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世界最初のミスコンテストは、平安時代末期の京都で行われていた!絶世の美女常盤御前にまつわるお話

(はじめに)

ミスコンテストは、ほとんどの日本人が、西洋で始まったと信じているようですが、それは間違いです。世界最初のミスコンテストは、平安時代末期の京都で行われました。ウィッキペディアも間違っていて、ミスコンテストは、1888年にベルギーで行われたコンクール・ド・ボーテ(Concours de Bauté = 美人コンクール)が世界最初で、日本で最初に行われた美人コンテストは、明治時代だとしています。しかし、これらは、いずれも間違いです。本拙文は日本最初、ひいては世界最初の美人コンテストは、平安時代に書かれた「平治物語」に出てくるというお話とそれに関連したお話をいたします。

平治物語に出てくる美人コンテスト

日本最初の美人コンテストは、日本の古典に記載があります。これに気づいたのは20年ほど前です。理系の私は一念発起して、日本の古典文学を全て読破しようと、そのころから記紀を手はじめに、源氏物語や平家物語、保元物語、平治物語、義経記などを次々と読んでいました。その中で、平治の乱を扱った平治物語を読んでいた時、大変印象に残ったことが二つありました。

その一つは、美人コンテストが、日本の京の都で平安時代の末期の西暦1150年ごろに行われていたことです。平治物語には、「美人の独身の応募者1000人から、100人の美人をまず選び抜き、さらにその中から10人の美人を最終選考で選りすぐって、宮中女官(雑仕女:ぞうしめ)として採用した。この選りすぐりの美人10人の中でも、一番美しかったのは、常葉(ときは)という15歳の女性だった。」ということが載っています。これは、今でいうミスコンテストに他なりません。しかしながら、昨今のウィッキペディアには、日本で最初の美人コンテストは、明治時代だと書かれています。「平治物語」を読んだことのある私は、そんな馬鹿なと思いました。そんなのは、日本の古典を読んでいないからだと、私はすぐ思ったのでした。また、これは世界最初の美人コンテストでもあります。したがって、ウィッキペディアの記述は間違っています。このような間違は、日本の古典を、日本人も西洋人も読んでいないからでしょう。幅広く古典を読むことは、正しい歴史を知ることにつながることを実感した次第です。

きらきらなる采女

大和朝廷が成立した初期のころから、宮中に使える采女(うねめ)、のちの雑仕女(ぞうしめ)と言われた女官の応募条件は、昔から「きらきらなること」、つまり「美人であること」との規定がありました。したがって、大和朝廷が成立したころから、全国で選り抜きの美人を選んで、宮中に、各国から美人を送り、采女として、仕えてさせていたことがわかっています。これ、私は50年以上前の高校の日本史で習いました。

私の郷里讃岐にもある采女の昔話

明治の昔、讃岐の国の辻村東に、若宮さんと呼ばれる小さな祠がありました。田んぼの真ん中にその所だけ、小高い丘になっていてその上に小さな祠がありました。田んぼの邪魔になるのですが、祟りを恐れて、つぶさずに大昔から昭和の初めころまでその小高い丘がありました。言い伝えによると、奈良時代か平安時代のころ、非常に美しい娘がこの地に住んでいて、それを伝え聞いた讃岐の国司が、この娘を采女(うねめ)として都へ送ったそうです。その時代にもすでに、きらきらなるむすめは朝廷に差し出すようにとの法律があったからです。その采女になった娘は、何か落ち度があったのか都で切られて死んでしまいました。その采女の墓としてこの小高い丘に祠が作られ、約1000年もの間、若宮さんとして祭られていたとのことでした。

事件は、この若宮さんで起こりました。明治の中頃、この祠のすぐ近くに住む農家では、長男に嫁をもらったのですが、長男が1年もせずに亡くなってしまいました。子供もまだでした。そこで、両親はこの嫁とまだ若い弟を結婚させて後継ぎとしました。兄嫁と結婚した弟は、結婚するにはまだ少し若かったので、隣近所の男友達からはからかわれたり、うらやましがられたりしていました。嫁はすぐに妊娠したので、友達はこの弟をますます盛んに冷やかしました。弟は、照れてしまい、何気なく、あの腹の子は俺の子ではないと友達にうそを言いました。それを、まわりまわって聞き及んだ妻は、悲憤慷慨して、この子は確かにお前の子なのに、お前の子ではないというのなら、腹を切ってこの子をおろすと言って、この小高い丘の上で、自らかまで腹を切って子供を取り出しました。近所の人たちは大変心配してみんなで介護しましたが甲斐なく、1週間後とうとうその妻も死んでしまいました。隣近所では、「若宮さん」の祟りだと恐れたということです。

