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”わからないから、学ばないと”男社会で生きてきた私がフェミニストの本を読んで感じたこと

「なんの本を読んでるの?」
ー「フェミニズムの本」
「フェミニズムって?」
ー「うーん、ジェンダーがどうとか、人権の話とか?」

数時間前、まだ数十ページしか読んでいない段階で、一緒にシーシャを吸いに来た友人との会話。

読み終えたいま(読みながら書いている部分もあるが)、これは私だからこそ言えるものがあるし、言わなきゃいけないものがあると思った。

ただ一冊の本を読み終えたに過ぎない。
私の行動がすべて是されるとは思わない。

ただ、こうやって表出すること、宣言することで
私自身も立ち返りたいし、これからの自分のあり方を見直したい

そして、今までの私を知っている人にとっては、「どの口が言っているんだ」と思われるかもしれない。それ自体がとても重要なことにも思う。

自分には関係なさそう。そんな人こそお読みいただけたら幸いです。


感じていた違和感と、甘えていた過去

まずは、自分の過去を振り返らせてほしい。
わかりやすいほどの、”男社会”で生きてきた

男三兄弟の真ん中として、かつラグビーという圧倒的に競技人口において男性比率の高いスポーツを幼少期から続けてきた
所属クラブチームの比率においては一学年≒一クラス分程度に女性が一人いるかどうかといったところ。多少の関わるところで誰かのお母さんか妹、そんなところだった


正月や週末には、同じくラグビーをずっと続けてきた父親がよく友人や後輩、その家族を家に連れてきた。
リビングや庭で子どもたちが遊びまわり、親たちが談笑する、この風景は私が実現したい場の原風景でもあり、暖かな空間であった。

ただ、忙しなく動き回り、時にはまだ小さい子を別部屋で寝かしつけ、料理の準備や片づけをするのは「母親たち」であった。
私は自分より小さな子たちと遊んでいることがもっぱらであったが、キッチンの中にいる母親たちを眺めていることが多かった
そして、母親たちが家事を終え、輪の中に入ってきてからの時間が一番好きだった

「早く終わらせてよー」という発言は、彼女たちが家事をやるものである前提から出ていた発言だったなと、今振り返ると強く思う

目に入る、身を取り巻く世界は男性中心であったし、ラグビーを続けていることで”男性性”として語られるステレオタイプに近いものを身に受けていたし、そうあることが当然、むしろ誇らしいような自分たちがいたように思う

その中で、ある一定の性差による感覚を持っていたことは認めざるを得ない

※幼馴染やいとこ、家族ぐるみで仲のいい家族の子どもたちは女性であることが多く、そこへの「女性」として一つ特別な敷居をもって接していた自分もいた。そこについてもどこかで深堀りたいと思う

役割分担と、思いやりと

そんな環境で過ごしていたため、そもそも「女性蔑視」という概念もわからず、声をあげる人たちがいることすら話題に上がらない、そんなコミュニティで過ごしてきた。

そしてラグビーを取り巻く環境で浮かんだいくつかのケースを紹介したい

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ケース① 外に出るのが父親、中にいるのが母親?

3歳から入っていたクラブチームでは、お父さんコーチを含め家族で関わる人も多く、父親と練習に来るこどもたちも多い。

私の親も別学年のコーチをしており、一緒にグランドに行き、一緒に帰路についた。

母親たちはたまにグランドのそばで見守ったり、帰ってきたこどもたちのジャージの泥を落とし、おなかを空かせた育ち盛りのためのお昼を用意する

父親は運動後の程よい疲労感を感じながら、早めの酒盛りをしながらうたた寝をする

ぱっと見では、平和な休日の午後である

ただ、もしこの風景が、母親と父親が入れ替わったら?
違和感を感じる人は増えるのではないだろうか


「アクティブで自由な母親」と、「献身的で控えめな父親」
そんなふうに揶揄されることが目に見える

そこには「母親は父親と子どもの帰りを待ちご飯とお風呂の準備をして待っている存在」「父親は子どもを連れていき、活動的であること」などといったステレオタイプが潜んでないか


そんなことも想像してもらえればいいなと思う



ケース② 部活においての、”マネージャー”

高校の部活では、各学年2~4名ほどのマネージャーがいた
トレーナーの要素も兼ねているので、テーピングからドリンクづくり、練習時間の計測や治療など活動は多岐にわたった。

グランドにいる選手から、「マネージャー、水」と言われれば即座に飛んでいき、水を渡す
選手よりも早くグランドにいき、水や備品を用意する
プレーヤーの悩みを献身的に聞く

選手とともに、支えながらチームの勝利に貢献するー

実際に経験した部活のシーンでもあり、もし会社の上司たち・自分の親たちに運動部のイメージを聞いたら、多くはこんなシーンと大差ないイメージをするのではないだろうか
そして、そこでのマネージャーといえば女性部員を思い浮かべるのではないか

