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サミュエル・ベケット「ゴドーを待ちながら」
こんばんわ。今日は好きな書籍を一つ紹介します。
サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」(1952)です。大好きを通り越して死ぬくらい好きな作品です。以下、ウィキペディア引用です。
あらすじ
『ゴドーを待ちながら』は2幕劇。木が一本立つ田舎の一本道が舞台である。第1幕ではウラディミールとエストラゴンという2人の浮浪者が、ゴドーという人物を待ち続けている。
2人はゴドーに会ったことはなく、たわいもないゲームをしたり、滑稽で実りのない会話を交わし続ける。そこにポッツォと従者・ラッキーがやってくる。ラッキーは首にロープを付けられており、市場に売りに行く途中だとポッツォは言う。ラッキーはポッツォの命ずるまま踊ったりするが、「考えろ!」と命令されて突然、哲学的な演説を始める。
ポッツォとラッキーが去った後、使者の少年がやってきて「今日は来ないが明日は来る」というゴドーの伝言を告げる。
第2幕においてもウラディミールとエストラゴンがゴドーを待っている。1幕と同様に、ポッツォとラッキーが来るが、ポッツォは盲目になっており、ラッキーは何もしゃべらない。2人が去った後に使者の少年がやってくる。ウラディミールとエストラゴンは自殺を試みるが失敗し、幕になる。
何が面白いのかと思うかもしれませんが、面白いんですね。
有力な解釈は、「ゴドー(Godot)」はゴッド(神)の隠喩だという読み方です。私もそう思います。この辺りからネタバレ的で野暮かもしれませんが、これから述べることも私見に過ぎないのでまぁ書いてしまいます。
主人公の浮浪者2人、ウラディミールとエストラゴンは、共産主義者と無政府主義者を指していると思っています。
浮浪者というのはプロレタリアート(貧民)を表象していて、貧民がすがれる思想は、昔も今も共産主義か無政府主義ぐらいなものでしょう。
ロシア革命を主導したレーニンのフルネームが、ウラジミール・レーニンです。従ってスラブ系のウラジミールは、共産主義者と考えます。
エストラゴンは、フランス料理でよく使われる香草だそうです。ラテン系の名前です。フランス人だった無政府主義者プルードンなどをイメージしていると思います。(この作品自体がフランス語で発表されたものです)
共産主義者も無政府主義者も、どちらも無神論者です。無神論と唯物論は大きく重なります。
ポッツォとラッキーですが、ポッツォは一番解釈が難しいので、ラッキーについて先に触れましょう。
ラッキーは奴隷として描かれていますが、恐らく一昔前の欧州の人民を象徴していると思います。服従するのみで考えることがない。キリスト教支配の下、聖書の無謬を信じ神の奴隷として生きる姿です。
キリスト教の無謬性が幻想だったと気づくと同時に、人生や世界の意味を改めて考え始めてしまう。これがラッキーが哲学するということでしょう。
もっとも多重的存在なのがポッツォです。法皇や王のようにも見えますし、この戯曲が書かれた1952という年を考えると、ムッソリーニやヒトラーのようにも捉えられます。しかし特にポッツォが明らかにイタリア系の名前であることからすると、他の登場人物との関係上、ローマ教皇的な要素が強いのかなと思います。この辺りの曖昧さこそが、作品の肝かと思います。
このように登場人物の想定をしていくと、寄って立つものがない現代人の状況をタイムリーに描いた寓話作品と読むことができます。
これは私による1解釈に過ぎませんが、大きく外れてはいないと思っています。逆にベケットは、こういう単純な図式からわざと確定できない要素(ノイズ)を加えていって、作品に奥行きや豊かさを与えたのではないかと思っています。
ご清聴ありがとうございました。
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