逆説のサイエンス・フィクション
why : サイエンス・フィクションは逆説の塊
逆説の進化史を始めるに当たって、ふと、サイエンス・フィクションは、ものすごい逆説の塊であることに気がついた。そして、この気づきが、自分自身の根源に近い部分にあったため、誰のためでもなく自分のために、一つ目の逆説の進化史を書いてみようと思う。
そもそも、サイエンスという再現性を求めるものと、フィクションという空想を求めるものを組み合わせている時点で、サイエンス・フィクションという言葉は、サイエンスに対してのものすごく強力な逆説である( 概念の発生順序としては、フィクションに対して、サイエンスが逆説なのだろうが )。個人的には、逆説という言葉は、サイエンス・フィクションのためにあるといっても過言ではないが、あまりに日常に近すぎて気づくことができていなかったようである。
現時点で、ヒトが一見して生態ピラミッド上もっとも大きな消費者たり得ているのは、言語による知見の形式化とあいまり、サイエンス・フィクションの力が大きいだろう。
たった一行の言葉が、擬似的な進化に値するレベルで、常識を覆す。
そして、その概念の実効性をサイエンスの延長線上、つまり、再現可能なものとして表現して行く。
サイエンス・フィクションとは、擬似的な進化を実効可能にした場合のシミュレーションであり、進化の方法論とも言える。そして、もっともヒトらしい活動でもあるのではないか。
who : サイエンスフィクションという逆説は誰が産み出したか
サイエンス・フィクションが、ジャンルとして誕生したのは、18世紀初頭の小説「フランケンシュタイン」(Frankenstein: or The Modern Prometheus)によるものとされていることがあるが、個人的には、SFの父とよばれるH .G.ウェルズのタイムマシンの原型である「時の冒険家たち」(1888年)が、もっとも最初のサイエンス・フィクションとしての逆説であるように思う。(参考:20世紀の空想科学史)
時代的な背景としては、科学の発展によって、魔法のように原理が不明であるが引き起こされる不思議なことの説得力が薄れてきたことが考えられる。実際に、サイエンス・フィクションが生まれる少し前、魔法的なものの排除として行われていた魔女狩りは、17世紀末ごろにおきた知識階級の超常的な物事についての解釈変化によって、次第に終わりを迎えていったとされている。
つまり、サイエンス・フィクションとは、言語的な概念によって裏づけなく新しい概念を作り出すことが許容されたフィクション作家が、再現性を求めるサイエンスの概念の浸透によってフィクションに対して捻り出した逆説なのである。
when : ドラえもんは、サイエンスとフィクションを届けてくれた
日本で、サイエンス・フィクションといえば、何が思い浮かぶだろうか。これは、世代によって別れるかもしれない。金子隆一かもしれないし、宇宙戦艦ヤマトかもしれないし、風の谷のナウシカかもしれない。
私にとっては、最初のサイエンス・フィクションは、ドラえもんの雲の王国だった。中でも一番驚いたのは、ロボットであるドラえもんが壊れ、のび太が、ドラえもんを助けていく場面である。
それまで私の中では、ドラえもんはおっちょこちょいだけどなんでもできるものとして偶像化されていた。つまり、ドラえもんはまだどこかしら魔法的な何かだったのである。
だからこそ、現実のものと一緒でちょっとしたことで壊れることがあり、直るには人の手が必要で、そして、なんらかの技術的な手段によって直されているモノであるのだということに、言葉をなくすほど驚いたのを覚えている。そして、多分この時初めてアニメーション映画で感動して泣いたことを鮮明に記憶している。
この認知の転換は、私にとって単純に画面の向こう側に存在していたサイエンス・フィクションが、自身の手元にきた非常に大きな体験であった。
実際に、その後小学生ながらサイエンス・フィクションに触れたくなり、空想科学読本を読み始め、タケコプターで飛べないことに驚愕し、ほんとかどうか疑い、サイエンス雑誌を読み耽るようになった。
サイエンスだけどフィクションである。フィクションだけどサイエンスである。このギャップの魅力に、この時からくびったけなのだと思う。
what : ビジネスにおけるサイエンス・フィクション
少し脱線してしまったが、ここからは、サイエンス・フィクションがビジネス上で活用されている事例について、いくつか見ていきたいと思う。
そもそも、ビジネスにおけるサイエンス・フィクションとはなんだろうか。
私個人の見解としては、ビジネスによって生じさせる社会的なインパクトによって変革した社会の姿を空想( フィクションの作成 )し、それを物理的に再現可能でありそうな技術・手法によって裏付け、つまり、あり得そうなシナリオをもっともらしく描くことだ。
ただ、この時、重要なのは、再現可能である、ではなく、再現可能でありそう、ということだ。
サイエンスの言葉で、先人の知恵に依拠して進めるということで、巨人の肩の上に立つ(standing on the shoulders of Giants)という言葉がある。
しかし、サイエンス・フィクションは、巨人の肩の上にたってはいけない。サイエンス・フィクションは、巨人同士で組み体操を行って初めて届くぐらいの場所から、あたらしい世界を見つめることのようだ。
そういった意味では、アポロ計画は、正しくサイエンス・フィクションであり、サイエンスがフィクションを追い抜いた結果でもあると言えるだろう。
Objection : 新しいサイエンス・フィクションは生まれているのか
ここまで、サイエンス・フィクションの可能性について触れてきたが、サイエンスであるために批判的な部分についても触れていきたい。
現在のサイエンス・フィクションは、1970年代には出尽くしており、フィクションをサイエンスが追い続けている結果を見ているだけという意見もある。
サイエンスは、観測と仮設のシーソーゲームによって成り立っている。
しかし、仮説の上に仮説を積み上げることはできるが、観測は、観測する技術の開発、観測の実行、観測結果の解釈ととにかく時間がかかる。したがって、1980年ごとに仮設の仮設の仮説として想像されたサイエンス・フィクションを、時間をかけて観測している最中でしか無いとされているのだ。
詳しくは具体的な事例の中で説明していくが、私自身、過去の仮説の中に含まれる範疇でしかサイエンス・フィクションをできていないのでは無いかという焦りがある。
世の中を劇的に変えたとされるiPhoneですら、そのサイエンス・フィクションは、実は古くから存在するのだ。
21世紀になってから全く新しいサイエンス・フィクションが生まれたか。
この問いに、私は、現時点で明確な答えを持っていない。
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