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恥を忍んで友達から奢られる

今日は、久しぶりに会った友人にご飯を奢ってもらった話をしてみようと思います。


渡仏する友人と、ニートの私が、サイゼリアで

その友人とは前職時代からの付き合いです。

彼女は、ある大手商社で働く優秀サラリーマンで帰国子女で英語が堪能でとても気立の良い性格をしています。

なんとなく歳が近いからという理由で仲良くなり、その後は色々と情報交換したり、時に女の子を紹介してもらったりする間柄になっていました。


そんな彼女は、この夏から海外留学をするらしく、場所はフランス。一年間の中で、彼女自身がやりたいことをもっと見つめて帰ってきたい、とのことで素晴らしい。

海外生活の長い彼女からするとあまり心配事はなさそうな感じですが、純ジャパニーズの私から見ると「すごいなぁ」と思うばかり。

いまだに、なぜ彼女が私のような訳のわからない人種と仲良くしてくれているのか不思議なくらいです。


場所はニートの私を気遣ってくれてサイゼリア。なんの気無しに「ニートだから奢るよ」と言ってくれました。

彼女は聞き上手で、いつも会うと私はつい話すぎてしまいます。この休みの期間に検証しているビジネスの話、あれが面白い、これが面白いなど雑多な話、しょうもない話、などなど。

彼女のいつもポジティブで前向きな性格は、何度見ても私には足りない良い面で、尊敬するばかり。人目を気にしすぎない性格も素晴らしいと思います。


その彼女と対照的な私。ニートで、毎日好きな時間に起きて、自分の好きなことをやって、好きなタイミングに寝ています。

今が一番幸せを感じれていると思いつつも、社会に対してあまり貢献や寄与していない自分には少し後ろめたさを感じます

SNSは普段もうあまり触っていないため、周りの目はあまり気にならなくなってきました。

自分と他人を比較しない関係は幸せのため。自分と他人を比較する関係は自分の成長のため。

私は彼女と話すたび、
私の人生にはなかった選択肢と世界を彼女は見ているのだなと思うのです。


私の家庭は裕福ではなかったし、そもそも田舎で選択肢の数はずっと少なかった。

海外旅行に初めて行ったのは社会人になってからだし、英語を話せるようになったのも社会人になってから。

彼女が過ごしてきた世界とは良し悪しを除いて、全然違うものだよなぁと思うのです。


だから、私は彼女と自分を比較しない


というか、比較することがおこがましいと思うくらいに全く違うから比較のしようがない

だって、彼女は交友関係がグローバルにあって、日英それぞれ堪能で、言いたいことも言えるし不自由しないのに対して、私は日本で、日本語を中心にしないと言いたいことは多分言えない。

その分、挑戦の選択肢は少ないけれど、日本でできることはきっと彼女よりも多いと思う。日本にかけている時間が違うし、生まれ持った背景が違うから当然です。


彼女曰く、私は「意外と人の目を気にするタイプだよね」とのこと。

確かにそうかもしれない。いつもどこかで他人と比較して、自分を駆り立てて前に進んできたと思うし、そうでないときっと前に進んでいけなかったと思う。

山登りに例えると、レールに乗ってきたとは思っていないが、それでも誰かが進んだ轍をしっかり歩いてきた

ニートになるまでは、人生はタイムアタックのようなもので、限られた時間の中でどこまで遠くに行けるかを競いあうゲームのように捉えていた。


でも、彼女は違う。


私は全然彼女と自分を比較する気持ちになれない。だから居心地が良くて、言いたいことや今、不満に感じていることが言えて、あまり気兼ねのない感じで話ができる。

それは彼女の素質なのかもしれない。彼女と話すたび、幸せでより良い人間関係とは比較が発生しない人間関係だよな、と思うのです。


一方で、自分を前に進めていくために必要なのはある種の競争

他人と私を比較して、差を埋めるために努力したり、別の強みを活かしたりして、他人よりも前に抜きん出るような関係性。

多くの場合それは仕事で生み出されるし、少なくとも私の場合はそうであった。自分とある種近い背景や経験を持っていて、自分と近い考えを持っているからこそ、比較をするし競い合いたくなってしまう。

