Hereticの感想
A24の新作映画、Hereticを見てきた。めちゃくちゃ面白い内容で色々考えさせられる場面もあったので考えたことを記しておこうと思う。前半部分は製作周りのこと、後半部分に映画の内容にも触れる感想を書いていくので、映画を見てない人はぜひ後半を読む前に映画を見てもらえたらと思う。
あらすじ
コロラド州の小さな町に住むモルモン教会の2人の若い宣教師は、住民を改宗させようと一軒一軒訪ね歩く。ある晩、実りのない一日が終わり、彼らは一軒の家のドアをノックすることにする。彼女たちを出迎えたのは、魅力的なリード氏だった。しかし、若い女性たちはすぐに罠にはまったことに気づく。その家はまさに迷宮で、彼女たちが生き延びるためには、創意工夫と知性だけが頼りだった...。(Sortir a parisより)
監督は『クワイエット・プレイス』の脚本家コンビ
本作の監督/脚本を務めるスコット・ベックとブライアン・ウッズは過去にクワイエット・プレイスの脚本も務めており、一味違ったホラー映画の製作には実績と定評がある。シネマトゥデイのインタビューにもいわゆるスプラッターなどとは違った、アイディアで怖がらせるホラー映画を作りたかったということを言っているが、まさにそういう内容の、羊たちの沈黙などに近いような怖さを感じる作品だった。
主演はヒュー・グラント
ヒュー・グラントといえば、高校生のころに映画館に見に行って「なんでこんなものを見にきてしまったんだろう」という感想しかわかなかったラブ・アクチュアリーなどラブコメを中心に出演していた俳優だが、年をとってめちゃくちゃいい味を出すようになっていた。序盤の少しとぼけた感じを交えた会話はむしろラブコメ的で館の主人を魅力的に演じる、そこから少しずつ何かがおかしくなってきてもそのおかしさと魅力が天秤にかかるような感じがして、この人の本心はどこにあるのだろう?ということを観客に考えさせるような、今思うとラブコメの味を逆にそのままホラー映画に持ち込んだような演じ方が逆に怪演と言えるような演技につながったのだと思う。
ここから下はネタバレを含みます
カリスマ性のある悪役
『ファイトクラブ』のタイラーダーデン、『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士、『ダークナイト』や『ジョーカー』のジョーカーなど、現実の虚構性を笑い欺き、その裏にある"真実"を白日の元に晒すようなカリスマ性のある悪役は映画に度々登場する。本作でヒューグラントが演じるミスター・リードもそんな悪役に肩を並べるようなカリスマ性がある。
彼らの共通点はその行為だけではなく、会話の内容で人を惹きつけることだ。この映画も全編を通してミスター・リードとモルモン教の宣教師との間の会話で物語が進むのと、宗教に関する斬新なものの見方を中心とした理論が展開されるため、映画の中の登場人物と同じように観客もどこか彼の語り口に魅了されるような感覚を覚える。
宗教の原初的な形態はなんなのか?
物語中でミスター・リードはユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの宗教をそれよりさらに前に存在した宗教のIterations(反復/複製/模造)であるということをモノポリーのゲームになぞらえて説明する。
モノポリーというゲームにはその最も有名なバージョンが出来上がる数十年前に女性が作った原型となるようなゲームがあるのだが、そちらは大して人気にはならず、モノポリーというみんながよく知るバージョンが有名になった。そのモノポリーも時代時代で様々な新しいバージョンが作られて、少しずつ形を変えながら何世代にも渡って遊ばれるボードゲームとなっている。宗教も同じように、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった宗教はそれぞれ原型と呼べるような同じような共通項があり、遡ると古代エジプトやギリシヤ、そしてそのほかの宗教などとの繋がりを見出すことができる。
しかし、モノポリーの原型となったゲームと同じようにもう廃れてしまって名前も知られてないものがほとんどで、その中でユダヤ教、キリスト教、イスラム教などが多くの信者を抱えている。そもそもキリスト教の原型はユダヤ教にあるのにユダヤ教は世界の2%しか信者を抱えていない。
その原型となる宗教の形とはなんなのか?そして、その模造品でしかないキリスト教、そしてミスター・リードを訪ねる主人公たちが宣教師をしている、そのさらに模造品と呼ばれるモルモン教の教会はなぜ権威を持っているのか?彼らがその権威を保つために作っている宗教という仕組みそのものが欺瞞なのではないか?という問いを、信心深いモルモン教徒である主人公たちに対して投げかけていく。
諸星大二郎の漫画などを読んでいるとよく似たような話が出てくるのだが、国づくりの神話だったり、三種の神器的なものの存在だったり、日本の古来の宗教も含めて世界中の宗教への共通点はとても多い。なぜそういう似た点があるのか、どういうことを意味しているのか、ということを考えるのは、なんだか人間というものを考えるうえで意味があるように思える。こうした古代からのコードのようなものは人間がどこからくるのかというような大きな謎に接続されるような気がしてとても面白い。
陰謀論と全く同じ語り口
一方で、このような語り口だったり"謎"の解説だったりはその射幸性の高さも含めて陰謀論と全く同じ語り口だったりもする。映画の中でも、宗教の共通点を得意気に並べているけれどそれぞれの歴史や違いを完全に無視しているという反論がなされていたのだが、歴史を単純なストーリーと捉えてしまうと、あたかもパズルのようなものと勘違いされ、その裏にいる人間やその営みに対する想像力が欠落してしまうということが往々にしてある。その表層の都合のいい部分をつなぎ合わせて壮大なストーリーをしたてあげるのはまさに陰謀論と同じ語り口だ。
映画の悪役たちはまさにそのような話し方で登場人物や観客に語りかけることが多く、それはほぼいつも映画の中で否定されるのだが、それでも否定されたことよりも彼らの言っていることとかキャラクターが観客の心に残りやすいというのは興味深い現象だと思う。
祈りの意味
この映画の中で一番自分の心に残ったのは、クライマックスで主人公の語る祈りの意味だ。ある病院で、患者に対して祈りがどのような効果をもたらすかを調べる実験が行われた。
映画の中で語られた内容としては、結果としてはお祈りをされた患者とされなかった患者の間には大きな違いはなかった。おそらく祈る側もただ祈ることには意味がないことを知っているのだと思う。それでも、他者のために祈ることができることには意味があると思うし、それは素敵なことだと思う。という内容だった。
いつも同様の内容を書いているけれど、自分は運命というようなものを信じているし、それは人の力で変えられるようなものではないと思う。それでも、それを変えようと努力をすることは大事なことだし、そういう意志こそが大切なものだと思っている。神様が存在するかはわからないし、多くの宗教はそれを運営する組織によって存在意義が捻じ曲がってしまっていると思う。それでも祈るという行為は価値のあるものだと思うし、宗教というのは意味のあるものなのだろうと思う。
そんなことを改めて考えさせられる映画だった。