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スタサプ「[秋季]最難関国公立大 現代文」における柳生先生の解説に対する疑問

北大前期2012年現代文。
出典は、平川祐(旧字体)弘『日本語は生きのびるか』。

問1は漢字。

問2

「それ」を説明する問題。簡単な問題ではある。柳生先生の答えを引用する。

地球規模の資本主義体制に組み込み、異文化との接触や共存やその受容、さらに国内社会の国際化を意味するグローバリゼーション。

意味がよくわからない。

①「地球規模の資本主義体制に組み込み」とあるが、「なにを」だろうか。

②また、「組み込み」は何にかかっているのだろうか。「組み込み…グローバリゼーション」では意味が伝わらないし、「組み込み…意味する」も意味不明である。本当になににかかっている言葉なのだろうか。

③さらにいえば、「地球規模の資本主義体制」と「グローバリゼーション」は同じ意味だと言いながら、そのように書かないのはなぜなのか。どのように書いているかは、今述べたように不明である。しかし、両者を同じ意味として書いていないことだけはわかる。

異文化との接触や共存やその受容、さらに国内社会の国際化を意味するグローバリゼーションないし地球規模の資本主義体制。

とでも書きたかったのだろうか。

問3

「こうした地球一元化への運動の過程」を説明する問題。柳生先生の解答を引用する。

地球規模で経済や金融や言語の一元化のみならず、政治的理念の一元的支配が進む過程。

これも疑問がある。

①本文では、「金融や商法や商取引やさらには共通基軸言語の一元化」を指して、「そのような経済・金融の一元化」とまとめられている。

「金融や商法や商取引や共通基軸言語の一元化」
       ↑
「そのような経済・金融の一元化」

つまり、「金融・商法・商取引・共通基軸言語」を「経済・金融」と呼んでいるのである。

しかし柳生先生は、「言語」は「経済・金融」では普通、説明できないから、それに含まれず、別個に付け加えないといけないという。本文で、言語も「経済・金融」と表現されているのにである。「経済・金融」の中に「言語」を入れたくないのかわからないが、ここでの言語は「共通基軸言語」であり、経済・金融分野での言語を想定していてもおかしくはない。ビジネスの世界で英語が公用語として皆が使わざるを得なくなっているのは公知の事実であろうに。

ちなみに、「商法」は「経済・金融」に入れてもいいのだろうか。法は経済・金融のイメージにないといえなくもない気がするが、これはいいのか。基準がよくわからない。「普通イメージできるか」とか「普通想像できるか」は基準にならない。人によるからである。だからこそ本文を基準に考えるのである。

本文では、言語は「経済・金融」に含めて述べられており、それはあながち不合理でもないのだから、そのまま読み取るしかないのである。

②また、「民主主義や自由の理念」を「政治的理念」と言い換えて、「このようにまとめられるかというところです」という。「この問題で一番難しい」ところだそう。「政治という言葉が出てくるかどうか」「ここまでくると最難関ですよ」「このように本文にない言葉でまとめさせるのは東大・京大・一橋のお家芸」「難しいポイント」「こういう立場の人が本気出すとこういう事になっちゃう」(だけど受験生はここまでできなくてよい)と畳み掛ける。

ただ考えてみると、「政治的理念」と抽象化してしまうと、「民主主義や自由の理念」以外のものでもよいことになってしまい、本文の趣旨からそれてしまわないか。たとえば、「社会主義」でも「共産主義」でも「政治的理念」であれば何でもよくなるはずである。しかし、本文では、「民主主義や自由」と言っている。言い換えとして許される範囲を越えてしまっているだろう。

ここは、「民主主義や自由の理念」と書くほかないのである。

問4

「三点測量ができる」を説明する問題。これも難しくはない。

柳生先生の解答についていえば、「異文化受容に関して」とあり、異文化受容の場合に限定されるのかについてまず疑問があるが、ここはとりあえず置こう。

次に「安定した判断ができる」とあり、この部分を書くのは「最難関」だという。しかし、柳生先生が言及していたのは、「地球社会の安定的要素」の部分であり、何が「地球社会の安定的要素」となるのか考えてみれば、もちろん「三本足の人」だろう。つまり、三本足の人が増えれば地球社会が安定するということである。「安定」するのは「地球社会」である。「判断」ではない。

本文には、「コンパスが安定する」という部分もある。コンパスは比喩なのだから、安定するというのも比喩である。2つの支点しかないコンパスは不安定でぐらぐらするが、もう一点、支点が増えれば安定する。これはコンパスの話である。だから比喩である。では何が言いたいのか。人間や学者で、「コンパスが安定する」というのはどういうことか。本文に書いてあるのは、考えが偏らないということである。だからそれを書けばよい。それだけの話である。

「安定した判断」というのは、比喩が混在した表現である。そのまま読めば、「ブレない判断」ということになろうが、「状況に流されないで一貫した判断ができる」とかいうことは本文とは関係がない。「安定した判断」を「偏りのない判断」と解釈することはできないはずである。

問5

「世界の主流の西洋人」とか、「世界の傍流の東洋人」と書いているが、本文には書いていない。本文には、「世界の主流は西洋」とある。ここでの「主流」は、「世界の」とあることからわかるように「中心」くらいの意味であり、世界の中心は西洋というのは意味が通る。世界も西洋も地域(地理的範囲)だから。しかし、世界の中心は西洋人だというのは意味が不明である。もちろんそういう比喩はありうる。詩でもよい。だが、通常の文章においては意味が通らない。地域(地理的範囲)と人だから。


問2・4・5は、どれも解答を読んだだけで変だと感じるものである。なぜそんな状態でやれるのか不思議である。

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