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メアリー・ブロンスタイン『If I Had Legs I'd Kick You』ワンオペ母の"アンカット・ダイヤモンド"
傑作。2025年ベルリン映画祭コンペ部門選出作品。メアリー・ブロンスタイン、17年ぶりの長編二作目。前作は撮影がショーン・プライス・ウィリアムスだったり、サフディ兄弟は出演していたりしており、長編デビューも同じ年という繋がりがあったわけだが、17年の時を経た次作で、製作にジョシュ・サフディ、撮影に後期サフディ作品のカメラオペレーターをやってたクリストファー・メッシナを迎え、A24でワンオペ母親版『アンカット・ダイヤモンド』を撮ることになるとは誰も思わなかっただろう。主人公リンダはセラピストとして働きながら、難病の娘の世話をしている。客船船長の夫は長期間家を開けがちで、自身も同僚セラピストのセラピーを受けており、まさに八方塞がりという中で、アパートの天井が浸水で崩壊したのをきっかけに、不可逆な地獄へ転がり落ち始める。常に顔のアップ映像が続き、常に誰かが高速で話し不愉快な音が鳴り続き、着々と状況が悪化していく様がパラノイア的な映像と共に描かれている。娘に至っては役名すらなく、ラストまで一切顔を映さずに、バックミラー越しに見える髪の毛やベッドから見えるうなじなどを視界の端に捉えるように映し出していく。リンダの生活の中で大きな存在感を占めているはずの娘をまったく映さないという選択が、本作品の偏狭的なドライブ感と"穴"への潜在的な恐怖を掻き立てる構成になっており、非常に上手い。常にタスクに追われて力尽きそうになっている彼女に優しくしてくれる青年(A$AP Rockyが演じているあたりサフディっぽさを感じる)も登場するが、彼女にはそれが差し伸べられた手には見えず、過剰なまでに自分を責めるように孤立していく。リンダは何度か自宅に開いたままの穴を見に行き、その度に厄介事に遭遇しており、その最初のタイミングで穴を見て"ママ?"と呼びかけるシーンがある。リンダが自身の母親について言及するのはおそらくここだけで、夫婦の寝室の上に空いた穴から宇宙のような小さな光が幻影として見える空間に"ママ?"と呼びかけるのは、彼女が過剰に自身を責める性格の根が母親との過去にあるからではないかと推測される。見えない母親との不健康な関係が今も尾を引いているのと、娘の顔が現れない(≒顔を見られない)のも根が一緒だろう。だからこそ、星空を見上げながら、娘の顔を見て"私は良くなる"と唱えるのは、泥沼の現状から半歩だけ踏み出したかのように、希望的に見えた。あの瞬間に、不可逆の地獄から地上に戻ったのではないか。ちなみに、アメリカの有名司会者コナン・オブライエンがリンダの無愛想な同僚セラピスト役で出演している。
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・作品データ
原題:If I Had Legs I'd Kick You
上映時間:113分
監督:Mary Bronstein
製作:2025年(アメリカ)
・評価:80点
・ベルリン映画祭2025 その他の作品
★コンペティション部門選出作品
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3 . ガブリエル・マスカロ『The Blue Trail』ブラジル、"未来はみんなのために…"
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7 . レベッカ・レンキェヴィチ『Hot Milk』スペインのビーチで毒親と妖精に囲まれて
8 . ルシール・アザリロヴィック『The Ice Tower』少女が見た"雪の女王"と不在の母親
9 . メアリー・ブロンスタイン『If I Had Legs I'd Kick You』ワンオペ母の"アンカット・ダイヤモンド"
11 . Huo Meng『Living the Land』中国、麦畑を囲む春夏秋冬
12 . Iván Fund『The Message』アルゼンチン、動物と交信できる少女の無邪気なロードムービー
16 . カトライナ・ゴルノスタイ『Timestamp』ウクライナ、戦時下の学校教育について
18 . Frédéric Hambalek『What Marielle Knows』ドイツ、両親の行動が覗ける力を手にした娘
★パースペクティブス部門選出作品
2 . Ernesto Martínez Bucio『The Devil Smokes (And Saves the Burnt Matches in the Same Box)』メキシコ、子供だけの家に悪魔がやって来る
10 . Tanushre Das&Saumyananda Sahi『Shadowbox』インド、PTSDの夫を支える家族たち
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14 . Liryc Dela Cruz『Where the Night Stands Still』豪邸を相続した姉と再会した弟妹たち
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