欠食児童今昔
(はじめに)
昨夜研究室のコンパで一人の学生が非常に興味深い話をしました。そのことで私はいろいろと考えてしまいました。
(1) 平成22年(2010年)当時のモンスターペアレントと子供手当支給の矛盾
彼の母親は元教師で結婚を機に退職しました。今は子供も社会人や大学生になったので、50歳を過ぎてから教育関係のボランティアとして教員の悩みなどの相談員をしているとのことでした。今教育の現場ではいわゆるモンスターペアレントと呼ばれる救いようのない悪徳な親に、教師は悩まされ、彼の母親のところへ相談にやって来るそうです。給食費をいくら言っても払わない。督促すると、「携帯電話代やコンビニでの買い物代がかかるので給食費が払えない。義務教育なのだから給食費は市の方で出せ。」などと身勝手なことを言うのです。払えないはずはない経済状況なのに払わないのです。児童や生徒に給食を食べさせないという強硬手段も取れないことはないのですが、そんなことをしたらその子供がクラスの中で辛い思いをするだろうと、現場の教師は板挟みになって、仕方なく自分のポケットからその給食代をそっと払っているということでした。私の学生は、「こんな親にまで一律に、子供手当てを出す必要はないんじゃないか。子供手当てを親に出すのではなく、市の給食事業などに直接出したほうがよい。あるいは、所得の高い親には子供手当て[1]など支給すべきではない。」と悲憤慷慨していました。
(2) 昭和30年代(1955-1965年)の欠食児童の話
この話を聞いていて、私の子供の頃に兄や姉の教室にいた「欠食児童」のことを思い出しました。私の姉は私より5つ上で昭和22年生まれでした。戦後、日本は非常に貧しく、中学校では給食もなかったので、皆弁当持参でした。姉が中学に上がった年の昭和34年でも、家庭が極貧で弁当を持って来られないA君がいました。A君は昼食の時間になると一人教室を抜け出して、運動場を横切り教室から一番離れた運動場の端にある鉄棒のあたりで時間を過ごし、皆が弁当を食べ終わった頃に教室に戻ってくるのを毎日繰り返していました。このような「欠食児童」をなくするため、戦後多くの父母は行政と協力しあってお金を出し合い、まず小学校に給食設備を整えました。私の姉や私の頃はまだ中学校までは給食設備が整えられなかったので、私の姉や私の年代では中学校ではまだ弁当持参でした。A君のことは後日談があって、私は今もこの「欠食児童」という言葉とともに、次のエピソードを思い出します。
私の姉は中学2年の時、白血病になって昭和37年(1962年)1月5日に亡くなりました。父母の悲しみは今思い出しても涙を禁じえません。母は姉が亡くなってから二三ヶ月後のある夕方、暗くなりかけた窓の横に座り、しばらくじっと物思いに沈んでいましたが、突然上を向いて姉の名を呼んで泣き出しました。その姿を私は思いだすと今も涙があふれます。母は当時46歳でした。それから暫くした頃だったでしょうか、中学校でその学年の生徒全員が修学旅行で九州に行くことになりました。母は姉がいないのに弁当を作り、10歳の私を連れて、予讃本線本山駅へ見送りに行きました。私は子供心に、母は姉が生きていればこの修学旅行に参加できていたのにと辛かったのだろうと思いました。夜行列車へ同じクラスの生徒が乗り込む車両に行き、まだホームにいた姉の担任の先生を見つけて弁当を手渡し、「A君に渡してください。」と言ました。担任の先生は母の気持ちを二重の意味で察し、「わかりました。」と言って弁当を受け取り列車の中へ姿を消しました。母は、欠食児童だったA君に食べてもらう弁当とともに、姉も修学旅行にいけるのだと安堵の表情になりました。
(3) 昭和40年(1965年)あたりからの急速な社会変化
姉が亡くなってから、2年後の昭和39年(1964年)10月10日から(第1回目の)東京オリンピックが開催されました。直前の10月1日には東海道新幹線も開通しました。これらはその頃の池田内閣の所得倍増計画が功を奏したものと思われます。昭和40年頃から私の田舎の香川県でも急に車が増えました。夕涼みは、道端に床几(しょうぎ)を出して、近所の人と将棋をしながら涼むという習慣も、車が増えて危なくてこの頃からやらなくなりました。世はモータリゼーションと言われました。私の記憶では、この昭和40年頃を境にして、古い戦後の日本のイメージから高度成長の新しい日本のイメージへと変わりました。そしてこの頃から、「欠食児童」や橋の下の「乞食」、観光地の屋島などでアコーディオンを弾きながら物乞いをしている「軍帽白衣の傷痍軍人」などは、見かけなくなりました。
(4) 平成の時代に入ってから再び「欠食児童」が出現
昭和40年から昭和60年頃までの20年間は、日本が上り坂の良い時代でした。しかし、平成に入ってからここ20年、日本は停滞し、再び橋の下や公園に「ホームレス」が出現し、親が貧困で子供に満足に食べさせられない「欠食児童」も出現して、大きな社会問題になっています。給食費が払えるのに払わない悪徳モンスターペアレントは言語道断ですが、低賃金雇用の蔓延で両親に十分な収入がなく、戦後20年間と同じように「欠食児童」が再び出現していることは、日本は決してよい国にはなっていないと言えます。強欲な新自由主義経済は、日本を活性化するどころか反対に劣化させ、欠食児童やホームレスを生んでいます。ここ20年間は昭和20年から昭和40年頃までの20年間と社会状況が似ています。異なる点は戦後の20年は社会の歪みが段々縮小して行っていましたが、ここ20年は社会の歪みが段々拡大して行っている点です。
(おわりに)
皆さんは最近の「欠食児童」の問題をどう考えるでしょうか。ご意見をお聞かせください。
[1] ここでいう「子ども手当」は、民主党政権下の鳩山内閣により、2010年4月1日から実施されたものを指します。15歳以下の子供を扶養する保護者等に対し、金銭手当を支給する制度でした。
*なお、冒頭の写真は、子ども食堂1号店ともされる東京都大田区東矢口の「気まぐれ八百屋だんだん こども食堂」の写真です。ウィッキペディアから引用させていただきました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E9%A3%9F%E5%A0%82
最終更新 2022年9月4日 (日) 07:53
2010年6月19-20日随筆
2022年10月7日加筆修正