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マタギの歴史と信州

(はじめに)


 
マタギは東北地方を中心に、残る習俗で、大変興味深いです。マタギは、青森、秋田、岩手、宮城、山形、新潟などの東日本にだけ存在し、西日本は全く存在しません。マタギはどのようにして発生したのでしょうか?
 

1.    マタギの聖典


 
マタギとは、農閑期の冬などに山に入り、熊やウサギなどをしとめて食料とする習俗や狩人のことです。その発生はどうも縄文時代からのようです。現在、秋田県の阿仁町はマタギの町と言われています。この秋田県のマタギについて、詳しく調べた太田雄治さんという方がおられ、この人の本「マタギ消えゆく山人の記録」(翠楊社、1979年)を読んで大変興味深かったです。阿仁のマタギの人たちには、代々マタギの聖典のような巻物が伝えられているそうです。マタギをすることには、仏教が伝えられて以来、大変大きなイデオロギー上の軋轢や迫害があったらしいです。というのは、マタギをすることは即ち四つ足の動物を殺して食うことであり、これは仏教のタブーを犯すことになるからです。仏教では、ご存じのとおり、4つ足の動物を殺してはいけないし、勿論食べることなどもってのほかです。
 

2.    日本人の肉食

 
 
私が子供の時にも、肉を食べるなどということは一月に一回あるかどうかであり、日本人は魚を食べることがもっぱらでした。肉を食べる習慣は40年(60年)前くらいには希薄だった記憶があります。だから、今日はカレーだとかすき焼きだとか言われると、久しぶりに肉が食べられると大変嬉しかったのを覚えています。また、私が小学生の時には、私達のおばあさんくらいの年齢の人達、つまり、明治10-30年くらいに生まれた人達は、肉を食べることに大変な嫌悪感があり、間違って食べると気持ち悪くなってもどしたりしていました。私が小学校の低学年の頃、大変なおばあちゃん子がいて、この子はおばあちゃんとそっくりで、肉を食べるとその嫌悪感から気持ち悪くなり、給食のとき、はいていたのを私はいまだに覚えています。昭和30年代当時としてもそんな子は珍しかったのですが、おばあちゃんに育てられたからだと友達は皆納得していました。それは、昔は肉食がタブーであったという事を当時小学生でもみな知っていたからです。現在、そのような、四つ足の肉が食べられないような日本人は、たとえ仏教を熱心に信じていたとしても、もういないと思います。しかし、このように4つ足を食うなという教えやタブーは、1000年も2000年も前からほんの四、五十年ほど前まで、この国で続いていたことは確かです。
 

3.    マタギが仏教のイデオロギーに出会ったときの苦悩


 
従って、狩猟を主にする縄文人に対して、仏教が入ってきたときには、それは大変なイデオロギー上の軋轢があったことは想像に難くないです。今で言う文明の衝突でしょう。今までの生活手段そのものが、いけないといわれるのですから生活が成り立たなくなってしまいます。縄文晩期や弥生時代に水田稲作が始まる時を一にして、仏教の思想が入ってきます。水田稲作があまり適さない東北地方には、必然的に食糧確保のため、従来通り四つ足を取って食べざるを得なかったものと考えられます。そのため東日本にはマタギの習俗が今まで残ったのでしょう。しかし、仏教伝来当時、四つ足を食うなというタブーは大変な精神的な圧力として、彼らを追いつめたに違いありません。そこで、阿仁の人たちには、マタギをすることは、日光権現(権現は神様の称号の一つ)から許された生活手段であるというお墨付きがあるのだと書かれた、マタギの聖典が、仏教に対抗する形で存在しなければならなかったものと思われます。実際、門外不出であったこの聖典は、近年、太田雄治さん達の研究で初めて、内容が明らかにされました。この聖典には、マタギは神から許された生業(なりわい)だという趣旨が書かれているといいます。この聖典の存在から、縄文人の伝統を引くマタギが、仏教という巨大な新しい思想と出会ったときの、大きな精神的苦悩が読みとれます。これは同時に、縄文人が弥生人と遭遇したときの苦悩を如実に物語ったものだと思います。
 

