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国語の成立と国語の近代化 外国からの植民地支配との戦い-ギニア、インドネシア語、日本語、中国語、韓国語の場合

(はじめに)


 
皆さん国語って、自然に出来たと思いますか?
 
国内に多数の民族や部族が存在したところでは、全ての民族を政治的に統一した国家がない所が多く、そのような所では国内で統一言語(=国語)は制定できていませんでした。このように国語が制定・普及していない所は、ほとんどが大航海時代以降、西洋列強に植民地にされていきました。
 
植民地経営をするとき、たとえば大英帝国は、民族対立をあおって、言語統一させず、大多数の原住民に教育も受けさせず、複数の民族が一致団結して植民地から独立できないようにしました。極少数の非常に優秀な現地人には、高等教育は宗主国の言語で行い、宗主国と大多数の現地語しかしゃべれない原住民との間の中間管理職として植民地経営に用いました。この言語政策が原住民の反発をそらせる植民地経営の一般的手法の一つとなっていました。したがって、植民地時代、国語というものがないところでは、政治や経済上の共通使用言語は、宗主国の都合のよい英語やフランス語とならざるを得ませんでした。では、独立後には自分たちで国語を制定すればいいのではないかと誰しも思うかもしれませんが、独立を勝ち取った後でも、英語やフランス語を使っている国が大多数です。それは独立後も民族間の対立が克服できずどれか一つの民族語を国語とするのが非常に困難で、そのため全国で通用する高等概念を表す国語が制定できなかった所が非常に多いからです。
 
現在、高等教育が出来る言語は、世界中で10語しかないと、昔NHKの教育テレビ(現在のEテレ)で、国語学者の金田一春彦先生が、おっしゃっていたのを思い出します[1]。全世界でいくつ言語があるかというと約7000もあるのだそうですが、その内、大学や大学院の講義ができるのは、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、オランダ語、ロシア語、・・日本語の10言語だけなのだそうです。なぜかというと、哲学、法律、経済、物理、化学などの高等概念を表す言葉が、この10語以外の言語では表せないからだと言います。つまり、これらの言語を使う国以外では、一つの国の中に複数言語があっていまだ国内で統一されておらず、全国的に通用する統一言語すなわち国語がない、あるいは国語があっても、高等概念を表す単語が全くないからです。このような自国の国語がない国々は、昔は、植民地だったところがほとんどで、独立後も引き続き、旧宗主国の英語やフランス語で教育を続けざるを得ないのが実情です。
 
実は、国語というものは、どこの国においても、建国に際して人工的に努力して作るものなので、自然にできるものではないのです[2]。本拙文では、国語の成立と国語の近代化という、普段日本人だと考えた事もないお話をしてみたいと思います。本拙文では、古今東西、外国からの植民地支配との戦いを、ギニア、インドネシア語、日本語、中国語、韓国語などの言語を通してみてみます。そして、昨今自信を失いかけたわれわれ日本人が、強靭な国語として日本語というすばらしい武器を持っていることをぜひ再認識して、今後も日本の発展に自信を持って貢献して頂く一助となれば、大変嬉しいです。
 

(1)ギニアの場合


 
まず、最初にギニアの例を見ると、国語の制定が非常に困難なことが、よくわかるでしょう。
 
いやいや、ギニアなんてどこにあるか知らないし、そんな国聞いた事もないと、無関心な方が多いのではないでしょうか。しかし、サンコンさんの出身の国といえば少しは身近に思えるかもしれません。現在、日本におられるこのギニア出身のオスマン・サンコンさんのことは知っている方が多いのではないでしょうか。イッコン、ニコン、サンコンで~すという自己紹介で笑いをとる明るい方ですが、この方、実は超優秀で、ギニアから、選ばれてフランスのパリのソルボンヌ大学に国費留学して卒業し、6か国に堪能で、帰国後は、ギニアの外交官となり日本に初めてギニアの大使館を開いた方です。現在(2024年)75歳で、日本に在住でギニア大使館顧問、タレントをされています。サンコンさんはなぜフランス語で高等教育を受けたのでしょうか。ギニア語はなかったのかという疑問がわいてきます。
 
そこで、ここでは、まず、このギニアが国語を制定しようとして、結局うまく行かなかった歴史を例として見てみることにします。
 
先日(2024年7月18日午前7:30~)のNHKラジオの語学番組、「まいにちフランス語、フランコフォニーとは何か(第29課)」を聞いていましたら、非常に示唆に富む次のような話をしていました。
 
この回の放送では、「ギニアとフランコフォニー国際機構」という主題でした。
 
通称ギニア、正式名、ギニア共和国は、アフリカの西部にあり大西洋に面しています。セネガル、ギニアビサウ、マリ、シエラレオネ、リベリア、コートジボワールと国境を接し、人口は約1400万人で、首都はコナクリです。 ギニアは旧フランス植民地で、1958年に独立しました。
 
また、フランコフォニーとは、フランス語を話す国々を指し、フランス語圏という意味です。したがって、フランコフォニー国際機関 (Organisation Internationale de la Francophonie = OIF)は、フランス語を話す旧フランス植民地を中心にした文化・経済のブロックを言います。イギリスを中心にしたブロック、英連邦のフランス版といえます。
 
