マウント事変
3時間くらいひたすら話を聞いた。話が長いなとは思って、途中からは話を聞かされている感覚があったことは否めない。それは会話でもなく対話でもなく、あちらのやっていることを聞くことがメインだったから。「何が伝えたいのだろうか…」とふんふんずっと聞き、別れてからも「何が伝えたかったのだろうか」と考えて、ハッと寝る前に気づいた。『あ、もしかしてマウント…取りたかったのか…』。家に帰ってから気づいたことに、申し訳なさすら覚えた。だから、何回も同じくだりを話していたのだろう。一生懸命マウントとるために話していたのに、わたしのあの返事ではのれんに腕押しだっただろう。わたしが早く気づいて、はよ乗っかっておれば、お互い、このなんとも意味のない時間を過ごしたという疲労感を感じずにいれただろうに。話の内容をそのまま聞いたがために、3時間という時間を一方的に話してもらう時間になってしまった。
いや、もちろん話の内容については時折質問したり、笑ったりしているんだけど。そうではないのだな。「すごいね」とか「羨ましいを感じる言葉」を一言も言っていないんだ。あちらは、賞賛や評価を求めていたのだろうか。マウントを取りたい人と設定して話の内容を思い出していくと、答え合わせのように、その意図がはっきりした。
彼女は、なんと言って欲しかったんだろうか。なんと思って欲しかったんだろうか。
そういえば、話の内容は、自分の暮らしが豊かで、人に頼られていて、自分を中心としたコミュニティがあること。私はこれに対して「そういうコミュニティをなんでやろうと思ったんですか」とか質問した気がする。ああ、それに入りたければ入っていいよということも、そういえば言っていたな。気を遣って言ってくれたのかと思って、「ありがとうございます」だけ言ったような、言っていないような。一欠片も入りたいという感情が出てきていなかったので、そんな選択肢を提示されていることにもその時は気付いていないわ、私。
昔から、よくマウントを取られている。小学校の2年生の時は、女の子に敵対視されて、テストの点やら、体育の結果やら、いつも見せられたっけ。小5の時に引っ越してきた転校生の女子にも、いつも自慢されて、腹立つから個人的な意地悪を終始行なっていた覚えがある。(のちに、大人数の女子からいじめられるようになったその転校生は、卒業して中学になってから「あんたのやっていたことは、いじめじゃなくて、私と一人で対決してくれたから、むしろいい思い出」と握手を求められたことがある。)女の先輩にも、何度か呼び出されたなあ。中学校の頃。高校では男の子どもから夢を馬鹿にされたこともある。当時「クソガキどもめ」と思っていたけれど、あれもどう考えてもマウントなんだろう。
マウントを取られると、謎に傷つく。あれは「突如、理由もわからぬまま、よくわからない地位に陥れられる感覚を与えられる」という理不尽さが半端ない傷つきである。理不尽だから腹がたつ。
そもそもマウントを取ってくる人間は、自分がマウントを取っている行動をしていることを意識的には把握していない。自分のちょっとした、それかとても強いコンプレックスや劣等感が刺激されて起こる。ある人はそのコンプレックスや劣等感を克服した(と思っている)自分を肯定したいがために人にマウントを行い(ということは、実を言うと克服していないのだが)、ある人は自分のコンプレックスや劣等感があることを悟られまいとマウントを取る。だから、半無意識状態であることが多い。心の柔軟な人は、「ああ、またなぜかマウントを取るようなことを言ってしまった」と反省することもあるし、そんなことなど気付かずに幼き子どもが枝で葉っぱを薙ぎ払うようにマウントを取っている人もいる。良いも悪いもどちらもないが、後者は変化のない人間と思っている。前者は友達になれる。
それから、マウントは一つの自己確立の一つの手段でもあるから、思春期によく起こることもよくわかる。自分といった人間を確立させてゆくには、自分という人間と他人との比較が必ず発生する。その比較によって、マウントが起きる人間もいる。個人の性質と思考と、生まれ育った背景によって、行う人間と、行わない人間と、される人間と、されない人間とが生まれるだろう。
…とまあ、マウントについて語っていると収拾がつかないので、一旦切って私の話に戻す。
