トイ・プードルが知っている
私の名前は高枝こずえ。どうして名字が『高枝』なのに名前が『こずえ』なのかを話せば長くなる。長くなるけど要約すると、ひいおばあちゃんの名前をもらった、そういうことだ。
職業は中学生。成績は優秀な方で生徒会長もやってる。陰で『氷の女』と呼ばれているけど気にしていない。気にしてないよ、陸上部の部長。運動場使用禁止令はまだ解除しないよ。陸上部全員でその辺グルグル走ってろ。
そこまで思いをめぐらして、息を一つ吐く。大丈夫、大丈夫。私は正常、正常だ。
つい先ほどまでは何の変わりもない平和な火曜日の朝だった。しかし、マンションの玄関を出た途端日常は一変した。玄関の前に奴がいた。目の前の奴がいたからマンションの玄関を出たままの姿勢で止まってしまったのだ。
奴の名前はそう。
小型犬。
いろいろな種類があるらしいけれど、よく知らないし知るつもりもない。十羽一絡げ、小さい犬の名称なんて小型犬で充分だ。
奴は丸くて小さい黒い目でじっとこちらを見つめてくる。私も奴を睨み返す。目を逸らしたら負けだ。奴が一歩こちらに近づいた。同じだけ私は下がる。目は逸らさない。
家族以外は知らないが、私は犬が嫌いなのである。
まだ小さい頃、散歩途中の犬たちは私を見ると吠えた。まだ小さな私に向かって、まるで親の敵を目の前にしたかのように吠えるのだ。ワンワン、ギャンギャン、キャンキャンと。
近所の家の前を通ると、その家の犬が小屋から飛び出してきて吠える。その声に反応して隣の家の犬も吠える。その声に反応して……と辺り一帯で犬の大合唱が巻き起こる。
犬は嫌いだ、吠えるから。犬は嫌いだ、言葉が通じないから。犬は嫌いだ、何を考えているのかわからないから。
大きくなってからは以前のように吠えられなくなった。けれどトラウマはしっかり残っている。犬は嫌いだ。好きになるつもりも、好きになる理由もない。
『犬は家族の一員』と世間一般では言う。理由がそこにあるのかは知らないが、リードをつけないで散歩する飼い主、カゴに入れないで抱っこしてバスに乗る飼い主がいる。馬鹿だ。みんな馬鹿だ。どんなに小さくても所詮、奴らは獣。何を考えているのかわからない。突然暴れ出したらどうするつもりなのだろう。
そして、この小型犬も首輪はつけているがリードはしていない。つまり、いつ暴れ出してもおかしくはないのだ。
じりっと、奴がまた一歩こちらに近づいた。私もまた下がる。これ以上、間合いを詰められるわけにはいかない。
落ち着け、私。落ち着け。
そう、私の名前は高枝こずえ。どうして名字が『高枝』なのに名前が『こずえ』なのか話せば……。
「会長―? 何やってるんですか?」
呑気な声が聞こえた。あの声は、一年の副会長、杉山直樹。
「おはよう、杉山くん」
私は奴から目を逸らさないまま挨拶する。
「おはようございますっ。あ、トイ・プードルだ」
視界の中に杉山くんが入ってきた。やおら、彼は屈んでわしゃわしゃと奴の体を撫で始める。私は思わず数歩下がった。
「かわいいっすね―。会長の犬ですか?」
「違うわよ」
「あ―会長の家、マンションですもんね―。にしても、かわいい―。僕の家もマンションなんですよ―。だから、僕の夢は、でっかい庭付きの家で奥さんと三人の子供とおっきい犬たちに囲まれて暮らすことなんですよ―。あ―でもトイ・プードルもいいなあ」
くるりと杉山くんは振り向く。その手に奴を抱いて。
「会長はおっきい犬とちっこい犬とどっちが好きですか?」
杉山くんが奴を私に近づけてくる。ピシリ。凍った。全身の筋肉が凍りついた。やめてという声も出ない。けれど目だけは逸らさない。目を逸らしたら負ける。
「リボンちゃん、ここにいたのね」
近所のおばさんの声がした。杉山くんはくるりと右を向く。
「あ、飼い主さんですか。かわいいですねーこの子」
「でしょ。リボンちゃんは我が家のアイドルなのよね。リボンちゃん、お兄ちゃんとお姉ちゃんと遊んでもらえてよかったわね」
杉山くんがおばさんに奴を返す。おばさんは奴の足を掴んで横に振った。バイバイ、のつもりらしい。
「また遊んであげてね」
「はい。バイバイ、リボンちゃん」
奴は去った。ようやく、私の体から力が抜ける。
大きく振っていた手を下ろし、杉山くんは残念そうに呟いた。
「あーあ、かわいかったのに」
どこが?