4.    マタギ語辞典とアイヌ語


 
この太田雄治さんの本には、さらにおもしろいことに、マタギ語辞典なる語彙集が第5章に納められています。マタギが山で使う独特の単語が多数集められていて大変興味深いです。日本語では全く意味の分からないものが多数入っています。例えば、犬のことをセタ、水のことをワッカ、熊の頭のことをバッケ、沢山のことをホロ、などと言います。これは全てアイヌ語由来の言葉です。アイヌ語でセタは犬、ワッカは水、パケは頭、ポロは沢山、と言う意味です。そのこと自体大変興味深いですが、もっと興味深いのはこのような言葉をなぜ山に入ったときだけ使われるかです。この本には理由が書かれていませんでしたが、私は全く別のアイヌの習俗に関する本を読んでいて、この謎が解けたことに大変興奮しました。北海道のアイヌの人達は、明治頃まで日常はアイヌ語で生活していましたが、山に猟に入ったときは、山の神をおそれ、山の神様に聞かれて気づかれないように、日常使わない言葉でお互いに話したといいます。それは日常語ではない日本語であったそうです。東北のマタギは日常は日本語を使っていたが、山に入ると日常使っていないアイヌ語を、反対に使ったのです。東北は北海道とこの点、全く反対ですが、その底流に流れる思想は、全く同じで山の神を畏れ神様に聞かれないようにしたと言うことです。山の神とは、アイヌ語でヌプリコルカムイ(nupri-kor-kamui:山-守る-神)で、それは熊を表します。熊は山の神の化身です。その熊を狩りにゆくのですから、日常語で話していて神(熊)に気づかれてはまずい、ということです。その根本は全く同じ思想です。したがって、この東北のマタギ語の習慣は、アイヌや縄文由来のものであることは明白です。
 

5.    マタギの南限


 
マタギの南限はどこでしょう。最近、「北越雪譜」という古い本を、読んでいたら、新潟県(越後)魚沼郡でも猟師が農閑期に山に入って猟をするときに使う特別な「山言葉」が存在していることを記録していることに気が付きました。この本は、今から約200年前に、鈴木牧之という人が、越後の魚沼郡の風土風俗について書いたものです。鈴木牧之も約200年前に、前述の太田雄治氏と同様にこの山言葉の存在に気付き民俗学的に大変貴重なものとして記録しています。ここ魚沼郡の猟師は地元の者もいたようですが、山形(出羽)あたりから南下して来た者が主に熊をとっていたと書かれていました。この「北越雪譜」から考えると、この新潟県中部の長岡市から魚沼郡辺りがマタギの南限かと考えられます。しかしながら、実は、さらに南にマタギがいることが分かりました。新潟県中魚沼郡津南町からさらに南下して、新潟県側から長野県栄村に入るとそこは陸の秘境といわれる秋山郷になります。この秋山郷がマタギの南限と考えられます。
 
秋山郷は、長野県側からは険しい山塊に阻まれて行くのが極めて困難で、今も新潟県側の津南町から入るのがふつうです。長野県に属していますが新潟県からしか行けず、まさに秘境と言っていい所です。200年前、「北越雪譜」の著者鈴木牧之は、その秋山郷にも訪ねて行って、風土風俗を書き残しています。秋山郷の人々の言葉は、全く異なっていて、鈴木牧之にはほとんどわからなかったそうです。マタギのことはこの「北越雪譜」には書かれていなかったのですが、この秋山郷が、マタギの南限と考えられることを、最近私は初めて知りました。数年前信州の地方テレビにより放映されていたのですが、秋山郷にはマタギが現在も6人おり、そのマタギが廃れないように、若い人も入会して、年配のマタギから知識や技術を学んでいるといいます。信州秋山郷のマタギは、最南端のマタギとして大変貴重であると思います。
 

6.    秋山郷の方言


 
信州には大きく分けて4つの方言がありますが、その一つが秋山郷の方言です。秋山郷の方言だけは、他の3つの信州方言とは全く異なり、極めて独特です。現在の日本語は母音「あいうえお (a, i, u, e, o)」の5つですが、秋山郷の方言では、母音が7つあり、えとおがそれぞれ2つずつあります。すなわち「あいう、狭いえ広いえ狭いお広いお (a, i, u, , ɛ, e, o, ɔ)」の7つです。狭いえ広いえ狭いお広いおの区別があるのは、フランス語と同じです。また、標準日本語はモーラ語ですが、秋山郷の方言は、東北弁や鹿児島弁と同じシラビーム語です。この違いをごく簡単に言うと、モーラ語は、俳句の五七五のように拍を一塊の音素と認識しますが、シラビーム語は、英語のcatなどのように、子音+母音+子音などのシラブルを一塊の音素として認識します。したがって、秋山郷の方言は、おそらくマタギとともにむかしむかし東北から南下してきた言語なのだろうと思われます。
 

(おわりに)


 
マタギの成立や分布から、もう一度縄文時代から弥生時代にどのように移行してきたのかという歴史をもう一度考え直した方がよさそうです。
 
 
*なお冒頭のイラストは、マタギのフリー素材 | yukamaeda.com より使用させて頂きました。
 
平成13年(2001年)11月13日
平成13年(2001年)12月6日 加筆
平成19年(2007年)4月8日 加筆
令和3年(2021年)1月3-8日 加筆
令和5年(2023年)1月3-8日 加筆

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