ギニアは、このOIFの設立メンバーではありませんでしたが1981年に加盟しました。独立したのが1958年ですから、23年も経ってから加盟した理由は次のような事情があったからです。
(i)            ギニアのセク・トゥーレ大統領は、フランスと旧植民地がOIFによって関係強化すると「またフランスから搾取されるのではないか」という強い不信感を、フランスに抱いていました、
(ii)          ギニアは独立から25年間、国内にある7つの言語を国語にする努力を推し進めました。かなりの成功を収めましたが、フランス語の代わりにはいずれもなりませんでした。それは、多数の言語があるので、共通の媒介語(langue baiculaire)=共通語としてフランス語を使わざるを得なかったからです。国民のほとんどが、ムスリムなので、アラビア語も国語にしようとしましたが、聖典コーランに使われているアラビア語は学者の言語にとどまり、国語とはなりえませんでした。
(iii)        隣国のセネガル、マリー、コートジボアールではフランス語が使われており、ギニアの国境付近の住民は、これらの国々と商取引する際には、どうしてもフランス語を使わざるを得ませんでした。したがって、フランス語は経済的、政治的指導者にとって非常に重要な言語でした。
以上のような理由や経緯があって、ギニアは国語の制定がうまく行かずフランス語も無視できないことから、独立から23年も経ってからとうとうOIF加盟したのです。
 
多数の言語が国内にあった場合、統一言語を制定し、国語にするのは、このギニアの例を見ても、非常に困難であることがわかります。
 

(2)インドネシアの場合


 
次に、独立後国語の制定に成功したインドネシアの例を見てみます。なぜ、インドネシアは国語の制定に成功したのでしょうか。

インドネシアの正式名称はインドネシア共和国ですが、皆さんよくご存知のように、インドネシアは東南アジアの大国です。 東西約5100kmに広がる17,000もの島々からなる国で、人口約2億7千万人。首都は、ジャワ島のジャカルタで、2045年までにボルネオ (カリマンタン) 島に遷都する予定です。多民族国家で、民族語は250種以上とも320種以上とも言われています。約340年間オランダの植民地でしたが、1942年日本がインドネシアに侵攻してオランダを追い出し、1945年の日本の敗戦までの約3年間、日本による軍政が敷かれていました。
 
インドネシアの独立とインドネシア語の制定には、日本が非常に関係しています。
 
340年間もオランダの植民地だった時代、オランダはインドネシアの民衆が結束しないよう、統一言語(国語)を作ることを禁じ、一切の集会を禁止してその禁止を破ると「反乱罪」で処罰しました。さらに、原住民には教育を施さないという愚民政策を取りました。また、オランダは、インドネシアに在住する華僑に経済の流通を一手に担わせ、インドネシア原住民を搾取する手段としました。これは民族間の対立を利用した植民地経営の常套手段でした。
 
一方、3年間の日本軍の軍政時代、日本は原住民の教育機関を多数作り、青年には軍事訓練を施しました。日本の軍政時代の経済運営には、現地の習慣などを無視した施策で失敗が多く現地の人には支持されませんでしたが、広範な教育施設の設置などの教育行政は、インドネシア語の普及や軍事訓練による独立自尊の精神の大幅向上に役立ち、インドネシアの人々に支持され、独立戦争の大きな原動力となりました。オランダの植民地時代から民族独立運動をしていた、スハルトやハッタら多くの独立運動家たちは、オランダによって逮捕投獄されていましたが、日本の軍政が始まった時に、日本は彼らを釈放して自由の身とし、インドネシアの行政に協力してもらいました。そして、1945年8月17日の、ハッタ立ち合いのもとスハルトがインドネシアの独立宣言を行った時の式典には、数名の日本人も同席していました。このように、日本が、オランダとは違ってインドネシアの独立を支持して、協力をしていたことがわかります。戦前の日本の大東亜共栄圏構想の大義名分は、アジア(=大東亜)を欧米列強の植民地支配から開放する事でした。戦後、GHQによる東京裁判史観により一方的に日本が悪いとされていますが、それは、誤りです。戦後教育を受けたものは、この日本によるアジアの植民地解放という大義名分の歴史を教えられていないので、全く、歴史を誤解しています。
 
その証拠に、1945年8月15日の日本の敗戦直後、ジャワにあった日本海軍武官府からの支援もあり、8月17日にいち早くスハルトによるインドネシア独立宣言が出されました。これは国際法を熟知していた日本軍人のアドバイスがあったからだと言われています。旧宗主国が戻って来る前に独立宣言をすれば、再度植民地化されないとの国際法があるとのことです。しかし、旧宗主国のオランダは、独立宣言を無視して再び植民地にしようと侵攻してきたため、インドネシアの人々は一致団結して4年間、独立戦争を戦いました。これには、独立を支持する旧日本軍の軍人・軍属3000人がこの戦争に自主的に参加し、その内約1000人が戦死しました。4年後、再植民地化を企てるオランダに対する国際的な非難が高まり、最終的に、アメリカの圧力によって、オランダはインドネシアの独立を認めざるを得なくなりました。これにより、インドネシアは、晴れて独立国となったのです。もし、日本軍人の間で広く共有されていたアジアの植民地解放という大義名分の信念がなかったら、このように、旧日本軍の軍人・軍属3000人もの人達がこの独立戦争に自主的に参加したり、約1000人が戦死するまでオランダと戦ったりする精神的原動力が日本人にはなかったはずです。現在の日本やインドネシアの歴史教科書に、このことが書かれていないのは、大変残念です。
 
インドシナ半島のベトナム、ラオス、カンボジアでも日本軍人が多数現地に残留して、旧宗主国のフランスからの独立戦争に参加したことが解っています[3]。彼らもまた、アジアの植民地解放という大義名分の信念を持ち、現地の人々とともに、フランスと戦っています。
 
