会いに行きたい芸術家たち① | ファン・タオ・グエン(Phan Thao Nguyen)
会いに行きたい芸術家たち。一人目のアーティストは、ベトナム・ホーチミンを拠点に活動するファン・タオ・グエンにフォーカスしてみたいと思います。僕がこのアーティストに興味を持ったのは、まず何よりも彼女の作る映像作品のルックが好みだったこと。単純かもしれないけれど、ネット上に溢れる数多の作品をざざ〜っと目を通していくなかで、グッと直感的に惹きつけられる感覚を、僕は結構大切にしています。
郷愁を誘う素朴な田園風景、意味深げに梯子を担ぐ子供たち、水の中に寝そべるアオザイ姿の少女、時折カットインされる水彩画、読むことのできないベトナム語、東南アジア特有の鋭い陽光と対比するような夜の漆黒、三日月を反射させ揺れる水面。断片的なイメージが暗示する不穏な気配、何かが起こりそうな張り詰めた緊張感に静かに引き込まれていきます。
できればこんな画面の写真を撮ってみたいとも思う。物語を映像で綴る才能に出会うといつも心から感服させられる。作品の背後にあるはずの着想点や制作のプロセス、その経過にあったであろう困難や苦悩と、それを克服した物語に触れてみたい。素晴らしい作品に出会った時、僕はいつもそんな欲求にかられてしまうのです。
叙情的な映像美と文学的な語り口にひきこまれる!
歴史や風俗の真意を問う現代アーティスト
1987年ホーチミン生まれのファン・タオ・グエンは、シカゴ美術館附属美術大学で美術の修士号を取得し、ペインティング、インスタレーション、ビデオ、パフォーマンスなど広い表現媒体を横断しながら、歴史と現代をテーマにした作品を制作しています。独自の文学的、哲学的な視点を通して、社会の風俗や習慣の中に潜む曖昧模糊とした課題を静かな語り口で浮き彫りにするコンセプチャルな作風に定評があります。
Mute Grain / 2019 (on-going)
タオ・グエンの近作(現在も制作中)「ミュート・グレイン(沈黙の穀粒)」は、フランス・インドシナ植民時代の1945年、日本軍占領下のベトナムで起こった大飢饉を題材にしており、アーティストの個人的な解釈のもと映像・絵画、写真、古文書、インスタレーションによって構成されるシリーズ作品です。
ベトナム飢饉(1945年)は、1944年10月から1945年5月にかけて、ベトナム北部で発生した大規模な飢饉。40万人から200万人が餓死したといわれている。〈via Wikipedia〉
本作『ミュート・グレイン』の展示写真を見ると、メインは映像作品で、水彩画、写真、彫刻やインスタレーション作品によって構成されているようです。最近では、ボルタンスキーや塩田千春の大規模な展覧会が鮮烈な記憶として残っているけれど、複合的な媒体を介して受け取る情報量というか、頭が直感的に感じ取る感覚的なものの強さは計り知れないなと思う。立体的に、体感的に、作家の世界観を感じることができるから。僕も写真をやっているけれど、写真という枠に囚われすぎないようにと、こうしたスケールの大きな作品を目の当たりにする度に思います。手法はあくまで手段であることを忘れてはならない。
歴史的な出来事と文学・民話を編み込むように
“たった数ページに記された餓えによる苦痛。それは思春期の盛りだった私の心に、後生消えることのない強烈な印象を植えつけたのです”。タオ・グエンは、現代ベトナム文学の巨匠トー・ホアイ(Tô Hoài)による散文詩「餓え(Starved)」を読んだことが、この作品制作のきっかけとなったと自身のウェブサイトで語っています。
タオ・グエンのアーティストとして根底にある興味は、歴史的な出来事がどのように扱われるのか〈いかにして一方が美化され、一方は忘れ去られるのか〉という問い。自分が生まれ育ったベトナムという国の成り立ち、強者によって上塗りされた史実に疑いの視線を向けることで、自らのアイデンティティの本質に向き合おう試みが、彼女にとってアートであり、創造のモチベーションなのでしょう。
