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20世紀の記録として残したいこと(第7話)20世紀から21世紀へ、父が死に鉄腕アトムが生まれる

7-1. 父の葬儀


 
 父は、私の2001年4月27-29日の原稿を読んで、下述の注釈1)〜6)を2001年5月7日に私宛に郵送した後、2001年6月1日に2(3?)度目のクモ膜下出血し病院に入院しました。そのため、半身不随で会話が出来ない状態になってしまいました。以上の聞き取り記録は本当にぎりぎりで間に合いました。
 私は、父が6月1日に倒れたとき、後1週間くらいしか持たないだろうと義徳兄夫婦から連絡を受け、私の家族全員で長野県から香川県へ駆けつけました。兄夫婦によると、私たちの到着の1日くらい前から少し持ち直し、しゃべることはそれまでほとんどできなかったが、こちらから言うことはわかっているようだということでした。それで、「おやじ、ようあの原稿書いとったもんじゃのお!(よくあの原稿書いていたもんだねえ!)」と言ったら、不自由な言葉でしたがはっきり「ほんまにのお!(ほんとになあ!)」と答えてくれ、驚きました。遠くに住んでいてちっとも親孝行しなかったので、この原稿で少しは親孝行できたかなあと思いながら、長野県に帰ってきました。
 その後、1年10ヶ月の間、不自由ながらも会話は成り立つとのことでしたが、病院の転院を繰り返しながら特別養護老人ホームへの入居の順番を待っているところだと兄夫婦から聞いていました。2003年3月22日に甥(義徳兄の次男)の結婚式があり、私は、久し振りに香川県に帰省し、結婚式に出席した次の日の3月23日、病院を訪ね父を見舞いました。私が一方的に話すだけで、返事がなく、息子の私をわかっているのかどうかさえ定かではありませんでした。少し悲しく父の姿が哀れでした。大変衰えており、もう長くはないと覚悟をしました。最後にベッドに横たわる父の肩に手をやり、「おやじ、また来るわ」といって病室を出て、ひとり薄暗い階段を降りました。ひとは皆衰えて老人になり死ぬんだと、50歳の息子の私は人生のはかなさを感じ、涙をこらえながら長野へ帰っていきました。若いときにはよくわからない感情でした。これが生きた父と会った最後となりました。それから13日経った2003年4月5日、長野県の上田市は朝から、季節外れの雪で10センチほど積もりました。こんな4月に一面の雪になることは13年ぶりでした。その夕方5時過ぎに兄嫁から電話があり父の訃報を聞きました。午後3時49分にその病院で亡くなりました。享年86(数え年で88)でした。私は父の死に目には会えませんでしたが、幸か不幸か13日前に父に会っていて本当によかったと思いました。
 父の葬儀は、2003年4月7日、鉄腕アトムが生まれたことになっている日に、行われました。20世紀と21世紀の入れ替わりのように思いました。父の法名(戒名)は、父の希望通り「康徳院釋満州居士」とお寺さんにつけてもらいました。釋という字が入っていますがほぼ希望通りで、これで本人も満足すると思います。私は思い残すことはありません。火葬場で見た父の足の骨は太くて大きく、昔バレーボールで鍛えたことがうかがえました。大正5年生まれの昔人間にしては身長があり当時としては大男といわれました。中国語に堪能だったので頭蓋骨の中に中国語の漢字が詰まってはいないかと見ましたが、やはり焼けて空っぽでした。人の能力も死んでしまうと跡形もなく、ただ人々の記憶に残るだけとなるのですね。
 
追記(2003年4月30日)

7-2. 満州からの手紙の束


 
 平成15年(2003年)5月23日に亡父の四十九日の法要の後、病院にいる老母や、母方の叔父や叔母からも貴重な証言を得ました。また、母方の叔母 (76)から父母が満州から祖父宛に出した手紙集を今まで保管していたが、この機会に私に譲るとの申出があり、昭和14年から昭和20年の間に満州国牡丹江市と香川県一の谷村との間で交わされた29通の手紙を、譲り受けました。その内3通は封筒だけで中身は有りませんでした。しかし、これらの手紙集は父母が祖父に満州の生活振りを几帳面に定期的に伝えており、貴重な内容でした。これらのお陰で、内容と日付の誤りの訂正を行うことが出来ました。従いまして上記の小文は、私に出来る限り正確になっています。
 
修正(2003年6月12-13日および2003年8月11-16日)
 

7-3. 参考文献等


 
[1] 満州国歌は時の香川県三豊郡山本町の町長原学氏が新聞社に言って譜面共々でわざわざ家まで持ってきてくれたのでうちにあるということです。(2003年5月7日母のメモ)
[2] なかにし礼「赤い月」上下、新潮社(2001).
[3] 袴田祐子『ある家族の満州引き揚げ物語』-ひまわりの歌http://www2.accsnet.ne.jp/~yuko88/h1.htm (2022年5月現在接続不可)
[4] 「燃ゆる満州」
http://plaza.harmonix.ne.jp/~mickeyso/essay/essay0.htm (2022年5月現在接続不可)
「私の父が生前、何年間にわたり、ある新聞社などに連載してきた随筆集を1989年に製本、自費出版しました。その内容をアップします。これは第2次大戦中に関東軍、軍属の軍医部所属として中国、虎林に進駐していた時の悲惨な戦争の話題です。」と書かれているだけで、著者不明。
[5]  「50年前元日・奉天」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/paper/1996/9602pr.htm (2022年5月現在接続不可)
「HOME > 目次 > 資料集 > 日蓮宗新聞 > 1996年版 > 2月PR号:日蓮宗新聞[1996/02/PR]:日蓮宗 現代宗教研究所」と書かれているだけで、著者不明。
 