そしてその場でのマネージャーは、対等に扱われることは少ない

人に顎先で動かされ、少しでもミスがあれば怒鳴られる
自分自身が表彰されることもなければ、レギュラーとして努力をわかりやすく表現する場もない

完全な私見として、そんなマネージャーに「この人たちはなにをするために部活に入っているのだろう」そんな風に思っていたこともあった

ただそんな少しの違和感を超える、多くの「そういうもの」という観念に囲まれ、環境に甘えてきた私が、個人としての転機を迎え始める



高校3年になり、キャプテンという立場から組織全体を考えるようになったとき、マネージャーの存在の大きさと役割の重要さが改めて身に染みた


そのうえで、部に、日本の部活というものに深く残る「使うー使われる関係」というものをどうにかしたいとぼんやり考えていた


当時は、「当たり前と思わず、感謝をしよう」「対等に意見し合えるように、お互いを思いやり想像しよう」という程度に留まってしまったが、考え始めるきっかけになったように思う


大学の部活では、マネージャーの役割として分析や他校との試合調整、OBOGとの関係構築や保護者対応など、組織を運営していく要素が追加された。トレーナーは明確に役割が分かれ、選手のコンディションやトレーニングの管理から直接の指導まで、より専門的な方向になった。 


このあたりから、なんとなくもやもやが晴れてきたように思う。
それは、学生トレーナーとして、選手以上に勉強などの努力を重ね、選手と口論になるくらいの熱量で関わっていたある先輩がいたからかもしれない



一方で、ジェンダーとしてのバイアスが別で深まってしまったのも事実である


無意識的(もしくは意図的に)にも、「強い人がかっこいい」「男らしい人が至高である」文化をつくりだすことに一役を買ってしまっていた女性マネージャーと、その手前男らしくあって、強く見せたい男性選手。そういった構図ができていた。

部活においてのマネージャーもトレーナーも、あくまでポジションのひとつであると私は感じていて、そこに性別や関係の優劣が生まれるものであってはならないというのが、このあたりからはっきりと感じはじめる

ここまでいろいろ体験を含め記したが、私を含め今の私たちのなかに潜んでいる無意識の役割認識の一例として捉えてもらえればうれしい


見る人がみたら私の捉え方は理解できない反論の対象になりうるだろうし、もちろん正解もないようなテーマで、是非も良し悪しも評価するものでもない


ただ、ケースとして自分ならどう思うか、それを価値観が異なる人とどう話すかという点で表出させてもらった。

ぜひみなさんにも(特に私の周りの友人たちも)考えてもらって、もし気が向けば、背けずに対話をしてみたいな、と思う

何がこのゆがみを産み出してきたのだろう

何が自分の当たり前の価値観の根幹をつくってきたのだろう

そんな問いに、みんなで取り組みたい

新しい”あたりまえ”

フェミニズムに関しての歴史的な背景や経緯については、
多くの本で話題になっているし
文末に記載した私が読んでいた本もぜひ読んで欲しい

ただ現段階の私が言えることとしては
そんなここまでの社会が産み出してしまっていた、間違った”あたりまえ”
それが多くの人を苦しめているということ

それは女性が強くあることを否定し、
声をあげればあげるほど攻撃の対象になり
多くの黙殺を生んできた

そしてそれは男性にも過度のプレッシャーを与え
強くあることを強制させ、
弱さを見せることを否定してきた

「関係ないひとはいない」という意味が、やっとわかったし、
自分自身の肩の荷が少し降りた気もした

判断しないこと、想像すること

楽しい場が成り立つとき、そこには誰かの努力が潜んでいる
その自己犠牲を否定するつもりもなく、自分自身もそうであるように、そこに存在意義や価値を感じる人もいる。

ただ、それが望まれた形ではなく、外的に造られたポジションにより押し付けらているとしたら?

それは耐え難いことであるし、あってはならないのだと思う


「いじられキャラ」もそうかもしれない
その場で笑ってはいる本人たちの、裏の涙があることを知っているのだろうか

私は”体育会出身”だが、だからと言ってお酒が大好きで、宴会芸が達者で、ストレス耐性が人よりあるかと言われたら、そんなこともない

忘れてはいけないのは、想像力であって、決めつけないこと

「○○ってこうだよね」はあなたに見えているほんの一部分であって
”わたし”を語るには、簡単に形用でき得るものではない


そして(私もそうだったが)、自分が合わない人、理解できない人に対して「コミュニケーションをとるのをやめること」をしてしまうのはとても勿体無くて、悲しい。

私は誰にでも良い部分・すてきな部分はあると思っているし(SFでいうと最上志向)、なんでそう思うのかを純粋に気になってしまう(収集心・学習欲)

個人的な志向のなかでは、もっとみんなが「対話」できる社会になってほしい。

なんでそう思ったのか、なんでむかついたのか。
なんであなたが嫌いだと思うのか、好きなのか。

そんなことを、みんなが前提を保留し、肩書を外したうえで話し合える世界なら、きっと今より悲しんだり、憤ったりする人は減るんじゃないかな


もちろん根本の解決策ではないけれど。私はそうありたい。

"わからないから、学ばないと"

作中に出てくる、フェミニストの男性の言葉である

私自身も、これからも過ちをしてしまうかもしれない
ただそれが少しでも減るように、学び続けることはしていきたいし、なにかあったときに対話もし続けていきたい


2022/3/8 
ー「私は男でフェミニストです」の読了と、国際女性デーに寄せて


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