インドネシアの話に戻ります。スハルトの独立宣言後のインドネシアの方針の一つとして、国語の制定があります。この方針では、インドネシアにはたくさんの言語があったにもかかわらず、ある一つの有力な民族語を選んで国語とすることを敢えてせず、それまで港々の間で商業言語として使われていたマレー語をもとにしたインドネシア語を国語とすることに、決められました。それは、ある一つの民族語を国語とすると、その民族がどうしても優遇されてしまうので、全くどの民族にも関係ない言語を国語と決めたとのことです。インドネシアでは、日本の軍政の間に、日本軍政当局は、著名なインドネシア人文学者を動員して「インドネシア語整備委員会」を設置し、インドネシア語の体系化が図られました。この委員会では、高度な概念を表す単語がインドネシア語にない場合には、インドネシアの優秀な青年たちが外国語からその概念語を作り出し、インドネシア語の近代化を図りました。そして、独立後も、このインドネシア語を国語とする方針を貫きました。
 
このようにして、インドネシアは、国語を制定することに見事に成功しました。高度な概念などは、サンスクリット語、アラビア語、ポルトガル語、オランダ語、英語などから借用語(外来語)で賄っています。そのため、インドネシア語は、極めて柔軟に外来語を取り入れる事が出来る言語となっています。そして、世界一習得が簡単な言語といわれています。これが、インドネシア語の近代化に、非常に貢献しています。
 
因みに、マレーシア語も同じマレー語(現地呼称=ムラユ語)をもとにした国語が人工的に作られました。マレーシア語もインドネシア語とほとんど同じように、沢山の外来語を、特に英語から取り入れて、国語の近代化に成功しています。
 
東南アジアで、いま白人の国がないのは、日本の軍政時代の国語制定の後押しと教育重視の政策が大いに貢献しています。このように国の独立には、国語の制定とそれによる教育の普及が必須であることがわかります。欧米列強の植民地時代の愚民政策とは真逆で、世界史上稀なことです。日本人はこのことをもっと誇りを持って世界に主張すべきだと思います。
 
ここで、この国語の近代化ということについて考えてみます。それは、日本語を例にすると一番わかり易いと思いますので、次に、日本語を取り上げます。
 

(3)日本語の場合


 

(3-1)日本語の成立


 
上のギニアやインドネシアの例を見てわかるように、国語というものは、天然自然に存在するものではなく、建国に際して人工的に努力して作り出すものです。日本語も例外ではありません[2]。
 
日本列島には、縄文時代からたくさんの民族が住んでいて、民族ごとにそれぞれ違った言語が話されていたと考えられますが、黒曜石や、勾玉、貝で出来た腕輪などの各地の特産品が、広く交易されていました。特に勾玉は、7000年前もからの糸魚川特産の宝石で、北は北海道礼文島から、南は沖縄の八重山諸島竹富島[4]まで、さらに韓半島の南部からも見つかっている[5]ほど、広範囲に交易されていました。したがって、交易の時に、共通で理解し合える何かしらの商業言語が、この地域つまり日本列島と韓半島にあったと考えられます。また2100年ほど前の紀元前108年からは、前漢の武帝が古朝鮮を滅ぼし、韓半島に漢の出先機関の楽浪郡を置いて、シナ大陸と韓半島および日本列島との間にも交易が始まりました。この時の共通の商業言語は、岡田英弘先生によれば、発音は正しく出来なくても、符丁のようにお互い意味が理解できる漢字を用いたものだっただろうと言います。したがって、このころは、この地域では漢語、百済語、新羅語、任那語、縄文語系の各言語が、入り乱れていましたが、ともかく交易には、お互い発音が違っていても、意味がわかる表意文字の漢字を使っていたのだろうということです。それから400年ほどたった仁徳天皇のころには、日本列島には強力な王朝ができ、日本列島と韓半島を合わせて武力で初めて統一しました(391年) [2]。しかし、その後、韓半島では、高句麗が南下してきて、だんだん日本の勢力は南方に追いやられ、任那日本府のあたりだけになりました。さらに後の553年に任那日本府も滅び、次いで唯一日本の同盟国であった百済も、660年に、唐と新羅の連合軍により滅ぼされました。日本は、日本にいた百済の皇子を立て、百済を再興するために、日本から百済に援軍を送りますが、663年10月(天智2年8月)白村江の戦いに敗れて、とうとう韓半島からは日本の勢力はなくなってしまい、韓半島は新羅が統一します。
 
岡田英弘先生によれば、この7世紀の国難の時に、唐や新羅に対抗するために統一言語の日本語(=国語)が誕生したと言います[2] 。しかしながら、4世紀末の仁徳天皇のころ、全国から集めた軍隊を韓半島に派遣して、大規模な軍事行動を行っていますから、このような大作戦には、何らかの共通語か統一言語(国語)がなければ行えなかったはずです。したがって、7世紀より前から日本語は成立していたものと考えられます。統一言語の国語がなければ、大勢の兵隊の指揮命令が出来ないはずです。そのため、私は、日本列島に統一言語の国語が成立したのは、7世紀よりももっと早く、おそくとも4世紀のころだったと、考えています。
 

(3-2)国語の近代化第1期


 
ただ、白村江での敗戦の後、唐と新羅が大挙して、日本に侵攻してしてきて、日本は、唐や新羅に併呑される虞があったのは、事実でしょう。そこで、天智天皇のころの7世紀からは、日本は、急速に国家の制度を整えて、外国からの侵略に備え、もっと強靭な統一国家に脱皮する一連の努力を始めました。政治・経済の制度は、隋や唐の律令制を取り入れ、また各地に国分寺・国分尼寺を創設して、そこで、高等教育を全国に行き渡らせました(741年の聖武天皇の国分寺・国分尼寺建立の詔)。そこでは、哲学、法学、文章学、数学、天文学、音楽などが講義されました。講義は、すべて漢語かサンスクリット語で行われました。なぜなら、文字による日本語の表記法がまだなかったのと、そのような高等教育を行える教科書は、漢語やサンスクリット語のものしかなかったからです。その頃の日本語はまだそのようなレベルだったのです。
 