良い面ももちろんあるけれど、自分にとってのセーフティネットにはなり得ない。あくまで自分を駆り立ててくれる起爆剤なんだと思う

責任のある役割を演じるときほど、比較しないで済む関係性が重要

とはいえ、私は競争が不要だとは思いません。


大事なのは、状況に応じたバランスだろうと思うのです。


私はニートになる前、会社の中である程度責任のある役割を持っていました。その中で、周りの人たちと比較し、比較され、徐々に自分が持っている責任を果たす勇気がなくなっていった実感があります。

今までの私は、私自身の考えのもと何かを実行していくことで成果を生み出してきました。

が、責任と比較が同時に発生した時に、うまく身動きが取れなくなってしまいました。ある種の枠の中で、自分の特性が抜き取られてしまった感覚。そこに難しさはありました。

私は競争が好きな方だと思っていましたが、実は違ったのかもしれません。

もしかしたら、責任があっても周りとは違う独自の役割を持っていれば自分自身の特性をもっと活かせたかもしれません。人との関係性の問題もきっとあったでしょう。

私が現時点で至っている結論は、責任のある役割を演じるときほど、周りと比較しないで良い環境が大事、ということです。

例えば、自分の上司との役割や専門性が異なれば、異なるほど相手を尊重できます。部下も、自分と専門性が異なれば異なるほどよい。自分と近しい存在であるときっとうまくいかないのです。

責任を取る主体と、実行する主体は専門性のレベルから分かれている方が多分うまくいくのです。

大切なのは「周りと比較しないで済む関係性をつくること」

私に必要なのは、「ああ、この人と自分を比較しても無駄だ」と思わされるくらい素敵な人たちと出会うことなのだと思うのです。

そして、経験的にそういう方々はとてもたくさんいらっしゃいます。


会社員時代に私が間違えたのは、つい比較したくなってしまうような方々と一緒に働く環境を作ってしまったことだったなと思うのです。

もちろん、彼らは悪くありません。私自身が、自分の決断と判断でその意思決定を行い、実際に私自身が苦しんだ結果、私は今ニートになっています。


「あなたといるとジェットコースターみたいで疲れる」

と昔付き合ってた女の子は私に言いました。

まさに、私のキャリアも今、ジェットコースターみたいに加速しながら落ちていっています。私自身の市場価値も、評判も、交友関係も、いろんなものが手から離れていくでしょう。


「周りと比較しないで済む関係性を作ること」という事実を知るために、私が払った代償は非常に大きかったと思うのです。

でも、それでも、当時の私には多分何を言っても聞かなかったと思います。それくらい一心不乱でしたし、懸命にやっていました。

そこに後悔は一つもありません。ただ、もっとうまくできたんじゃないかと思うことはたくさんありますが・・・


本質的にわかっていたはずでした。

誰かの下位互換と感じてしまう人と付き合ってはいけない」ということを。


文章にすると、大変失礼な物言いですが、その人自身が下位互換なわけではありません

私自身の感じ方の問題で、それくらい私が性格的にはクズでバイアスがあるので、その人自身を丸っと尊重できない人とは付き合ってはいけない、と自分に言い聞かせてきたつもりでした。


でも、うまくできなかった結果、私は今ニートです。

ざまあみろと言われても仕方ないですね。

ここから何もしないわけではないですが、私には反省をする時間が必要なのだと思うのです。考えを改めるための。


渡仏する友人にはもっと世界で羽ばたいて欲しい。

自分のやりたいことが実現されて、多くの人の生活が変わるような変化を生み出してくれると信じています。

ああ、私も頑張らないとなぁ。

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