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無情の普遍性は言葉を超えて,それでもなお叫べ. /『静かなる叫び/Polytechnique』

 見ている風景,僕らが今いるこの場所,聞こえる音と感じるにおい,温度,それら情報の区分にそぐわないあらゆる洗練された美的感覚,そういう僕らが茫漠なこの現実からかろうじて受け取ることのできる境界線.「ぼくら対せかい」という二項対立で認識するとすれば,少なくともこの世界がどのようなものであるか,僕らがこの世界をどのように見るか,そういうところにまで訴えるような作品は,きっと極限まで情報を削ぎ落とした根源的なリビドーの表現だ.

『静かなる叫び』は2009年のカナダのドラマ映画。 監督はドゥニ・ヴィルヌーヴ、出演はカリーヌ・ヴァナッスとセバスティアン・ユベルドーなど。 1989年12月6日にカナダのケベック州モントリオールにあるモントリオール理工科大学で起きた銃乱射事件をモチーフに描いた社会派作品。(静かなる叫び)

 『静かなる叫び/Polytechnique』はそういう映画.つまり,何が言いたいかというと,この映画は「色彩」という情報を削ぎ落として,「登場人物の感情」という情報を削ぎ落として,「動機」や「主張」,「役割」とかそういう諸々の理屈的なものも削ぎ落として,最後にはもうどうしようもない無情と,そして,反虚無的な世界に対する肯定感だけが残った、そんな映画.

 極限なまでに削ぎ落とされた特殊性によって,いつしか僕らのいる場所は書き換えられていた.

 これから多くの女性を惨殺するとされる一人の青年の生活感の描写と,そんな彼のモノローグからこの映画は始まる.そこで語られる,彼が彼の行動を正当化しようとするミソジニーな内容は,しかし,呪詛なんていう陳腐な言葉で表現するにしてもあまりに内容がなく、無根拠で生理的だ.この映画のあらすじを知っていて,いざ観始めて,彼の”非正当性”をどう論破してやろうかと待ち構えていた観客は,すぐにそんな迂遠な動機は白けざるを得ない.そして,彼の譫言の裏に隠された本当の動機,あるいはこの世界に対する生き辛さや苦しみを想像せざるを得なくなる.

 "惨劇"に見舞われる多くの登場人物でさえ,フォーカスされる登場人物は目まぐるしく変化し,彼らの心中が詳しく語られることもないから,観ている側は彼らの行動原理を理解することなんてできないし,させてはくれない.そもそもこの映画は,観客を彼ら被害者に共感させて,それによって彼らの”無念”を追悼しよう,なんてことを目的に作られた映画ではない.この映画は決して,作中で描かれる,実際にこの現実で,この世界で起きた”惨劇”を特別な出来事としていない.惨劇どころか劇として,決して演出するようなことをしていない.まるでこの世界に飽和する無情をある一面から切り取っただけと言わんばかりに,あらゆる情報を削ぎ落として,一般的に,抽象的に,誰の身にも降りかかるものとして,この切り取られた無情を,ただ事実として,あまりに美しい憧憬として,僕らに見せつけてくる.

 忘れてはいけない過去の出来事ではなく,僕らが生きる現在に刻まれる物語として.

 この映画は決して,被害者に共感させて憐れむように仕向けた映画でもなければ,加害者の理屈を正当化するものでもない.「悪はこの想像力の欠如した社会が作り出した怪物だったのだ!!」みないなものであってもくれない.

 この映画がモノクロームなのは,決して,「色あせた惨劇」を描いているからではない.この映画が描くもの,それは,ある日,理性的な枷の外れた人間が並々ならぬ焦燥感に突き動かされたタナトスの人形となって、多くの人間を殺して回ってしまうような,そんな本質を。
ある日,偶然に,理不尽に,殺されてしまうようなこの世界の無情さを。
そういうものと向き合って,そんなことを痛いぐらいに見せつけられて,それでもこの世界を生きるということを。
”普遍的な日常”の一部分を,僕らのいるこの現実と地続きの場所で起きた”他愛もない日”の一部分を切り取り,色彩だとか,動機だとか,恐怖だとか,そういう装飾を排して残された原風景を。それ故にあまりに生々しく,そして美しい.

 そういう実存主義的な肯定が,決して忘れてはいけない過去としてではなく,僕らが生きている現在に,刻み込まれる。