そこで、日本語の表記法に関しては、各地の国分寺や、その総本山の奈良の東大寺では、隋や唐の留学から帰ってきた僧や官僚などが、徐々に考え出し、まず万葉仮名を発明し、漢文ではなく日本語を文字で表せるようにし、日本語の近代化が図られていきました。近代化された日本語があれば、行政上や軍事上の命令書が、漢文だけではなく日本語ででも伝達できるので、迅速に国家の統一と結束を図る上で日本語の表記法の確立は非常に重要な課題だったのに違いありません。万葉仮名からさらに平仮名や片仮名も、10世紀までに発明され、日本語の表記法が確立します。この当時に、漢字仮名交じり文が、日本語の表記として定着していきます。そして、男性は、漢文を読み書きすることが教養として求められましたが、女性は、漢字仮名交じり文で書くことが普通とされました。なので、紀貫之が934年に書いた有名な「土佐日記」には、「男もするなる日記といふものを、女もしてみんとてするなり」と書き出しています。平仮名は女文字だから、私は本当は男だが女を装って、この日記を漢文ではなく日本語の漢字仮名交じり文で書いてみたということです。紀貫之は、日本語の近代化に大きな貢献をしました。その後、源氏物語などの平安の日本文学が花開きます。
 
以上の様に7世紀から10世紀の間に、日本語の文字化が確立しました。そして、漢語やサンスクリット語から高等概念を表す言葉をたくさん取り入れて、高度な概念を日本語で表せるようになりました。この時期が、国語の近代化の第1期だと考えられます。この平安時代に確立した日本語の漢字仮名交じりの正書法は、明治維新までのほぼ1000年間、今でいう「くずし字」として脈々と受け継がれ、この期間に書かれた古文書は、文学、歌集、行政文書、商取引記録文書などとして、今も日本国内で膨大に残っています。
 
ただ、「くずし字」の平仮名は、一つの音に複数あって、学びにくいため、文部省は、明治7年に一つの音に一つの平仮名と定め、全国民が学びやすいようにしました。例えば、「い」という平仮名は、元は以という漢字(=字母)の草書体ですが、その他にも伊、移、意などの漢字の草書体もそれまでは使われていました。これらは現在では変体仮名と呼ばれています。このような明治以前の変体仮名を含む「くずし字」の古文書を読む事が出来るのは、現在では全国で5000人しかいないと言われています。それでは、過去の日本の歴史が解らなくなってしまうので、現在でも、各市町村の教育委員会などでは、古文書の会などを設立して、普及に努めています。
 

(3-3)国語の近代化第2期


 
しかしながら、明治7年の文部省の一音一字の平仮名書体表の制定は、全国に尋常小学校を設立して全国民に教育を行き渡らせるうえで、大きな弾みとなりました。日本の識字率は昔から世界的にも非常に高く、漢字の草書体や変体仮名を使っていた江戸時代でも60-70%でしたが、平仮名が一音一字になった明治以降は99%です。(1)で述べたギニアでは現在でも識字率は37%ですから、いかに全国統一言語の国語の制定と義務教育の普及が、国力の源泉になるかということがわかります。
 幕末には蘭学が流入し、明治維新以後はさらにイギリスやフランス、ドイツからの学問も流入にして、今度はヨーロッパからそれまでにない新しい概念や制度を大量に受けいれるという状況変化が起こりました。この西洋文明を受け入れるため、新しい漢字語を大量に作り出しました。民主主義、議会、通信、産業、法律、体育、保険、建築、哲学、芸術、理性、科学、技術、心理学、意識、知識、概念、帰納、演繹、定義、命題、分解……[6]、これら夥しい数のヨーロッパ語の訳語は、すべて、明治時代に、福沢諭吉、西周などの先人によって新たに日本で作られた和製漢語なのです。日本語は、ここでもう一段高度化され再び近代化されました。今日の日本人や中国人がこれらの和製漢語を使うことなしに、生活を営めないほど膨大です。因みに、中華人民共和国という中で中華以外はすべて和製漢語なのです。朝鮮民主主義人民共和国も、朝鮮以外はすべて和製漢語です。したがって、これらの和製漢語がなければ、中国も北朝鮮も、自国の正式名称すら表す事が出来ないという事になります。このように、第2期の日本語の近代化は、周りの国にも多大な影響を与えていることがわかります。
 また、日本語の文体にも大きな変化がみられました。二葉亭四迷の「浮雲」を嚆矢とする言文一致の小説は、その後の日本語の文体の近代化に大いに貢献しました。それまでの日本語は、文章に書かれる文語と口頭で話される口語とはかけ離れたものでしたが、二葉亭四迷は本格的西洋文学の理解をもとに「日本最初の近代的小説」と評される言文一致の小説「浮雲」を書きました。その後も明治の文豪といわれる夏目漱石や森鴎外らが、言文一致の名作をつぎつぎと新聞に発表したので、今の日本語が、全国的に定着したと言われています。
 このように、明治維新以降、和製漢語の発明と、言文一致の文体の推進が、国語の近代化第2期といえます。
 
以上のように、日本語は7世紀から10世紀にかけて、漢語と大和言葉を同時に用いる漢字仮名交じり文で、第1期の国語の近代化が行われ、明治期には、大量の和製漢語の発明と言文一致の推進で、第2期の国語の近代化が行われたことがわかります。このことから日本語は、外国語から大量の外来語を取り込んで、それまでにない概念を豊かに表現することが自国語で出来る様になっています。
 
