫婦で11月17日の授賞式に参加して欲しいと、手紙で連絡を受けました。それから間もなくして、9月4日に森健一さんがわざわざそのお礼に、私の所へ訪ねて来られたという訳なのです。21年振りにお会いし、誠に奇縁というか、人と人とのつながりの妙に改めて感動した次第です。
森さんは、その後東芝の子会社の東芝テックの社長となられたと聞いていました。お会いしてお話を伺うと、2003年の5月には65歳で社長を勇退され、現在は相談役となっておられました。21年振りに会ったのですが、一瞬で時空が埋まった感がしました。その際、私は授賞式に必ず出席するお約束をし、また、森さんには信州大学の学生の前で一度話をしてもらいたいとお頼みしたところ、快諾して頂きました。
(2-5) 本田賞授賞式に、夫婦で出席
2003年11月17日(月)には東京のホテルオークラで開かれた本田賞授賞式に、夫婦で出席致しました。本田賞は日本の賞ですが、日本に限らず世界中でノーベル賞級の仕事をした方に、本田財団独自の選考基準で毎年1名に授与されています。過去23年間で日本人は森さんを含めてまだ4人しかいません。森さん以外の日本人は、青色LED 発明の中村修二さんなどがおられます。副賞は1000万円です。何故11月17日に授賞式をするかというと、本田の創立者、本田宗一郎氏の誕生日が11月17日だからだそうです。もし生きておられれば今年で97歳になられたそうです。ノーベル賞もアルフレッド・ノーベルの誕生日に授賞式が行われています。授賞式の後、受賞者の森さんの講演が1時間程あり、その中で、推薦者の二人、国際基督教大学の村上陽一郎先生と信州大学の私に、感謝の意が表されました。大変光栄に思いました。講演台横手には、NHK「プロジェクトX」番組チームから贈られた生花が飾ってあったのが印象に残りました。
(おわりに)
全くインターネットの威力は絶大です。「世の中、見ている人は見ている」とよく言いますが、インターネットに載った私の書いた文章を、見ている人は見ている、という単純な意味も、また、私が20年間も森さんのことを覚えていて個人的に大変評価していました、これも見ている人はちゃんと見ているという本来の意味にも、なるでしょう。インターネットはこういう隠れた支持者や評価者の声が、一瞬のうちに全国いや全世界に届くということに極めて価値があると思います。また、インターネットのホームページが日本語で書けること、日本語をインターネットで送れることなどは、森さん達が発明した日本語ワープロの技術のお陰なのです。多くの日本国民が、森さん達の発明で極めて大きな恩恵を受けています。現在、中国語も韓国語もタイ語もアラビヤ語もまた、自国の言語と文字でホームページが作成出来、さらにインターネットで文章を送ることも出来ます。これら多くの非ヨーロッパ語のワープロは森さん達の日本語ワープロの開発思想そのものが手本になっていると言われています。東芝の森さん達の業績を是非皆さんに、改めて知って頂きたいと思います。
文献
(1) https://www.shinshu-u.ac.jp/institution/library/textiles/docs/Library49.pdf
平成15年(2003年)12月10日 随筆
令和5年(2003年)9月20日 加筆
*なお、冒頭のJW-10 Modesl 2写真は、神奈川県立博物館の下記のURLの物を使わせて頂きました。
https://ch.kanagawa-museum.jp/monthly_choice/2022_01
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