免罪符は使いたくないなぁの巻
挨拶
こんにちは、Miyokoです。
自分の心の整理のために久々に徒然なるままに書いてみます。
自分語りだけなので、読むと少ししんどいかもしれません。
それでも良い方は暇つぶしのお供にどうぞ。
本編
時々、自分のできないことを無意識に免罪符として使ってしまうことがある。そして言った/思った直後、凹む。
「私バカだから」
「私って性格悪いから」
「私って躁鬱だから」
「私って宗教二世だから」
「私って女だから」
「私って●●だから」
聞かされた側は「だから、何?」と、思うことだろう。
私も相手から言われたらそう思う。
それはきっと、「だから」という言葉の後に省略した「(私に配慮しろよ)」というこちらの思いが透けて見えるからだ。
先に挙げた文言を言う人達が全員そうではないとは思う。
ただ、自分の場合は毎度そう思ってしまっているという自覚があるので、そのように述べた。
だから言葉として発しなくても、それを思ってしまった時点で凹むのだ。
嗚呼、また言い訳してしまった。
また逃げの口実を作り上げてしまった。
また思考停止してしまった。
なるべくなら、免罪符は使いたくない。
自分がアホだと思われたくないからだ。
吉藤オリィさんの言葉を引用する。
「できないこと」を周りにバレたくない、知られたくない。
正確に言うと、「できないことをそのまま放置して、できないままでいる奴」だと思われたくないのだ。
自分がそう思うようになったのは、高校3年のあることがきっかけだった。
高校2年の頃から、美術研究所(画塾)に通っていた。
多分、当時の私は同期の中では一番デッサンが上手かったと思う。(絵の上手さではなく)
ただ、高校3年になった入試目前の段階では、私が一番同期の中で下手くそだった。
何故なのかは自分でもよくよく分かっていた。
視力が悪かったからだ。
中学の頃からずっと視力が悪かった。
ずっと見えるフリをしていた。
見えないことは分かっていたが、恥ずかしくて親に言えなかったのだ。
黒板の文字が読めず、授業にもどんどんついて行けなくなったが、それでも私にとっては勉強が分からないことよりも身体能力が劣ることの方が恥ずかしかった。
詳細は省くが、幼い頃から
「自分は生まれながらにして他の人達より優れていなくてはならない」
と思い込んで育った自分にとって、知識という後天的後な能力よりも、身体という生まれ持った先天的な能力が衰えていくことの方が恐怖だった。
「Miyokoさん、もしかして視力悪い?」
ある日、画塾の副講師が私にそう投げかけた。
高校3年の、入試も終え大学に受かった後のことだった。
先生曰く、私の描くデッサンは細部の誤魔化し方が「見えていない人の物の見え方(=描き方)」なのだと言う。
「座高の違いはあると思うんだけど、MiyokoさんのデッサンってMiyokoさんの席に座ってモチーフ見た時の見え方じゃないんだよね。
ちょっと傾いてるっていうか、左目ばっかで物見てない?」
まさにその通りだった。
あまりにその通り過ぎて、ついに私は見えていないことを白状した。
「眼鏡を作りなさい」
副講師の隣で話を聞いていた普段温厚な所長(一番偉い講師)が、厳しい口調でそう言った。
「どうしてもっと早く言わなかったんですか。
こんなに描けるのにおかしいと思っていました。
視力があれば、あなたはきっとこの中で誰よりも伸びる子だったのに。
なんてもったいないことをしたんですか。
もう大学にも受かって、あなたがここで学べる日も少ないのに。
私はもっとあなたに絵のことをたくさん教えたかったのに。
もう今日は早く帰って、親御さんに視力のことを言いなさい。そして眼鏡を作りなさい。」
あまりの剣幕に動揺した私は、言われた通りに帰宅し、母に伝えた。
「どうしてもっと早く言わなかったの?」
"恥ずかしくて怒られると思って怖くて言えなかった"とはもちろん言えなかった。
ただ「これが見えてない状態だとは思ってなくて」と、嘘を吐いた。
(追記:因みにこの時の所長も母親もやたら態度が高圧的で、言葉のチョイスもおかしいのではないかと今なら思う)
機械の視力検査は、学校の雑な視力検査とはかなり違う。
機械によれば、私の視力は右目と左目の落差が激しかった。
効き目である右目がかなりの乱視で、左目はそこそこクリアに見えていた。逆に言えば、ものが見えにくい時も左目だけで見れば疲れはするがそこそこ見えるので、時々それで騙し騙しやっていたのだ。
眼鏡を初めて作って、かけて、驚いた。
それまで見えていた世界が嘘のように、ものすごくはっきりとクリアに見えたのだ。
視力というのはこんなにあっさり手に入るのか。
私が想像していたよりもずっとずっと眼鏡の技術は高かった。
それまでデッサンを描いていて、上手く描けない時に「どうして上手く描けないんだろう…努力が足りないのかな…」と、落ち込んでいたが間違っていた。
これは努力よりもはるか手前の段階の、「視力が低い」というもっと単純な問題だった。
まず物がよく見えていない状態でデッサンなんて描ける訳がない。
私がそれまでやっていたのは、ボンヤリ見えるものをただボンヤリ描いて、足りない部分は脳内の記憶を頼りに想像で補っていただけだ。
それは絵画の領域であって、デッサンではない。
絵画は視力が低くても想像で描いても「作品」になるが、デッサンは自分が何をどう見たかをハッキリさせるための「訓練」なので、まずハッキリと物が見える視力が無いと話にならなかったのだ。
こんな簡単にできることを知ろうともしないで、ズレた落ち込み方をして、私はなんてアホだったんだろう。
当時は自分がアホ過ぎて笑ってしまったし、同時に恥ずかしくも悔しくも思った。
「私って●●だから」
という言葉を免罪符として使ってしまうと、この時のことを思い出して、凹む。
藤井オリィ氏の別の言葉を引用する。
やはりできることなら免罪符は使いたくない。
自分が解決方法を探さないアホだと思われたくないからだ。
それでもたまに探し疲れて「もうやだ!このまま受け入れてくれ!」と、思ってしまうこともあるが。
〆
以上、とある機関に連絡しなければならないのがイヤで連絡しないための口実を必死に探している人間の戯言でした。
さて、どうしたら一番しんどくなく連絡できるだろうか。
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