2045年のあるワカモノの日常
"それ"は、よく意識の隙間に差し込まれるような時に起こる。例えば、ふと洗濯物やらなきゃと思ったときや、靴紐を結んで顔を起こすときとか。
そういった意識の隙間に。
"それ"は、玉羊羹の皮が弾けたみたいに、急に頭の中に流れ込んで来るのだ。自分自身が誰で、これまでどんなことをしてきていて、どんな人生だったのか。記憶にないどこかの自分は薄皮として剥けてこぼれ、今ここで生きている誰かの記憶がよそよそしく、でも、あたかも自分自身であるかのように。
"それ"が、なんでおこるのかは、わからない。でも、これまで困ったことはなかった。今日、この時までは。
今日もまた、"それ"は、いつもみたいに意識の隙間にやってきた。いつもみたいに、本を落として拾い上げたその時に。
そこには、泥の男が、自分自身が泥からできていると気づかずに歩いていく男の後ろ姿が描かれていた。
「すいません、手が滑ってしまって。そちらの本をお借りしたいのですが。」
受付の前から声をかけられた。メガネをかけている男の子だ。受付からよく見える書架の隅の方で、静かに古いSFを宝のように抱えて読んでいる子だ。
いつも通りの返答をし、手続きを進める。この人生では、もう何度も行っていることだから、スムーズに手続きをして、男の子に渡す。
でも、男の子が受け取らない。ふと顔をみると、どうも非常に困った顔をしている。
「すいません、今日は義手の調子が悪くて。こちらのバックに入れていただけますか。」
そうか、彼は、義手だったのか。だから、普段から宝のように、本を抱えて読んでいたのか。でも、このことは知っていたはずなのにすっかり忘れてしまっていた。"それ"のせいかもしれない。
そんなことを考えながら、彼が腕を使って広げている肩掛けバックの中に本を滑り込ませ、軽くお辞儀をした。
「遅くなってしまったのに、丁寧にありがとうございました。」
彼は、そういって軽く会釈をして、ゆったりとした足取りでこの館を後にした。
彼が少しでも楽しい時間が過ごせればいいけどと思いながら、閉館時間を迎えた受付を片付けていく。
そんな中、取り留めなく心を不安がよぎった。
最近、"それ"の頻度が増えている気がする。"それ"が、起きる前の薄皮みたいな人生のことなんて覚えてもいられないのに、ただ、漠然とそう感じる。
なぜか、先程目に入った泥の男の姿が頭の片隅から離れない。
元々の人間と同じ原子配列がたまたま再現された泥の男は、自分自身の人生をどのように感じているのだろうか。
何も感じていないのだろうか。そんなことが取り止めもなく頭の中を流れていく。
その時、ここの若い司書長から声をかけられた。
「今日の業務お疲れ様。最近、本を落とすことが増えてきているけど、調子が悪いのか。」
どうも先程の一幕を見られていたようだ。"それ"についてうまく答えることができず、思わず困った感じで首を傾げてしまった。ただ、司書長には、それで何某かがうまく伝わったようだ。
ひらひらと手を振りながら、まぁ、無理するな、最後の戸締りだけよろしくと、声をかけて立ち去っていく。
彼が歩いていく先には、先程の男の子が手持ち無沙汰にしながら待っている。そういえば、"それ"の中で、彼らが若い兄弟であることや、昔に事故があり二人で暮らしていることといった記憶が含まれていたことを思い出す。
このあと、いつものようにご飯を食べてから帰るのだろう。
人が作ったご飯が好きだと聞いて、何度か作ることを提案しようと思ったこともあるが、領分を超えたことをすることにどうしても躊躇してしまっている。
そんなことを考えながらも、いつも通りに館の戸締りを行っていく。
ふと、電気を消した時に、窓の外側に大きな月が見えた。そういえば、今日は、中秋の名月と言われる日だった。
彼らは、「月が綺麗ですね」といつか誰かにいうのだろうか。
いつか「死んでもいいわ」と言えるような相手に出会えるのだろうか。
太陽の光によって照らされ姿を変える月は、自分自身のようだ。
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「あ、兄さん、お疲れ様。今日は何食べに行こうか。」
図書館の外で待っていた弟が、私の姿に気づいて声をかけてきた。
今日は、秋らしくないずいぶん強い冷え込みの日だからか、義手の調子がよくないようだ。少し白くなる息を必死に手にあってて、義手のつけにをさすっている。
「今日は、早めに家に帰ろう。義手の調子良くないんだろ。帰ったらすぐ調整するよ。ご飯は、、、たまには人が作るのでなくてもいいだろ。」
冷え込みが強いからかよく見える月を見ながら、そう弟に答えた。
その時、背後の館の電気が消え、うっすらと月明かりで照らされた人影が目に入る。
その表面は、弟の義手とよくにた鈍い光を反射していた。