ダメ元でチャンスを掴む4-①
なぜ、『ワールドに入った』のか?
こんにちは。
ニットの伸びるチカラで「1本の糸から素敵な未来づくり」を
創造するアパレル界のニット姫こと、
工業ニットスペシャリストのインプルーヴです。
さて、そんなワールドでの修行生活を過ごすのですが、
そもそも、なぜ、株式会社ワールドに入ったのか?
なんですが・・・
これは、めちゃめちゃ偶然なんです^^;
どっちかというと…「入った」➤「入れた」の方が正しいかな。。。
※ 卒業当時…昭和感が出てますね^^; なんか老けてるw
地元のお寿司屋さんのアルバイト代凡そ8万円の月収から、
月額2.8万円の授業料と2.4万円のアパート代+生活費を
賄っていた当時、割安なのはわかっていてもキャッシュが
足りなくなるので定期が買えなくて、都度切符で通学していた
当時は、月末近くなるとその切符代が足りずよく欠席していたので、
出席日数は毎年ギリギリ…
ーなので、学校的には決して品行方正な学生とは言えませんでした。
そのころ、は私は気付いていませんでしたが、
世間は弾ける直前のバブル景気だったんですね^^;
私が通っていた弱小の地味~な専門学校にも大手アパレルさんから
求人が来始めたころで、私たちの1つ先輩の就職時に
初めて神戸のJAVAさんから求人票が届き、2名の先輩が就職。
その翌年の私たちの時にはワールドさんの求人票が掲示板に貼られました。
ただ、当時の私はその頃流行っていたメンズデザイナーズブランドブームで
メンズデザイナーになりたいと思っていて、
校内ファッションコンテストのデザインもメンズばかり描いていたので、
掲示板に貼られている求人票の中で2社しかなかったメンズブランドの
募集の中からK泉アパレルさんを希望しようと思っていたのですが、
無名の学校としては、昨年のJAVAさんに続きワールドさんにも合格者を
出して実績にしたかったこともあり、私を含め3名に受験を指名しました。
ワールドさんの3次試験とK泉さんの1次試験日が重なっていたので
私は断りましたが、先生曰く「最終試験まで通ったら何とかするから。」
加えて、「あなたは今大殺界だから、大きな決断は自分でせずに
他人の意見を聞いておきなさい」と言われ、渋々承諾しました。。。
今思うと、この先生の意見を受け入れてなかったら、
確実に今の人生はありえません。
そこには、【工業ニット】との出逢い、そして、独立後に
右腕・左腕として長きにわたって一緒に働いてくれる
仲間との出逢いがあったからですー。
もうお亡くなりになりましたが、決して就学態度は良くなかったのに
私を色眼鏡で見ることなく勧めて学校の推薦状を書いてくださった
占い好きの須藤先生(副校長)にはいまでも感謝しかありません。
…とはいうものの、
(そんな大手に入れるわけないがな…)と思いながら、
ダメ元で書類選考を受け…たら、まさかの書類合格?!
指定は、確か着色のスタイル画(5枚?)と履歴書だったような…
正直、(うそや~ん^^;)と思いながら恐る恐る神戸の1次試験会場へ…
1次試験は
①スタイル画の描画
2種類のテーマに沿って、それぞれ即興でスタイル画を描けるだけ描く
②パターン製作
会場の2隅に置かれたトルソーに履かせているボックスプリーツ
スカートを、触らずに目視だけで工業パターンに起こす
※工業パターン:縫製順序に沿った縫代付け、芯地やポケットの袋布
などのパーツまで抜き出している状態のパターン
この1次試験に来ていた人数は凡そ100名?120名?
書類選考を通過していたのは総受験者の1/2以下だっと入社後に聞き、
よくもまぁ合格できたものだと、その競争率に驚きました。
その日の夕方、1次試験に通過した人にだけ電話が掛かってくるのですが、
私のアパートには電話がなかったので、その通知予定の時間だけ
実家に上がらせてもらって、父親とは一言も言葉を交わさず
電話の前に正座して、掛かってくるかわからない電話を待ちました。
ベルが鳴ってワールドさんからだったときには(う、うそ~!)と
心の中で叫びながら、父に「お借りして有難うございました」と
お辞儀してすぐにアルバイトに向かいました。
2次試験(は翌日)
人事部面接で、2対1での単独面接。
これも、まさかの合格のベルが鳴ります。
3次試験(もその翌日)
ブランド面接 と 健康診断
総勢20名くらいの各ブランドのチーフデザイナー・パタンナー・MDの方が
扇状に座って構える前に、横1列に10席分並んだパイプ椅子に
待合の廊下で呼ばれた順に着座し、どこから誰宛てに飛んでくるか
わからない質問に答えるスタイルで、発言のチャンスを待ちました。
第1問は「右の方から順番に今回の試験に臨んだ時の服について、
お話してください」全員一言ずつ声を発スリ機会が与えられました。
その後は、各ブランドの方から個人指名で質問が飛び交い…
(誰からも質問が来なかった、ら…ここまでか、)などと思いながら、
タイムアウト寸前、
「全員にお聞きします。学生時代に力を入れていたことは何ですか?」
この質問に、「わたくしは中学時代は機械体操部で主将を務め、
高校は新設校で機械体操部を作れなかったので新体操部を創部しました。」
と答えた後、2-3人の方が個別に質問を投げかけてくださいました。
…その時に何を質問されたのか、全く覚えていません^^;
ただただ、必死に答えたことしか…
そんなこんなで3次試験まで残るとは、私は元より何より担任の先生が
思っていなかったようで。一番驚いていました^^;
その後、確か1週間後位に合格者にだけ、合格の電話が…
最終合格した専門職は24人?位だったかと。
大卒の一般職は、関連会社・東西併せて多分200人位だったかな。
その辺はちょっと曖昧です^^;
「まさか、この私があのポーアイの大きなビルに努めるの?!?!」
青天の霹靂 とは、あのような時のことをいうのでしょう。
そんな気持ちで、神戸という自分には分不相応なオサレな街での
社会人人生の幕が開いたのでした。。。
※ 87年神戸店入社の同期会(いつ頃かは不明)
ここで、今でも繋がっていられる、価値観を共有できる
貴重な仲間や先輩方と出逢いました。
次回は、もう少しこの続きを。
今も当社を支えてくれている大切なimproveメンバーとのエピソードも
若かりし頃の写真と共に記録に残したいと思います^^
ではでは~