このように日本において古代と近代の2度大規模に行われた「外国語から柔軟に外来語を自国語に取り入れることによる国語の近代化」は、第2次世界大戦後のインドネシアやマレーシアでも行われて成功しています。このことは、世界中で、今も旧植民地支配の後遺症で苦しんでいる多くの国々にとって、大きなヒントになるでしょう。
 

(4)中国語の場合


 
中国語については、岡田英弘先生の書かれた本「シナ(チャイナ)とは何か」が非常に参考になります[7]。
 
中国語というと真っ先の漢字が思い浮かびますが、漢字で書かれた漢文は、文字言語であって、話し言葉ではありません。そして、現在中国語といっているものは、一つの統一言語ではなく、129種類の方言を含んだもの全体をさします。中国語の方言を大別すると次の七つになります。
1. 北方語(ほっぽうご)_北京周辺で話されている方言、普通話とは違い別物
2. 粤語(えつご)_広東語ともいわれ、広東省の広州市や香港、マカオで話されているもの
3. 呉語(ごご)_上海・蘇州の方言
4. 贛語(かんご)_南昌の方言
5. 湘語(しょうご)_長沙の方言
6. 閩語(びんご)_福建省、台湾、閩語の一方言に閩南語がある
7. 客家語(はっかご)_戦乱を逃れて各地に分散した人々の中国語で、最も古い方言といわれているもの。客家は独特な環状集合住宅で暮らす。
 
これらは方言とはいいますが、お互いにほとんど通じず、ヨーロッパだと英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語みたいな別言語といってもいいものです。声調の数が違ったり、漢字の読み方が違ったりします。それで、これらの方言の口頭言語で中国人同士意思疎通できません。そのため、書き言葉の漢字で、2200年間のお互いに意思疎通をすることが一般的でした。中国人というのは、端的に言うと、漢字という文字言語を使って意思疎通をする諸民族で、口頭言語はずっと統一されてものはなかったのです。興味深い次のような実例があります。戦後、大陸の中華民国は国共内戦に敗れて台湾に逃げ込み、台湾で中華民国を維持しました。この初代中華民国総統が蒋介石です。その夫人の宋美齢さんと、台湾出身の李登輝さんは、お互いの中国語方言が通じないので、台湾の政策につて英語で話したと言います[8]。このように方言間の違いが大きすぎて、意思疎通ができないので、現在、シナ大陸では北京語の発音を基本にして、普通語(プートンフォア)という共通語を定めて学校で教えています。台湾では、台湾語(=閩語)が国語と定められています。
 
ここで注意しないといけないのは中国語の中の中国という表現です。実は、中国という国名は、孫文の辛亥革命の時に成立した革命政府が、清王朝と戦うために、それまでなかった国名が必要ということで、初めて中華民国という名前を付けたものなのです。秦は西戎の建てた国、隋と唐はトルコ系鮮卑族が、元はモンゴル人が、清は満州族が、それぞれ建国した王朝です。漢と明の2つだけが漢民族の建てた王朝です。したがって、中国人という民族はもともとないのす。そして人種もばらばらであっため、2200年間この地域を表すのは、王朝名しかなく、中国などという言葉はありませんでした。それで、この地域全体は「シナ」と呼ばれていました。なぜなら、この地域を初めて秦の始皇帝が紀元前221年に統一して秦王朝を作ったので、この秦にちなんで、この地域全体を昔から世界的に、印度で「チーナ」、ペルシャ語で「チーン」、英語で「チャイナ」、フランス語で「シーヌ」、ドイツ語ので「ヒーナ」、日本語で「シナ」と呼んでいます。したがって、中国という国や中国人という民族が昔からあったように誤解されるので、岡田先生は、著書の中で「シナ」という呼称を終始用いておられます[6]。
 
戦後、在日華僑がどういう訳かGHQに「シナ」は差別用語だから使うなと、訴えたのが、日本で「シナ」という呼称の自粛の発端です。当時、アメリカ人にも日本人にもそれがどういう根拠かさっぱりわからなかったですが、まあ、相手が嫌がっているのだから訴えているようにしてあげようということで、日本の外務省の事なかれ主義から、昭和21年の外務省通達で、自粛が始まりました。でも、今も世界中で「シナ」という呼称が使われているのに、日本語の「シナ」だけが差別用語なんていうのは、全く根拠のない話なのです。李登輝さんも同じことを言っておられます[8]。
 
したがって、岡田英弘先生と同じように、ここでは古代からこの地域全体を指していて便利な「シナ」という名称を使います。
 
漢字が出来たのは、紀元前14世紀に建国された殷ですが、殷は小さな領域を占める小国で、その周りには、いろんな言葉を話す多数の異民族が取り巻いていました。このようなシナ大陸を、紀元前221年に初めて秦の始皇帝が統一して、秦王朝が建てられたのは既にうえで述べました。この秦の始皇帝は、実に様々な画期的なことを行いました。その一つに、新しい統一王朝を維持するために、政治の力で強制的に、漢字の字体統一と一字一音節に発音も統一ということを行いました。この結果、読みの音は、漢字の意味を表す言葉ではなく単なる符丁となってしまいました。
 