7-4. 父からの注釈


 
1) 主流は串窯(ツオルヤオ:登窯で15登から17登)。登窯の方が休みなく連続使用でき、職人を遊ばせずに効率が良い。1登2万個くらいから焼きました。
2) 蜜占河秋田開拓団へは、軽車両製造用の作木(ズオム=ナラ)水曲柳(スイチュリュ=シオジ)伐採切出し軽便鉄道の開拓団工場に集積させて頂いたお礼に、ハルビンの白系露人会からピアノを購入寄贈しました。開拓団でピアノを持った小学校はおそらくこの開拓団のみでしょう。
3) ソ連が日ソ不可侵条約を破って一方的に宣戦布告をして参戦しました。関東軍(日本軍)はこの条約を信じて、軍隊は勿論、武器弾薬まで日本本土や南方へ転進させて、満州は空っぽだったのです。
4) <ここの部分は母から聞いた話です。しかし、ここの部分に対する父の主張は次の通りです。今となっては戦後生まれの私にはどちらが真実かわかりませんが、父の主張も下に併記しておきます。>
 近くの日本人は図們方面へ南下しようとしていましたが、その人たちと行動を共にすれば、そこはソ満朝鮮の三角地帯で、かえって危険であると判断しました。そこでハルビン経由で京城まで行きそこから帰国することにしました。
5) 父は牡丹江で中国人と一緒に情報収集の手伝いもしていたのでこの駅員が情報機関員で連絡してくれたのでしょう。
6)叔父は高官であったので、その勤務には朝鮮総督府(筆者注:正確には食糧営団)が車を出して送迎してくれていました。
 

7-5. 歴史的証言から光復節の日取を考察


 
 8月15日を、韓国では毎年、光復節として日本からの植民地支配から解放された独立記念日のように祝賀していますが、厳密に言うと韓国は歴史認識を誤っているのではないかと思います。日本が昭和20年(1945年)8月15日に降伏したからといって、直ちに、日本が全ての領土や植民地を失ったわけではありません。少なくとも8月15日から9月9日までは、朝鮮半島は日本の領土のままであり、日本の施政権が存在していました。その証拠を本拙稿からも2つ挙げられます。本稿の第5話に出て来るように、父は、京城(ソウル)で滞在中の8月17日から8月31日の間に、引き揚げ者の支援組織から、米の配給がもらえるように申請しています。これは、日本の配給制度が朝鮮でも内地同様その期間まだ有効であったらに他なりません。つまり、日本の施政権が8月15日以降も京城では存在していたことの証拠です。もう一つの証拠は、本稿の第6話の日本の施政権下の関釜連絡船が8月31日まで運行されていたことです。そのため、8月31日の釜山港では日本軍の憲兵が、関釜連絡船の興安丸への乗船をコントロールしていたことが、父母の実際に経験したことからも明らかです。それ以降の興安丸はアメリカ軍の監視下で運行されました。以上2つの証拠からも、少なくとも8月15日から8月31日までは、朝鮮半島は日本の領土のままであり、日本の施政権が存在していたことがわかります。厳密にいうと、国際法上は、9月2日の東京湾上の戦艦ミズリー号の上で日本が降伏文書に署名し、9月9日に朝鮮総督府が対連合国に正式に降伏するまで、朝鮮半島は日本の領土のままです。それ以降は、38度線以南はアメリカ軍政下になり、38度線以北はソ連軍の支配下となりました。そのため、朝鮮半島は、昭和28年(1953年)7月27日の朝鮮戦争休戦協定締結まで、明らかに米ソの分割支配下にあったことから、1945年8月15日が朝鮮半島の独立を示す日でないではと私は疑問に思っています。
 
 
2000年12月10-12日随筆
2001年4月18日加筆
2001年4月27-29日加筆
2001年6月14日加筆
2003年4月26-30日追記と修正
2003年6月12-13日修正
2003年8月11-16日最終修正
2022年5月27日7編へ分割編集
 

本記録に関して


本記録は、20世紀の記録として是非、残しておきたいと思い、生前の父太田安雄(通名は康雄)、香川県三豊郡山本町(現三豊市山本町)在住、から、聞き書きした記録文です。父は、大正5年(1916年)9月14日生まれで、平成15年(2003年)4月5日、87才になる年に亡くなりました。聞き書きしたのは、西暦2000年から2002年の3年間です。父が生きている間に、是非、貴重な記録として残しておきたいと思い、父やのちには親戚からも取材し本文をまとめました。非常に長くなったので、話題ごとに7編に分割掲載いたしますが、どの話題も皆さんがほとんど知らない大変興味深い話だと思いますので、ご一読頂ければ幸いです。

*なお、冒頭の写真は、2003年4月7日に誕生したことになっている、鉄腕アトムの絵です。Wikipediaから引用させていただきました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E8%85%95%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%A0_%28%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1%E7%AC%AC1%E4%BD%9C%29
最終更新 2022年7月6日 (水) 16:23

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