本作は、歴史学者のヴァン・タオによる後述歴史(歴史研究のために関係者から直接話を聞き取り、記録としてまとめること)と、ベトナム民話や物語から拝借した空想的要素を編み込むように構成されています。また作品全体を包み込む(主に映像作品のナレーションにおける)叙情詩のような美しい言語表現は、川端康成『掌の小説』に影響を受けていると明かしています。
臭いものに光をあてる
この美しい映像が伝えるのは、いわれのない死によって成仏できず、餓鬼となってしまったオーガストという名前の少女の物語。“人としての姿を保ったまま、少女は時と空間の狭間に姿を現す。妹を探し求める兄のマーチとふたり、シルクスクリーンやシアタープロジェクションを彷徨い歩く”。
このマーチとオーガストの物語は、太陽暦における最も貧しい月を意味しています。それは農民たちが何とかして生きながらえようと、金を借り、仕事を探してまわった大飢饉の最中の極めて厳しい時期にあたります。
タオ・グエンは、この日本軍占領下のベトナムを学んでいく中で、食糧安全保というテーマは、今も昔も時折起こりうる、終わりのない悲喜劇であることが明らかになったと語っている。そしてそれは最終的に人間性を奪い、文化と自然を腐敗させるものである、とも。
現在においても、いまだ政治情勢のあおりを受けた悲惨な飢饉が世界のあちこちに蔓延している。今回紹介したタオ・グエンの作品「ミュート・グレイン」は、時間によって風化し、美化されていく真実の物語に光をあてることで、静かに警鐘を鳴らし続けるのです。
コレクティブとしての活動が生む、異なる視点
またタオ・グエンは、同じくホーチミンを拠点にするアーティスト、トルーオン・コング・タング(Truong Cong Tung)とアルレット・クイン・アン・トラン(Arlette Quynh-Anh Tran)とのコレクティブ、〈Art Labor〉の一員として積極的に活動しています。
“私たちは、単一の作品をつくるのではなく、ある着想の種をまくところから始めます。根茎が地中に広がり花を咲かせるようにじっくり作品と向き合います。それはまるで数年にもおよぶ長い長い旅のようなものなのです”。
アーティストたちが目指すのは、より社会や生活に近くにある民衆のためのアート。視覚芸術、社会、生命科学をベースに、公共の場所や環境のなかで人と人を結び付けたり、生きる喜びを湧き立たせたりする、人が幸せに暮らすための社会インフラのようなものを目指しているように思えます。
‘Jrai Dew’
上の写真郡は、インド北部にある小さな村ジライに伝わる言い伝えから着想を得たという〈ジライ・デュー〉という長期的なアートプロジェクト。地域のアーティストやそこに住む人々と一緒にワークショップを重ねながら作品を制作し、広場でのインスタレーションや、ギャラリーでの展覧会などを数回に渡り開催しています。活動は現在も継続されており、一過性ではない、文化として根づかせ育んでいこうという気概を感じさせられます。
本作の着想点となったのは、村の人々が信じる“存在”に対する哲学なのだそう。“人は死後、いくつもの段階を経て原点的な存在へと還る。最後のステージでは死者は水滴へと姿を変え、蒸発し自然へ還る。完全な“無”となることで、新たな存在を形成する粒子として生まれ変わる”というもの。
村には古くから木彫りの文化があったそうですが、現在では継続が難しく消滅しつつあるそうです。そうした残すべき文化資産と、古くからある言い伝えを詩的に編み込むことで、大切なものごとの存在を見直し、新たな命を吹き込んでいく。それこそがこのプロジェクトの重要なテーマと言えそうです。一見、牧歌的で朗らかな活動に見えますが、近代化と工業化の煽りを受け危機に立つ自然と文化と哲学に光を当てようという、叫びのような批判性を含んでいるようにも思えます。
長くなってしまいましたが、いかがでしたでしょうか。広い活動範囲にちょっと途方にくれてしまいましたが、個人的にはとても興味深いアーティストだなと思います。いつか彼女に会えたら嬉しいな。インスタグラムもやってるようなので、興味のある方はフォローしてみてください。
ファン・タオ・グエン(Thao Nguyen Phan)