【エッセイ&日記#80】この日は忘れない。忘れちゃいけない。
1月17日。
この日は私にとって、いろんな意味のある日です。
1995年1月17日、5時46分。
私は小学6年生。
この日、私は早起きをして、5時30分ぐらいに起きました。
いつも朝は苦手なのですが、早起きしました。
それは、誕生日だったからです。
親から、誕生日プレゼントとしてサッカーボールを、
すでに買ってもらっていて、早く蹴りたくて仕方なかったのです。
すると、何か遠くの方で、ガタガタと音がして、
その音がどんどん近づいてきました。
「なんだろう」
心の中で、そう思った瞬間、家全体が大きく揺れました。
案外、私は冷静でした。
「めっちゃ、揺れてる」「全然、止まらないなぁ」
当時、私は奈良県に住んでいたので、
被害はほとんどありませんでした。
上に乗っていたものが落ちてくるぐらいでした。
私は自分の誕生日、そして新しいサッカーボールを蹴ることで、
頭がいっぱいだったのでしょう。
ウキウキした気分は、その日の給食の時間に無くなりました。
あの時の衝撃は忘れられないです。
教頭先生が教室に入ってきて、何も言わず、
テレビをつけました。
そこには、映画でしかみたことのな光景が映っていました。
神戸は小学校の遠足で行ったこともあるし、
家族で遊びに行ったこともあります。
そのみたことのある街が、とんでもないことになっていました。
小学校6年生の私は、
幼いながらに、
「自分の誕生日に、どれだけの人が苦しんでいるんだ」
「うかれちゃいけない。自分の知っている街がひどいことになってる」
そんなことを思い、中学生からは、
自分の誕生日を喜ぶようなことはなくなりました。
そして、生かされている私なんだ、と漠然と思っていました。
時は流れ、私は大学生の時に神戸で一人暮らしを始めました。
就職せずに、神戸の地域の頑張っている方々に
インタビューする仕事をしていました。
そこで、阪神大震災の特集ということで、
NPOの方や大学院で災害用ロボットの研究をしている学生などに
インタビューをしました。
その時、なかなか当時のことを話してもらえませんでした。
普通、思い出したくもないものです。当然です。
そこで、私の誕生日が1月17日であること、
そして、1995年から誕生日で喜ばなくなったこと、
そして、生かされている私なんだ、と思ったことを伝えました。
今でも覚えているのは、NPOの方から、
「被災してへんでも、わしと同じ感情になるやつもおるんやなぁ」
と言われました。
そこから、ゆっくりと当時のことや、
壊れた建物を修繕したり、ライフラインを取り戻すだけが
復興じゃないことを話してくれました。
「綺麗な建物になっても、前の人と人とのつながりは戻ってこーへん」
それを寂しそうに話していたのを覚えています。
災害用ロボットを研究している学生からは、
倒壊した当時の自分の家の写真を見せてくれ、
「なぜ、自分は生きているんだって写真を見て思い出すんです」
と話してくれたのを思い出します。
私はインタビューなどして記事を書く仕事をしていましたが、
うまくいかず、人を信用できなくなってしまい、
完全に精神的に病んでしまいました。
20代のほとんどは、社会との接点がありません。
ほとんど引きこもっていました。
そこから、外に連れ出してくれたきっかけはアニメだったのですが、
「なんとか生きなあかん」と思わせてくれたのは、
神戸の街の中に点在している、阪神大震災の慰霊碑でした。
慰霊碑を見て、1月17日を通して感じたこと、出会った人のことを
走馬灯のように思い出しました。
阪神大震災があって、27年が経ちました。
ご遺族の方や当時、被災された方に、
なんとお声を掛ければ良いのか分かりません。
自分にできることは、
「決して、あの日を忘れない」
「あの日がきっかけで出会った人たちを忘れない」
「どんなことがあっても、自ら命を絶つようなことはしない」
ということです。
NPOの方に言われました。
「あんちゃんが生まれたことは喜ぶべきや。変に考えんでもええ。
親にちゃんと感謝して、ちゃんと生きとったら、それでええんや」
私が精神的に何度も病んでしまっても、
なんとか踏みとどまっているのは、
おそらく、この出会いがあったからだろうと思います。
これからも、どんなことがあっても、
しっかりと、生きていこう。