クソ野郎どもにマウントをよく取られてきた。それから嫉妬もよく受けた。なぜこんなに取られるのかと悩んだこともある。その時はわからなかったけれど、今思うとそれは簡単。私もクソ野郎だったから。見た目は地味なくせに、人と歩幅を合わせることができないがために静かに目立ちやすいタイプで、公の場になればなるほど、忖度を発揮しない人間だったから。仲が良い人には忖度を発揮するのにね。
昔勤めていた保育園の園長が、とても優しくて、どれだけ優しいかというと、職員の遅刻が続いて、しまいには音信不通になっても、お家まで行って、こんこんと話を聞いてあげるような、そんな優しさをもつ人だった。でもわたしはどうも嫌われていた。主任からフォローされたこともあるくらい。わたしもなんでこんなに嫌われるんかしら、と思っていた。そのうち園長が移動になって、わたしも園を辞めて、数年して、分かったことがある。どう考えてもわたしは何もしていないと思っていたけれども、ああわたし、園長にマウントを取りまくっていたんだと。マウントを取ろうなんて思っていないのだけど、やってきたこと、言ってきたことをもう少し離れて見ると、園長からしたら「マウントを取られている」ことばかりだった。
当時のわたしの心境としては、自分の保育を実践したいし、その方法を園に取り入れてほしいと思っていた。それだから、勉強に勉強をして、保育の実践をして、記録を起こして、と、とにかく自ら激務に走っていた。それで、「これやっていますよ」と園長に報告する。わたしは、どうにかして自分のことを理解してもらいたい、評価してほしいと躍起になっていた。だから、多分だけど、その時出ている言葉は本当に「マウント」を取るような言葉だっただろう。
わたしは園長が好きだったから、訳もわからず嫌われて、傷つけれられているとまで思っていたのだが、あちらからすると、あちらもあちらで「突如、理由もわからぬまま一社員から園長という威厳を陥れられる」という構図であっただろう。園をやめて、数年経ってから気付いた時には顔から火が出そうだったし、何より園長に謝りたいと思った。気付いた頃には時すでに遅し。
では、無事、マウントを取っている側としての自覚もあるわたしと言うことが分かったので、マウントを取る側として考えよう。
マウントを取れる相手として半無意識に選んでいる条件はこうだ。
・自分に地位や性質、好みが近い人。
・どこかで自分の方が劣っていると感じさせられる人
・けれども覆せそうな人
・自分をすごいと認めてくれそうな人
・認めてくれることで、他の人にも影響を及ぼしてくれそうな人
・意見を強く言えない人
だ。複数当てはまる場合もあれば、どれかだけの場合もあるだろう。
結局、同じレベルの人間であるということ。劣等感は、手の届く範囲の相手にしか発生しない。わたしはチェロを幼少から習っていたけれど、ヨーヨー・マに劣等感は発生しなかった。しかし、3年しか離れていない兄にはそれはもう地獄の業火のように劣等感が発生していた。そういうことだ。手が届くと思うから、似ていると思うから、同じだと思うから、だから劣等感やらコンプレックスやらが生じて、結果マウントが取りたくなる。
冒頭に戻る。3時間わたしにマウントを取り続けたかの人は、わたしに似ていたのだろう。わたしと通ずることがあったのだろう。わたしの何かが、彼女を大いに刺激したのだろう。
だから、こうだ。結局「わたしが」マウントを人に取られるレベルであるし、「わたしが」マウントが存在する次元で生きているということだ。その次元に自分がいるからだ。
彼女もわたしも悪くも良くもない。ただ、そういう世界線に生きているから、出会った。マウントが存在して、マウントが大事な世界線にいるから。
それでわたしは思った。さっさとその次元を脱しよう。
そんなマウントの存在する世界で生きとうない。わたしは少なくとも、違う次元で生きたい。ひたすらに自分の真性な欲求に対して向かい続ける。真性を生きるのだ。とね。
以来、これを決めてから、自分のマウントレーダが無くなったので、「マウント事変」は身の回りで全く発生しなくなった。あの時、彼女のマウントをその場で感知できなかったのも、自分がその次元から足を半分出していたからだろう。その最後の一歩を、彼女が押し進めてくれた。そう思う。ことにする。
では、最後にマウントを取らせてください。
「いつまでマウント取る世界で生きるの?」