そこで、漢字の音には意味がなく、漢字は、人々の口頭言語のとして通話に用いる漢語ではないのです。なぜ、そのような事になったかというと、もともと、シナ大陸にはたくさんの民族と言語が存在し、お互いに交易する時に、発音が違っても意味を表す表意文字の漢字を使っていました。いわゆる商品の符丁のような役割でした。交易する場所として、まず、城壁に囲まれた都市を作り、その中に市場を作ります。東西南北に門を設置し、朝、時間になれば開門して、周辺から集まった商人の入城と商品を搬入することを許します。各民族が異なる言語を普段使っていても、城内では、漢字さえ用いれば、お互いが理解できて商売が成り立ちました。夕方になると閉門して商人や商品を場外に出します。ここでの商人の収益の一部は、税金としてシナの皇帝が取ります。城郭都市の中は、皇帝の派遣した兵隊が駐屯して警護します。このような城郭都市が、シナ大陸では、最初、洛陽に作られ、その後、各地に河川や運河沿いに、沢山の城郭都市がその支店として作られました。そのような地方の城郭都市でも、洛陽と同じように朝開門し夕方閉門して、その間周辺からの商人が場内で交易することを許しました。シナ大陸では、秦の時代からずっと、皇帝は、総合商社の社長のような存在で、洛陽が本店、各地方の城郭都市が支店のような存在でした。したがって、シナ大陸では、城郭都市のそとは原住民が住んでいるところで、城郭都市の中だけが、皇帝が支配する所でした。点と点を結んだ総合商社が、皇帝が治める王朝でした。現在の、近代国家とは全く異なる概念であったのです。近代的な国境という概念はなく、各城郭都市のそとには、皇帝に交易の参加を許された周辺民族が住んでいるという考え方でした。このような構図の中では、漢字の意味さえ解って使えれば交易が成り立ったので、漢字の発音はどうでもよく、漢字というのは視覚言語、文字言語というものだったのです。
 
したがって、漢字を並べてお互い意味さえ分かればよいので、漢文には、名詞や数や格、動詞の態や時制を分ける方法がありません。同じ漢字でも、名詞にも動詞にも形容詞にもなり、一定の語順というものがありません。つまり驚くべきことに、漢文には文法がないのです。解読の手掛かりは、膨大な古典の暗唱で、過去の用例を覚えていなければ正確な解読が出来ないという欠点がありました。日本人は漢文を見て「返り点も何もない白文を、中国人はすらすら読むのだから大したものだ」と思いがちですが、実はほとんどの中国人にっとって、白文は日本人と同じようにチンプンカンプンなのだそうです[7]。このような漢文の解読ができる優秀な人材を選び抜いて本店や支店の経営に当たらせるため、シナ大陸では。1904年までの1300年間、官吏登用試験の「科挙」というものが行われていました。官吏登用試験に合格して出世するためには、膨大な古典をひたすら覚えることが求められました。このため、シナ大陸は、新しいものを創造するという、革新が非常に遅れ、旧弊を墨守する社会が長い間続いて停滞してしまいました。
 
しかし、阿片戦争(1840年)でイギリスに敗れ、また、同じ、漢字文化圏の日本にも明治27-28年(1884-1885年)の日清戦争で敗れてから、旧弊を打破して社会の刷新を行うため、中国語の大改革が行われました。それは、日本の和製漢語を大量に輸入して、西洋列強の知識を導入したのでした。日清戦争の翌年の明治29年(1906年)から4半世紀の間に、シナから日本への留学生は10万人に達したと言われています。この留学生たちが、和製漢語を習得して大量に本国に持って帰り、中国語の近代化を図りました。ただ、和製漢語を用いても、まだ、漢文には文法も品詞もないので、西洋の新しい概念や論理を正しく書き表すことがそのままではできませんでした。そこで、文法や文体も日本語をお手本に改善されました。所有を表す日本語の「~の」に当たる文字として「的」、位置を表す前置詞的な「~に」は「在」や「里」などの文字を入れることになりました。さらに句読点を入れたり、横書きにしたりするようになったのも日本語の影響でした。また、日本語にならい「西洋化」の「化」、「機械式」の「式」、「生産力」の「力」、「価値観」の「観」、「劣等感」の「感」、必然性の「性」などの文字を使って語彙を増やしていきました。こうして、今までと比較にならない程、中国語は表現力が向上し、緻密さと論理性が加わるようになったのです。現在の中国語の7割が和製漢語だと言われています[6, 7, 9]。このように、中国語の近代化は、日本語の影響で成し遂げられました。
 

