【映画感想】ラ・ラ・ランド

「あれ? この映画観たらワンチャンある?」という即ヤリ期待値を上げる最高のデートムービー。
また自分が描いた夢に対して本気で努力したことがなく、そのくせ承認欲求だけは人一倍あって、自己満足するためにその隙間をお金 (物欲) で埋めて現実逃避してる人なんかはそりゃもう涙腺決壊すると思います。
物語は、音楽はオリジナルが大事だと言ってる割には人の演奏の完コピプレイに必死で励んでいるジャズ・ピアニストと、日常では通勤時間以外これといって演技の練習をしている風でもない女優志望の恋の物語です。
荷物まとめて田舎に帰って、裏の畑で麦でも踏んでろ。
そんな言葉を二人にかけたくなるくらい、彼らがそれぞれ目指している場所は、観客のわたしにとってはどうでもよかったのです。何を、どう応援すればいいのか。皆目見当もつきませんでした。
もちろん、彼らを演じているのはハリウッドの有名俳優であるライアン・ゴズリングとエマ・ストーンであり、それぞれ劇中の役になりきって演じているわけですから、演技自体を責めるつもりはありません。監督から言われたであろうことをきっちりこなしていて、普通に上手いです。
しかしこの物語自体は、主人公たちの夢であるジャズとハリウッドにとても冷たい気がしました。
もちろん、それぞれのシーンはとても良くできているのです。冒頭、渋滞の高速で突如始まるミュージカルは一糸乱れぬ動きで素晴らしい。しかしそれは「冒頭、一糸乱れぬミュージカルが展開される」とでも書かれたザックリとした脚本に対し、大道具小道具劇伴撮影スタッフエキストラが入念に準備をしただけのもの、というくらい、本筋とは関係ありませんでした。観客をあっと言わせたい、つかみがほしい、それ以上の意味はない気がしました。
もちろん、ミュージカルにおける歌って踊ってという行為は我々が日常で体験し得ない (どっかのすっとこどっこいが流行らせた"フラッシュモブ"とかいうやつを除く) わけですから、冒頭のシーンはそこにいるドライバーたちの何かを表現したかったのかもしれません。しかしわたしには「というわけで本作はミュージカルっぽいシーンも入る (事あるごとに歌とダンスで構成されているわけではない) よ!!」という監督の目配せ以上の意図は汲み取れなかったのです。不勉強ですいません。
男性側の夢は、「本物のジャズ演奏が毎日聴ける店を開く」ことです。一見プレイヤー志望に見える彼は実はオーナー、経営者になりたい。以前あったジャズの店は潰れて、他のジャンルの店になったそうです。
しかし彼は本作のどこで「前の店と違って自分の店は潰れない、なぜなら」という説明をしたでしょうか。「だって本物のジャズは凄いから」という思い込み以上のものは無かった気がします。また彼のプレイも、演奏が終わると無条件に (ほぼ満員の) 観客から拍手をもらっていましたが、序盤に出てくるレストランの雇われピアニストとして同じ曲を弾いた彼のチップグラスには、誰もチップを入れようとしませんでした。一体何が違ったのでしょうか。わたしにはその違いが聴き取れませんでした。
女性側の夢は漠然と「女優」です。カフェのバイトの合間を縫ってはオーディションに出かけています。しかし、採用エージェントは彼女を歯牙にも掛けません。こちらの理由は簡単で、単にその器にないからです。もちろんそれはエマ・ストーン自身を指しているわけではなく、彼女が「一生懸命やってるのはわかるけど、このレベルじゃ受かんないよね」という入れ子の演技をすることで表現されます。
話は進み、彼女はブレイクのチャンスを掴みます。これをモノにすれば、陽のあたる世界に出られる。そのシーンで、わたしは彼女の演技を期待しました。「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」にも出演していた彼女ですから、あの映画でマイケル・キートンが演じたように「入れ子の演技として下手に演じ、クライマックスで迫真の演技を披露する」という展開だろうな、と思ったからです。
やおら、彼女は歌い出しました。その部屋にいた面接スタッフは彼女に「何か演じてください」とリクエストしたのであって、「歌唱力が知りたい」とは一言も言っていません。
ハリウッド万歳!! 俳優万歳!! という気持ちが微塵でもあるならば、ここでの演技はこの映画において、男性主人公の演奏と同程度に肝となるものだったはずです。「エマ・ストーンって演技とんでもなく上手いな!!」と観客を震わせる事ができたはずです。
これを逃したらもう女優になるチャンスはない、という場面で、最初にミュージカルという目配せをしたから歌でごまかしてもいいよね、というのは言い訳にならない気がします。だったら彼女の設定は「歌手志望/もしくはミュージカル俳優志望」にして、思い切り歌わてその巧さをアピールすればよかったのではないでしょうか。
つまりはまだまだ未熟な本作の監督が、思い描いた理想に届かない自分の演出力を補うために、あちこちの名画から「誰かが一回感動したもの」を「古き良きハリウッド映画オマージュ」という大義名分でパクって使い回しただけであって、それでもどうしても埋めることのできないシーンを冒頭で提示したエクスキューズ (この映画では時折演技の代わりに歌やダンスが用いられます) で誤魔化しただけではないかと思います。
往年の映画の名シーンを現代の技術を用いてより推し進めた表現にすることは、それを指示されたスタッフにとってはやりがいのあるチャレンジであったでしょうし、結果的にアカデミー賞を獲れたことは、ハリウッドで頑張る「裏方」の人たちへのエールにもなったのではないか、という反論は否定しません。
しかし残念ながら、わたしはハリウッドで働く人間ではないので、この映画から「愛」を感じる事はできませんでした。
それは主人公同士が描く「恋愛」のなかにも、演奏される音楽の中にも、映し出される映像の中にも、かばんのなかも、つくえのなかも、さがしたけれどみつからないので、まだまださがそうか、それともだれかとおどろうかとおもいました。
あらゆるパターンのストーリーが出尽くし、映像で表現できないもなんて無い! と言っても過言ではなくなった現代において、こんなからっぽな物語があるのか。いや、どこかの映画から「サンプリング」することが悪いと言っているわけではありません。しかしこの手法は、同じく自分が影響されたエッセンスをバンバンぶち込んでくるクエンティン・タランティーノとは対極の位置にいる気がしました。
こうして自分がこの映画に抱いた違和感の薄皮を一枚一枚剥がしていった結果、その芯に何が残っていたのか。それは監督の自己愛でした。「誰かに伝わることがなくても、自分の満足する映画が撮りたい」。なんだよ、空っぽかお前。
思えば「セッション」も「ラ・ラ・ランド」も、「何故ジャズは素晴らしいのか」という理由は伝えられないまま、スクリーンの中で主人公の演奏を聴き終えた観客は拍手をします。何故なら台本に「観客が拍手をする」と書かれているからです。
そこを時にあからさまに、また時に巧妙に観客の無意識に訴えかける演出で、映像で、音楽で、演技で、伝えるのが映画の醍醐味なのではないでしょうか。
ところで、主人公が売れるために自分の嗜好とは違うバンドで演奏することを、この映画では暗に責めています。笑いたくもないフォトセッションで笑うことを、暗に責めています。
でもこの映画で感じた数少ない意図のひとつは、「この映画を人に褒めてもらえるなら、その結果アカデミー賞が獲れるなら、どんな手法でも、どんなベタなラブストーリーでも使ってやる」というえげつないものでした。
そんな「産業映画*」を観せられたわたしは、映画の内容と制作姿勢とのアンビバレンツさにすっかり呆れてしまったのです。

