不思議な法学 後編
前半で終わっていた「不思議な法学」の後編です。今回の記事は固い記事なので、エラソーな「である調」でいきます。
さて、前回の記事で「法学は客観性ある科学とは言えない」と述べた。では、現代の法学にはどういう意味があるだろう。
⇧前編です。
1.立法事実
ドイツの諺に「ソーセージと法律は作る過程を見ない方がいい」というものがある。この諺が表しているのは、法律制定の過程とは、社会諸勢力の醜い綱引きや取引の産物だということ。
日本でも消費税率のアップや10万円の特別定額給付金の決定などは分かりやすいだろう。
電気代込みになっている「再生可能エネルギー賦課金」は、福島原発事故後に成立した「再エネ調達特別措置法」を基にしている。
これは原発事故に懲りた日本国民の支持を受けて、再生可能エネルギーをもっと推進しようという意図の下で成立した。原子力発電を推し進めてきた経産省と電力会社、東芝、日立といった重電メーカー、国際競争力の確保のため安い電力を求めてきた産業界の意向を覆した決定だった。(軍事転用のための技術者確保もあったかもしれない。)
輸入関税率の設定は一層政治的だ。2019年に締結された日米貿易協定の結果、米国は日本への牛肉輸出関税を38.5%から2033年までに9%まで下げることとなった。他方で、米国は自動車を除く工業品の関税を撤廃・削減することになった。
政府は、工業製品を輸出する企業の利益を増やしてそこから税金を徴収し、補助金として被害を被る畜産農家に配ればよい、という算段をした。
そもそも憲法自体が政治の産物であることを認めない人は稀だろう。
こういう立法背景を、法学では「立法事実」と難しい用語で呼んでいる。
立法事実とは、「法律を制定する場合の基礎を形成し、かつその合理性を支える一般的事実、すなわち、社会的、経済的、政治的、もしくは科学的な事実」(芦部伸喜)をいう。
2.エンジニアリングとしての法学
裁判官、検察官、弁護士ら法曹三者は、憲法とそれに則った法律、また上記の立法事実の上で勝ち負けを競ったり、時に法律自体に異議申し立てや法律の是正勧告をする。
この構図は、ITエンジニアがやっていることと似たようなものだ。つまり国会がプログラマーで、裁判所がデバッガー。国会議員がプログラムを組んで、行政がそれを走らせて、エラー(バグ)が出たら、弁護士が裁判所に持ち込み裁判官が修正パッチを書く。根本的なバグなら、国会にプログラムの書き直し(是正)を促す。
そう考えると多分行政は、CPUとかメインフレームと同じような働きだ。多分。(専門じゃないのであまり自信はない。)
であれば、法学は、社会科学として経済学や社会学と並べるより、工学と並べた方がお似合いなのだ。だから、社会的な工学として、「法学」は「社会工学」と呼んだ方が収まりが良い。
工学もまたその追求するべき「善」(GOOD)は、倫理学なり哲学なり社会哲学なりにその基盤を委ねている。だから、法学の基盤もまた倫理学や法哲学に委ねればいいだけだ。そういうのは、マイケル・サンデルとかに任せよう。
法学者は、実践者としての法曹とはまた異なる立場として、社会工学としての見取り図を示したり、法哲学で法が拠る人間一般の法則を研究しても良いと思う。この辺は、社会学や文化人類学と重複してくるが、別に法学部でやってもいいと思う。
3.社会科学は自然科学に劣らない
さんざん「自然科学からしたら、社会科学なんて未熟、法学なんて科学を名乗る資格すらない」と述べてきたが、社会科学は自然科学と同様に重要で不可欠なものだ。
概念図を作ってみた。自然科学が扱うのは、人間集団も含む森羅万象だ。社会科学が扱うのは、小さな楕円で囲まれた世界のごく一部だ。
研究領域だけみれば、自然科学>社会科学のようだが、実際はそうではない。というのは、自然科学者を含むあらゆる人間が、社会の中でプレイヤーとして生きているからだ。(顔のマークのところ。)
どれほど優れた自然科学者でも、子供の教育で迷ったり、嫁姑問題に手を焼いたりする。大学での人間関係に悩み、研究費のスポンサーの顔色を窺ったりもする。
社会科学的な視座を全く持たない人間はいないのだ。それが橋田寿賀子の書いたドラマのような市井の哲学だったとしても、誰しもが何らかの人間観、社会観を持つ。否、持たざる得ない。
それは社会科学者にとって、リンゴが木から落ちるのを知っていることに等しい。生きていく以上、どんな社会科学者も必ずなんらかの自然科学観はもっている。
ゆえに、人間において社会科学の重要性は、自然科学のそれに劣らない。たとえそれが未熟な完成度であったとしても、問いとして誰もがずっと向き合わねばならない。
だから研究領域は狭いかもしれないが、一人の生からみた重要性は、社会科学も自然科学も等しい。ジャケットがあっても靴がなければ外出できないのと同じように、自然科学だけあっても生きていけないのだ。
4.社会工学の技能者としての法学者
本筋に戻そう。裁判は毎回どう転がるか分からない。福田赳夫がかつて「天の声には変な声もある」と言ったように、おかしな立法もある。再現性は、はっきりいって非常に低い。
しかし「社会工学としての法学」は、社会科学ではないにせよ、大切な意味がある。それはサイエンスではないかもしれないが、テクニック(技)やアート(術)ではある。
それは、毎回毎回異なる一回性の営みだ。だから、法律実務家が持つ能力は、科学者としての能力より、個人が持つ「芸」的なものだ。弘中惇一郎みたいな弁護士を思い浮かべれば納得しやすい。
裁判官も、加害者と被害者の双方を橋渡しして、罰と慰めによって均衡を回復すると同時に社会に与えた衝撃を繕う。これはマニュアル化、科学化しにくい。その人の持つ見識と経験に裏付けられた行為だ。
これらは分かりやすく言えば、「技能」である。技能とは「あることを行うための腕前、能力」を意味する。言い換えれば「ものごとを行うにあたって、よりスムーズにうまく遂行できる技量」のことだ。
「技術」は言葉や記号として他者から学べるのに対し、「技能」は主に個人の経験を通じて獲得する。経済学や社会学が社会科学として言葉や記号として学べるのに対し、法学は技能なのだ。つまり法律に携わる人間はテクニシャン、「社会工学の技能者」と考えるのが一番しっくりくる。
技術者が技能者より偉い、などということはない。お互いが欠かせない部品の一部だ。むしろ技術者よりも、現実的に問題を軽々と捌いていく技能者の方に憧れを抱く人も多いだろう。工学研究者より、プログラマーになりたがる人は多いのだ。
だから、法律を専門とする人は、社会科学者に劣らず、また自然科学者にも等しい重要性がある。
つまり法律を研究する人々は、「社会工学の技能者」であり、自然科学者や社会科学者と同様に重要な存在なのだ。
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以上が結論です。
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