ヤスパース哲学と精神疾患
〜現実的な実在の受容へ〜
カール・ヤスパースは元々は精神科医である。
ヤスパースは哲学において、科学・交わり・真理・人間(現存在)・超越者に関する問題を提示する。
科学はあくまで道具として利用するものとしている。
※例えばワードプロセッサ、音楽ソフト(DAW)などは貴重なツールである。
(それらは自我をプレイするという感覚である)
人間(現存在)は他者との関係性において現象の蓄積として存在している。
自我がある。つまり集合体=コミュニティ、学校、会社の中に投げ込まれた存在である。(サルトル自己拘束)
そこでは友達との関係、あるいは確執、いじめ、競争など、反動としての自我形成が外発的に行われる場合がある。これは精神病院・医療管理社会でも同じである。(誰もが共同体意識を愛し、そこで自我を発散するわけではなく社会的存在としての自我の障害=PTSD、適応障害)というのも規定される。そこには悪夢的現実感喪失がある。村上春樹 井戸・森)
そこでは、精神療法、投薬治療、心理療法、自然療法、作業療法、食事療法、音楽療法、スポーツなどが施される。
疾患の根源として開示できない苦しみ(現存在の変容)あるいは自分一人では解決できない限界状況に追い込まれる。ここで存在は自己存在の重要性へ目覚めることになる。(北野たけし、どう
せ死ぬなら浅草)=解離性遁走などがある。
他者との交わりによって自己は開示され、分裂した自己存在は良心による交わりによって結合する。
(例外としては交わりによって自己を直視し、自己内部から込み上げてける情動性を直視する、存在意識の揺らぎ)
存在意識の変貌はギターを弾くなどの行為だけによるものではなく、認識することで外界の世界観が変貌する。
この存在意識の変革と世界観の変貌(外界と内界の変貌)により自己存在はその本質を捉える(現存在の経験的意識と実存の一致・歴史的存在としての自己)
このようなサバイバルは、いわばその状況を生きること(状況内存在)である。
ヘーゲル・キルケゴールの弁証法に対して実存的交わり(愛しながらの闘い)そのものが弁証法になるとヤスパースは唱えた。
宗教のように孤独に神と対峙する必要はない。ただ自分の存在を超えたものを超越者(ハイアーセルフなど)とした。これは、自己の有限性=与えられた条件の中に身を委ね、そこで他者との関係性を大事にしていくという超越者からのメッセージである。
悪=憎悪・悪意は超越者からの離脱である。それらをすくい取るのは認知行動療法・実存的交わり・最優先事項の発掘(FBの哲学コラムなど)である。
交わることにより、自己存在が元に戻っていくという過程もあり、現実的な実在は理性によるリカバリーを選び取ることができる。(井戸・森からの脱出)
自己と他者は別の存在である。
(私の場合は臨床的リカバリーの最中である)
※開示されることすなわち現実的なことである。
また受容のプロセスによって気づきが生まれる。
※現存在の歴史性について。
現存在は世界内存在であると同時に、脈々と続く歴史の流れの中に存在している。
歴史的意識(歴史的存在としての自己)とは経験的な現存在と実存が一致し、
今・この瞬間を深めることでもあるだろう(自己本質への回帰)。
どうやって歴史的意識へたどり着くかというのは、意外と青年的な経験と繋がるのではないか、と私は思う。
楽器を弾き倒すことや、小説を溢れるように書くこと(三島由紀夫や中上健次)などで、私の場合は、歴史的意識へたどり着いたようにも思うのである。
つまり、これらについては、歴史に詳しい人であれば知っている人も多いものなので、歴史的意識というのは、ある程度の教養の範疇とも言えるだろう。
私の場合は子供の頃から歴史とクラシック音楽が好きだった。だから、それらをとおして、歴史的な意識へたどり着いたように思うのである。