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僕たちは、もともと孤独だった。この町のどこかで。

繁華街のなかの孤独

「今週も疲れたなぁ」

仕事帰りに、銀座とか恵比寿、新宿とか、飲み屋が多い町に繰り出す。
誰かと会いたかった。

何度か通っていると、すっかり覚えてもらって常連認定されて、よく見る顔の人たちがいて。そんな仲間たちと疲れやストレスをビールと一緒に飲み干す。

「それが楽しすぎる」みたいな日々が、このコロナ以前、僕にあった。

さみしくて、ただ、誰かと一緒にいたい。

 弱いと思われたくないから、人はみんなあんまりそういう自分の「弱さ」をさらけ出せないけど、本質的には誰かと一緒にいたいとか、想いを共有したいとか…そういう「誰かとつながっていられる感覚」を得たかったのではないか。

僕もまた、その弱さを抱えた一人の人間だった。

志村けんさんが、新型コロナウイルスの肺炎で亡くなったとき、生前彼がいろんな飲み屋に出入りしていたことが報道された。彼もきっと、孤独な一人の人間だったのではないか。そんな思いを、つい馳せてしまう。

憂鬱



誰かとつながりたいという欲望は止められない。

バーで飲んでいると、港区おじさんとか東京カレンダーみたいなマウント取り気味な人たちとも出くわすことがあった。そういう人たちはステータス見せつけるように飲んでいたけれど、彼らはきっと、自分の人生を肯定してくれる誰かがほしくて、もがいているように見えた。

どんなに得ても、満たされない何かがあるのだろう、と感じた―

すべてが思うようにはいかない人生を、誰かがともにいてほしい。
そう、誰か孤独を分かち合ってくれる人がいてほしいだけだった。

そういう想いが、繁華街には溢れていたように思う。
派手に見える町は、きっと孤独と悲しみもたくさんありふれていた。

豊かに見えるこの社会には、どこかに陰影があるように、僕には見えた。

コロナで、みんな、どうしているんだろうか。

結局のところ、僕たちは新型コロナウイルスとも共存しなければならないと思う。

経済活動と、ウイルスとの闘いは、両立しなければならない。
そんな苦しいなかで、もともと苦しかっただろう人たちがどうしているのか。

僕は心配で胸が痛くなることがある。

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