しかしながら冒頭に書いたように、デートムービーとしては最強の部類に入ります。劇中主人公たちがそうしたように、同じシーンでカップル同士手を握りあうことをお薦めします。デジタル上映が主流となった今ではフィルムが焼けることもありませんから、そのノリでキスだって出来るかもしれません。映画が終わったらとっととホテルに直行しても良いでしょう。そしてセックスが終わってタバコを燻らせてるくらいになって、この映画のストーリーや、劇中流れていたメロディを反芻する程度の記憶が無くなっていたとしても、その時ベッドの隣にいる相手とは良い心持ちのまま眠りにつけるはずです。
いや何を言ってるんだ、この映画は自分は本気で素晴らしかったと思っている、というお叱りを受けるかもしれません。お詫びと言ってはなんですが、そう思えたあなたにはこちらの映画をご紹介させていただきます。
田村正和主演の「ラストラブ」という作品です。「ラ・ラ・ランド」と同じくジャズが物語のメインに据わっていますし、観客に伝えたいこともまたそのレベルもたいして変わりませんから、新ためて本作であなたが味わった感動を、また別のかたちで得られること間違いなしです......おっとそうだ、であれば、観る際には、ハンケチのご用意を。どうぞ、忘れずに。
それでは。
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* 映画は元々産業なのですが、音楽に「産業ロック」と揶揄されたジャンルのものがあったのでこう記します、音楽も産業ですけどね。

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