カタコイ
伸ばした手は空をきり
紡がれた言葉は宙に浮いて
どちらも決して届かない
人はそれをカタコイという。
中学から高校へ進学し、彼女はセーラー服からブレザーへとその姿を変えた。
そして、短かった髪を伸ばし始めたのも高校へ入ってからだ。
「……こうしてポリスが作られ、その後、ギリシャは……」
月曜日、5時間目の世界史。
催眠術にかかったかのように、クラスメートが一人、また一人と机に伏していく中で、彼女の目は真剣にポリスの発生を語る先生を見ている。
別段、彼女が特別真面目な人間だというわけではない。それを証拠に古典や数学の授業などは始まると同時に机に伏してしまうのだから。
特別なのは、この授業だ。
30歳前の男性。背はそこそこ。体つきもそこそこ。顔は10人並みよりやや良い程度。
それが、世界史を担当するあの人のすべてだ。
優しい先生だとみんなは言う。クラスの半数以上が机に伏していても何も言わないのがその証拠。
気が弱い、事なかれ主義ととれないこともないが、先輩の話によるとこのしっぺ返しはテストの時にくるそうだ。侮れない。
あの人はそんな、どこにでもいるような先生だ。
「先生、ちょっとわからないところがあったんですけど」
授業が終わると彼女は質問に行く。
中学の頃は、苦手課目は覚えることの多い歴史、と言っていたのに。
休み時間はたまに、歴史の本を読んでいる。
中学の時は請われても本など読まなかったのに。
それからしばらくして席替えがあった。
偶然にも、彼女と自分は隣同士。
その日も世界史の授業の後に質問に行ったから
帰ってきた彼女に、同じ中学出身の気安さで尋ねる。
「世界史好きなの?」
彼女はちょっと笑った。
「好きよ」
首をかしげる。
「どうしてそんなこと聞くの」
「テスト前にお世話になろうかと思って」
「みんな眠いって言うもんね、世界史」
この授業だけは今まで一度も寝ていないことを彼女は知らない。
ある日、世界史の授業は残り10分を残して終わった。
普段はそこそこギリギリな時間配分をするのに珍しい。
「みんなに、ちょっと報告と謝らなきゃいけないことがある」
変わった空気に浅い眠りのクラスメート達は体を起こす。
「実は」
世界史の先生は左手を見せた。
薬指に光るリング。
「結婚しました」
どよっとクラス中がどよめく。
ちらり、と隣の席の彼女に視線を走らせる。
彼女は驚いた顔をしていた。
「えー先生、誰と?」
「いつ? いついつ?」
一斉に喋りだしたクラスメートたちは先生が口を開いたので静かになった。
「今のが報告。で、結婚式を来週末に海外でやるから、来週の世界史は自習になる。これが謝らなきゃいけないことだ」
「いいなー海外!」
「先生、お土産買ってきてよ」
「おめでとー先生」
彼女の顔は笑顔になったがこちらから見える左頬はまだ少し引きつっていて。
「おめでとう、先生」
大騒ぎになったクラスのざわめきにかき消された彼女の呟きは隣の席の自分の耳にしか届かなかった。
世界史の先生が既婚者となって復活した週。
その日は当然、授業にはならない。奥さんとの出会いから結婚式の様子まで、生徒から尋問され幸せそうに答えていた。
そして、久しぶりに世界史の勉強をした次の授業の終わり。
彼女はまた先生のところへ質問に行った。
休み時間、歴史の本を読む彼女に尋ねる。
「世界史、今でも好き?」
彼女は笑った。
「今でも好きよ」
カタコイはまだ終わらない。
初出:2004/5/28
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