人の一生
母と姉から連絡が来た。
「おじいちゃんが体調崩してる。いつどうなるか分からないから明日電話繋ぐね。」
おじいちゃん。
私の母方の祖父。
2歳のときに両親が離婚して地元、兵庫県豊岡市の小さなまちに母と姉と帰った。
今よりも出戻りを気にしていた時代の小さな集落。
私たち家族は祖父母の家からほど近い県営住宅で暮らした。
朝は家から通学し、帰りはおじいちゃんちに帰る。おじいちゃんちの地区で遊んで、宿題をして、夜ごはんを食べて、お風呂に入る。
そのうち20時すぎに仕事を終えた母が、姉と私を迎えにきて、三人で家に帰る。
そんな幼少期を過ごした。
祖父母の家で育ったおかげで、平成生まれだけど、黒電話、ぼっとん便所。遊びは、めんこやゴム跳び、お手玉、オオバコ相撲、ザリガニ取りと、がっつり昭和の空気のなかで育った。
ゲームはしたことがない。(たまごっちはある。)
畑で収穫して、梅干しをつくって、小豆を炊いたり、ところてんをつくる。麺つゆも手づくり。おやつは畑のグミの木。
祖父の家は柿や栗の木もあった。
春になれば下校途中に、つくしを摘んで天ぷらかお浸しにしてもらう。(うれしくて摘みすぎて捨てられるオチ笑)
つつじを摘んで蜜を吸う。
叱られたときは、お尻を叩かれて、真っ暗な蔵に閉じ込められてお仕置きを受けた。
おじいちゃん子やおばあちゃん子という認識がないほど、祖父母は私にとって当たり前の存在だった。
思えば、全てありがたいことだった。
良い子ども時代を過ごさせてもらったと思う。
四季を感じながら生きるのが心地よく感じるのも、きっとこの幼少期に培われたのだと思う。
祖父、祖母。
私にとっておじいちゃん、おばあちゃん。
だけど、してくれたことは全て父母のことだった。
2/12 日曜日 15時半。
私の住んでいる白馬は春のようなひだまりだった。
おじいちゃんとテレビ通話をした。
久しぶりに見るおじいちゃんは、私の知ってるおじいちゃんじゃないみたいだった。
だけどたしかに、おじいちゃんだった。
気を抜いていた。
その一瞬で脳天を突かれたようだった。
このテレビ通話のあと、冬の雪山が終わったら会いに行こうと思っていた。
だけど、もしかしたらこれが最後になるかもしれない。
そんな考えが一瞬、頭によぎって無かったかのようにかき消した。
喉がきゅっと締め付けられた。
「おじいちゃん、久しぶり。元気?こっちは今日すごくあったかいよ。春みたい。
おじいちゃん、ありがとう。育ててくれてありがとう。いっぱい迷惑かけたね。
最近よく笑ってるよ。笑って過ごしてるよ。」
おじいちゃんは瞼が落ちそうでかすかに私を見ていた。
口元がかすかに動いて、何かを伝えようとしてくれているのが分かった。
声にはならなったその言葉の内容はなんとなく分かった気がしてありがとう、と思った。
画面が姉に変わった。
「次、従兄に繋ぐね。あと、他に伝えたいことある?」
話してる間、また会えると信じていた。
だけど、最後になってしまうかもしれないその可能性が拭えなくて、小さく姉に聞いた。
「これが最後とかじゃないやんな、、」
「分からないけど、最後になるかもしれない。だからそのつもりで電話繋いでる。」
これが最後になるかもしれない。
次は、そのつもりで伝えないといけない。
もう一度、画面を向けておじいちゃんを見た。
すぐに声が出なくて、何度も飲み込みながらようやく言葉にできた。
「おじいちゃん、ありがとう。育ててくれてありがとう。子供のとき地元に帰って良かった。日高町で育って良かった。育ててくれてありがとう。」
口元で笑顔を作るのがやっとだった。
おじいちゃんを見たくて、目はまっすぐ真剣だったかもしれない。
電話を切ったあと、堪えていた何かが溢れるように涙が出た。
うずくまって顔を抑えても涙が止まらなかった。
あんなに晴れてた空は、いつのまにか白く染まっていた。
人の一生ってなんだろう。
人生ってなんだろう。
人は毎日たくさんの人と出会う。
そのなかで大事に想う人を心からの愛情で大切にしたい。
大切に想う気持ちを心に留めておきたい。
強く生きるね。幸せに生きるね。
伝えそびれてしまったけれど、たぶん、きっと伝わっていたと思う。
この思いを綴っておきたくて、今ここに残しておこうと思う。