(5)韓国語(朝鮮語)の場合



  朝鮮半島は、皆さんよくご存知のように、1910年の日韓併合から1945年の日本敗戦までの35年間、日本は朝鮮半島を植民地支配しました。正確に言うと、日本と韓国は合邦(合併)したので一つの国になったという意味で、欧米の植民地とは異なります。1910年当時の朝鮮半島では、識字率が極めて低く(6%[10])、ほとんどの民衆は字が読めませんでした。なぜなら、支配階級の両班(りゃんばん)は、漢文を書くものとされ、習得が容易なハングル(朝鮮仮名)は、女性が使う品のない文字、諺文(おんもん)と蔑まれていてほとんど使われていませんでした。そのため、国民の大多数の一般民衆は字が読めませんでした。しかしながら、日韓併合後、朝鮮総督府は、戸籍を作り、それをもとに、多くの小学校やその他の高級学校を全国各地に設立し、民衆の教育に力を入れました。また、最高学府の京城帝国大学も1924年(大正13年)ソウルに設立しました。小学校生には、韓国人の母国語の教育には「漢字ハングル交じり文」を奨励して教育した結果、日本統治時代に、全国民に「漢字ハングル交じり文」での表記が用いられるようになりました。このように、日本は、欧米のような愚民政策はとらず、朝鮮半島でも、インドネシアの軍政と同様、教育重視の政策を行いました。「漢字ハングル交じり文」による教育は朝鮮半島の近代化に大きく貢献したことは大いに注目されて良いと思います。
 ところが、韓国語の場合は、戦後、上で述べた中国語の和製漢語積極導入とは全く逆の国語の改悪が行われました。それは、和製漢語の排除を目的に、戦後の1970年に朴正煕政権が漢字廃止宣言を行い、漢字を一切使用禁止して、ハングル(朝鮮仮名)だけにしました。そのため、ハングル表記だけでは同音異義語の区別がつかなくなったりして、表現の緻密さと論理性に、問題が生じてきています。韓国語の7割は、漢字由来なので、漢字を放棄してしまうと同音異義語の区別が全くできなくなってしまい、特に医学の分野で大変大きな問題となっているそうです。例えば、陣痛と鎮痛は、韓国語では同音異義語なのですが、若い医師には漢字が読めないので区別が出来なくなったと、老医師は嘆いているとのことです。陣痛と鎮痛を取り違えてしまうと医療では大変な事になってしまいます。また、もう一つの問題として、新羅による韓半島統一以来の1300年間に残された漢文の歴史的文献の古文書や、つい数十年前の「漢字ハングル交じり文」で書かれた韓国語(朝鮮語)のが、全く読めなくなっており、若い人が自国の歴史が解らなくなっていっています。
 韓国で12歳まで漢字を習い、中学になってから、漢字はもう習わなくてよいと先生に言われたという経験を持つ歴史研究者の呉善花さんなどは、漢字廃止の悪影響を大変憂いておられます。のちに来日して日本に帰化した呉善花さんは、韓国は漢字をもう一度採用しないと、国民の知的レベルが低下するのではないかと警告されています[11]。そこで大阪生まれで後に韓国に帰国して韓国大統領となった李明博が、一時漢字使用を復活させましたが、左派の文在寅大統領の時、また漢字使用が禁止されてしまいました。
 上で述べた、インドネシア語、日本語、中国語の例を見てもわかるように、外来語の自国語への導入は、国語の近代化に不可欠であり、逆に、もし外来語を排除してしまうと、自国語による表現力の低下を招く虞があります。国語は人工的にどんどん改革していってよいのです。外来語を自由に自国語の中に導入して、豊かな概念を獲得し表現力を上げることは、近代化に不可欠だからです。ヨーロッパでも同じで、現在の英語の7割はフランス語由来です。
 戦後の韓国語の漢字使用禁止の悪影響を見てわかるように、日本は、絶対に漢字を廃止してはいけません。現在、日本は自国語だけで高等教育が出来るのは、1000年から1300年もかかって、漢字仮名交じり表記を採用し、かつシナや西洋からの外来語を柔軟に受け入れ、二度の国語の近代化に成功したおかげなのです。
 

(おわりに)


 
英語が喋れなくてもノーベル物理学賞を受賞した益川敏英先生の例からもわかるように、日本では日本語だけで極めて精緻な思考が可能です。また、アメリカに留学した日本人が、他国からアメリカに留学してきた外国人の友人に、日本人は何で英語がなかなかうまくならないのだろうと嘆いたところ、その友人から、「私の国では、学校教育も外国語の英語で受けなければならず、映画やアニメも、みんな外国語だった。自国語で勉強やアニメや漫画まで全部楽しめる日本がうらやましい。」と言われてハッとしたそうです。そして、日本では、日常生活に英語が必要ないからだと気が付いたと言います。本拙文では、古今東西、外国からの植民地支配との戦いを、ギニア、インドネシア語、日本語、中国語、韓国語などの言語を通してみてきました。これからわかるように、日本語や、インドネシア語のように、外来語を柔軟に母国語に受け入れていく強靭な言語を持つ国が、必ず、今後も発展するものと思います。昨今自信を失いかけた、日本人の皆さん、特に若い皆さんが強靭な国語として日本語というすばらしい武器を我々が持っていることをぜひ再認識して、今後の日本の発展に自信を持って貢献して頂きたいと思います。本拙文が、その一助となれば、私の大きな喜びです。
 
 

(おまけ)


私のイギリスでの経験


<この部分は、以前発表したnote記事:https://note.com/ko52517/n/n6104ce401eb1の再録です。>
 
今、日本の多くの小中高、大学で、英語教育を重視し、それを売りにする学校が増えています。じゃあ、その学校では、日本語教育はちゃんとしているのかと心配になります。大学・大学院までの高等教育ができる言語は世界に10しかない、日本語はそのうちの一つだといわれています。
昔、私がイギリスのシェフィールド大学で講演した時、講演終了後の質問で、(ちょっと専門的ですが)「なぜその金属錯体のトランス体とシス体とは、赤外線スペクトルとラマンスペクトルを測定することで区別できるのですか?」と聞かれたことがあります。私はすぐに、「それは交互禁制律があるからです。」と答えようとしましたが、この高度専門用語の「交互禁制律」に相当する英語は習ったことがなく、とっさに出てきませんでした。高度な概念は、すべて日本では日本語で習って理解しているのです。だったら、もし、英語で大学や大学院の高等教育を受けていたら、すぐに、mutual extinction ruleと答えられたと思いました。しかし逆に、それでは日本語の「交互禁制律」という専門用語は習わないので、日本語でこの専門用語は出てこないでしょう。では、専門用語でもバイリンガルになるために同じ分野の高等教育を日英両方で2度受ければよいかというと、それは時間の無駄でしょう。したがって高等教育の言語についてはこのように、大きな問題を含んでいると思いました。
さらに、この質問の時、面白いエピソードがありました。シェフィールド大学に同行していた北大の先生で、アメリカで8年もいてものすごく英語ができる先生が、一番前に座っていたので、私が小声の日本語で「○○先生、『交互禁制律』って英語でなんて言うですか?」と聞いたのですが、急に横を向いて、他人の顔をされたのには往生しました。彼女の方ではアメリカで高等教育を受けているので、逆に私の言っている日本語の専門用語を習ったことがなくとっさに出てこなかったのだと思います。また、日本人の研究者で、アメリカで長くおられ、日本に帰国した際に、日本語で講演をしてもらうと、専門用語が日本語で出てこず、立ち往生されておられる姿も何回か見たことがあります。

