20200715 / わたしはわたしという静謐な空間に閉じこもる.
わたしは,わたし.
差し込んだ夕日と,風に揺れるカーテンがわたし.紅茶に浸したマドレーヌがわたし.桜が香る川のせせらぎがわたし.
外の野球部の掛け声が,窓越しに聞こえる,わたしただ一人しかいない図書室がわたし.青い鳥文庫の行間に潜む狂気と優しさがわたし.ここにいない誰かがわたし.
人は本来,なんでもないものなのだろう.性格,物の考え,善と悪.人は言葉によって,規定されて,そこで初めて自己を得る.
尊くて,なによりも大切にされなければならないもの.
自分という存在は,内面は,居心地がいいから.なぜなら,本来,自分という存在は自分で,自分の言葉によってでしか規定できないから.そこに,不都合な他者は介入しないから.わたしはわたしという静謐な空間に閉じこもる.
だからこそ,他者によって自己が規定されるあらゆることは悪だ.肩書も,性別も,右も左も,年齢も,学歴も.そういう勝手な自己の規定を排除して,排除して,多様性というシュプレヒコールのもとに,差異をなくして,上辺だけを取り繕うから,いつしか「わたし」はなくなった.
人は本来,なんでもないのに.いつしか自己を自由に規定する居心地の良さを知った「わたしたち」は,ついにはそれを内側だけでなく,外側にまで求めるようになってしまった.
自分を規定する言葉を,他者に求めるようになった.僕は,わたしは,こういう人間です.こういう人間であると,規定してください,って.
自分を,自分だと信じている「自分」を,「自分」として見てくれる外側を閉じて,少し拡張された外側にある内側のなかで,浸って,少しずつ善を育んでいく.
価値観の持続って意味の善.
本来,外側へ,外側へと枝を伸ばしていかなきゃならない善なのに,そんな閉じた円環の中でぐるぐるとめぐりながら肥大していくから,それなのに,個々のなかで肥大した善は,結局,交わることなく,そこにあるだけだから,残るのは,見栄と虚栄と理論武装で,生き苦しい「自分」の押し付け合いだから.
自己という幻想.精神という不可分な領域に,都合のいい制約をもたらして,価値のないものに価値をつけて,尊いものだと嘯く自由を持て余したわたし.「機械の中の幽霊のドグマ」を自由に行使するには,あまりに未熟すぎたわたし.
うんざりするんだ.それがわかっていても,自分を言葉で規定しなきゃ,生きていけない自分に.外側はあまりに生き苦しいから,きっとここは,わたしが生きる場所ではないから.ホールデンもこんな気持だったに違いない.無垢な存在に憧れて,それでももうそれが叶わないことを悟った彼が,ライ麦畑のつかまえ役になりたいと考えた彼は,それでも,無垢に対する素敵な情動を捨てきれなかったのか,なんにしても,わたしはそういう自己肯定に憧れるのだ.
仮想敵をつくるな.憂慮するべき敵は,きっとわたしたちの内側にある.
プルーストに思いを馳せて,内側の記憶の尊さを認めて,それを内包していることを認めて,居心地の良さを感じながらそれを突き放して,他者の言葉の匂いと自分の根底の差異を認識しながら.
いま,わたしはわたしを,わたし自身の言葉によって規定する.