昭和に入って、この田んぼの真ん中にある小高い丘は、農業の邪魔になるので、ついに平地にされ今はありません。その地に、戦後、商家が建ちましたが、どうしたことかその家の子供たちが次々と病気で死んだり、交通事故にあうので、近所の人たちが若宮さんの祟りが続いているのではないかと心配しました。まったく若宮さんのことなど知らない新しく移住してきたその商家の人たちに、近所の人たちはこれまで1000年間の事情を話し、隣組全員でお祓いをしたといいます。昭和40年ころの話です。

このように、都から遠く離れた四国の讃岐からも、きらきらなる娘は、宮中の采女として差し出していたことがわかります。この昔話を知っているところへ、日本史の先生から、きらきらなる娘を朝廷に差し出すという法律が、昔あったと聞いて、強烈な印象が、私に残りました。

常盤御前の3人の幼子を連れた雪中逃避行

話がそれてしまいましたので、平治物語に戻します。平治物語を読んでいた時、大変印象に残ったことのもう一つは、次のような、常盤御前の、3人の幼子を連れた雪中逃避行でした。

1000人の美人から選び抜かれた絶世の美女は、常葉(ときは)と上で述べましたが、歴史上では、源義経を生んだお母さんの常盤御前のことです。宮中に勤めていた常葉は、後に、源義朝に見初められて側室となり、3人の男の子を生みます。ところが、源義朝が平治の乱で敗死し、源氏の血を引く常盤御前の3人の男の子は、清盛から殺害命令が下ります。平氏は、源氏を根絶やしにするため、源氏の血をひくものは、子供であろうと全てを探し出して、殺害することになったのです。今でいうジェノサイド(民族の集団殺戮)です。そこで、常盤御前は、雪の中、幼い3人の子を連れて、雪中逃避行を実行します。雪の中、7歳、5歳、1歳(牛若丸:後の義経)の幼子を連れ、京から奈良の方向へ逃げますが、子供を支えきれなくなり、鄙びた農家に助けを求めますが、かかわりになり清盛からの嫌疑がかかることを恐れて、皆戸を閉ざして入れてくれません。雪の中とうとう凍え死にそうになった時、ようやくある農家の老夫婦が、あまりの惨状を見かねて、家に迎え入れてくれ、子供たちが囲炉裏にあたれるようにして、また食べ物も出してくれました(注1)。
 私は、このところを読んで、私の父母が、5歳と2歳の幼い兄2人を連れて満州から大逃避行をしたときのことを思い出しました。昭和20年8月9日ソ連が日ソ不可侵条約を破って攻めてきた満州国牡丹江市から、命からがら、父母は幼い2人の兄を連れて、ハルビン、安東(現丹東)、ソウル、釜山へ、大逃避行をして、9月1日にようやく日本に生きて帰ってきました。一日でも逃避行が遅れれば、おそらく一家全滅していたことでしょう。そして、戦後私が生まれることもなかったと思います(注2)。なので、この「平治物語」下巻第6章に描写された、この常盤御前が幼子3人を連れて雪中逃避行をしたときの惨状や気持ちを思うと、読みながら涙が出ました。
 ジェノサイドの恐怖がいかばかりか、平和な現代の日本人には想像ができる人が極めて少なくなってしまっていると思いますが、今一度、常盤御前の雪中逃避行や、満州での引き揚げ者の悲惨な逃避行の歴史を知ってもらいたと思います。そして、現代でもどこかの国で行われているジェノサイドの恐怖に、日本国民は鈍感になってはいけないと思います。

(おわりに)

以上、平安時代末期の京都で行われたミスコンテストで、絶世の美女として選ばれた常盤御前のお話でした。これが日本で最初のミスコンテストで、また、世界最初のミスコンテストでもあります。ウィッキペディアの記述は、間違っており、正しい歴史をぜひ知っていもらいたいです。また、常盤御前が、平家が源氏を絶滅させようとした中、幼い3人の子供を連れて、雪中逃避行をしたことも、現代の、ジェノサイドの恐怖を身近に感じるよすがとなると思います。


*冒頭の図は、常盤御前雪中逃避行の浮世絵です。
歌川国芳、「賢女烈婦伝」 「常盤御前」
https://data.ukiyo-e.org/metro/images/H013-022.jpg


令和4年(2022年)2月11日(皇紀2682年建国記念日)随筆


注1:ご参照「平治物語」下巻第六章附、常葉が落ち延びること
注2:ご参照「20世紀の記録として残しておきたいこと」         http://www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/f1.htm

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