(加筆1)


 
ジャワ派遣軍最高指揮官「原田熊吉中将」が指導した「インドネシア維新」
 
本記事を読んだ、香川県観音寺第一高校時代の同級生だった清水康司さんから、インドネシアの軍政を指導した香川県出身の原田熊吉中将について、次のような極めて貴重な情報を頂きましたので、ここにご紹介します。
      (以下引用)
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(貴君の)ブログ読みました。ヨーロッパでも小さな国は自国語での高等教育ができないところはありますね。人口が数百万人のデンマークでは、アンデルセンやキェルケゴールは自国語で書いたようですが、理系の専門書などになると単に経済的な理由ではない困難があるのだと思います。
 
インドネシアの独立や高等教育について一時調べたことがあったのですが、もしかしたら香川県出身の原田熊吉中将が大きな仕事をされたのではないかと想像しています。以下は、地元誌に掲載された紹介文の一部です。
 
『丸亀中学の時代はスポーツ万能で、柔道をよくし、野球でも名捕手を務める身長1.8Mの堂々たる体躯であった。熊吉将軍は今村均中将の後を受けて、昭和17年11月、インドネシアに着任した。参集した部下と兵団に対して、将軍の開口一番は、「インドネシアで明治維新をやる。それには人材だ。専門学校以上が幾人居るかと調べたら、人口1億に対して600人しか居ない。これでは国家は成り立たぬ。祖国防衛義勇軍(ペタ)を中軸に官吏、工業技術者、農業指導者を10万人にせよ。」であった。やがてペタ38,000人がインドネシア国軍の母体となり、言語もインドネシア語に統一する等、熊吉将軍の采配が功を奏すこととなる。だから、インドネシアの心ある人は、「独立の恩人」だと云うのである。』
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      (以上引用)
文献:http://homepage2.nifty.com_uzankai_harada20%kumakiti
このniftyのhomepageは2016年11月10日15時をもってサービス提供を終了しているとのことですので、下に、このページのpdfコピーを添付しておきます。


(加筆2)


 
近年、やたら文科省が「英語での講義」を勧めることについて
 
本記事を読んだ、大学図書館で司書をされている方から、次のような極めて印象的な感想を頂きましたので、ここにご紹介します。
      (以下引用)
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つい先日、学内のある先生と、やたら文科省が「英語での講義」を勧めることについて、せっかく日本語で大学院の博士課程まで教育できるのに、わざわざ外国語を使わせたがるなんてもったいないという話題で盛り上がったところでした。
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      (以上引用)
 
 
 
 

参考文献


 
[1] NHK教育テレビ「NHK大学講座」金田一春彦:視聴した番組の放映年月日が思い出せないですが、この講座内容を、単行本にしたものが下記に出ています。
金田一春彦、「日本語の特質」、NHK出版 、1991。
 
[2] 岡田英弘著作集 第3巻 日本とは何か、藤原書店、p356、2014.
 
[3] インドシナ残留日本兵の研究、防衛研究所
https://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200203/06.pdf
この文章は、歴史的事実を書いた公文書に当たると考えられます。この「インドシナ残留日本兵の研究」の47頁から48頁にかけて、次のように残留の動機・理由・背景が明確に書かれているので引用します。
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(二)残留の動機・理由・背景
 残留の動機として第一に挙げられるのは、独立運動の支援である。自分たちは大東亜共栄圏の建設アジアの解放を目的に戦争を遂行してきたと信じてきた若き日本軍将兵の中には、志半ばにして突然の終戦を納得して受け入れる事ができなかった者たちがいる。彼らはインドシナ現地の独立運動勢力に身を投じて、現地人たちとともに独立戦争を戦うことを通じて、目標を貫徹しようとしたのである。
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[4] (i) ブラタモリ、竹富島、2022年1月29日初回放送;この中でノロ(巫女)さんの持つ持ち物中に、勾玉がありました。
(ii) 八重山博物館で見た「勾玉」、2007年8月09日|沖縄の旅、https://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/4fc392ca0793379052bba56f5e63de08
 
[5] 新羅の王冠は、57個の勾玉で飾られています。この勾玉は、糸魚川のヒスイで造られたものです。
https://chosonsinbo.com/jp/2012/06/kmbi_27/
https://syoki-kaimei.blog.ss-blog.jp/2011-08-21
 
[6] 岡田英弘著作集 第4巻 シナ(チャイナ)とは何か、 藤原書店、2014:
  488-489頁の表2主な和製漢語一覧
 
[7] 岡田英弘著作集 第4巻 シナ(チャイナ)とは何か、 藤原書店、2014:
  第IV部 漢字とは何か。
 
[8] 李登輝より日本へ 贈る言葉 単行本 、ウェッジ、102-104頁、2014. 
 
[9] 中国語の7割が和製漢語 https://note.com/light_dunlin834/n/n4fb0a3fcc42e
https://youtube.com/watch?v=v0MoHM53IzI&si=X1r8dgq_0as6pxS8

[10] https://www.wowkorea.jp/news/read/315050.html
 
[11] (i) 呉善花、「漢字廃止」で韓国に何が起きたか、PHP研究所、2008.
(ii) 和製漢語で発展した韓国  https://www.youtube.com/watch?v=IJaAh-pXqLg
 

*なお冒頭の写真は、梅林で有名な水戸の偕楽園です。下記の「偕楽園ウェブサイト フォトギャラリー」から転載させていただきました
https://ibaraki-kairakuen.jp/photolibrary/?type=238&option_type=
 二言語話者=バイリンガル=梅林ギャルの比喩として引用しました(笑)。

 
令和6年(2024年)7月24-29日随筆
令和6年(2024年)7月31日-8月7日加筆


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