「学校行こうか」
ため息をかみ殺して私は話題を変える。予定時刻よりも随分遅れてしまった。まだまだ予鈴には間に合うけれど。
並んで歩き出す。杉山くんがクリクリとした目をこちらに向ける。
「会長にも弱点があったんですね」
「いいじゃない、別に」
何故か楽しそうな杉山くんに私は苦い顔で答えた。
「もちろんいいですよ―。会長はいつだって冷静で隙がないから、人間らしい一面を見れて嬉しいですよ。あ、僕このこと誰にも言いませんからね。会長のイメージが崩れちゃいますから」
「言っても別にいいわよ。あえて言うようなことでもないから、みんな知らないだけで」
「いやいや。僕、協力しますよ。会長に」
いつもにも増して陽気な杉山くんが微笑ましくて、私はそれ以上言うのを止めた。
次の日の放課後、生徒会室に行くと壁に大きな犬のカレンダーが貼ってあった。近くにいた会計に聞いてみると、杉山くんが持ってきて貼ったのだと言う。
「こういうのあると和むよね」
会計の言葉に頷く。流石の私も写真やテレビの犬は大丈夫である。写真の犬は咆えないし、噛みついてもこない。
そのまた次の日、生徒会室に行くと会長机の上に卓上カレンダーがおかれていた。日付の部分よりも犬の写真の方が大きいものだ。
「それ、杉山が持ってきたんですよ」
一年の書記の子が教えてくれる。予定を書き込むスペースが小さいので使いにくい。卓上カレンダーは書記の子にあげた。
そしてまた次の日、会長の椅子に座って顔を上げると目の前の壁に大きな犬のポスターが貼ってあった。最近の傾向から誰が貼ったものかわかる。
「杉山くん」
名前を呼ぶと一年の副会長はにこにこしながらやってきた。
「何ですか?」
「カレンダーはともかく、あんまり不要なものを生徒会室に貼らないで」
「え?だって……」
杉山くんは辺りを気にしながら声をひそめる。
「会長が喜んでくれると思って」
何故。
「あ、ポスターじゃ満足できませんか? ですよね、わかります」
何を。
そんな話をしている間に、会計と書記が連れ立って出て行った。これで生徒会室の中は二人きり。それを確認した杉山くんはいそいそとポケットの中からチケットを取り出した。
「ちょうどよかった。誘おうと思ってたんです」
杉山くんは黒いクリクリした目を輝かせ言う。
「今度の日曜日、暇ですか?」
「……暇だけど」
「僕と一緒に出かけませんか?」
小さくて黒いクリクリした杉山くんの目。既視感。何かに似ている。
「会長に喜んでもらおうと思って割引券を手に入れたんですよ」
笑いながら杉山くんはチケットを差し出す。受け取ったそれにはこう書かれていた。
ドックランド割引券
「え?」
直訳すれば、犬の広場。
「ここって……」
「犬と遊べる施設ですよ。二つ向こうの駅前にあるじゃないですか」
キラキラ輝く杉山くんの目。丸くて小さくて黒い目。
何に似ているか思い出した。数日前の朝に会った、リボンちゃんとかいう小型犬だ。私は思わず、椅子ごと少し後ろに下がった。
「それにしてもホッとしたんですよー」
こちらに構わず杉山くんは笑って言う。
「会長が犬好きで」
はっ?
いけない、いけない。思考が完全に停止した。私の名前は高枝こずえ。どうして名字が……。
「会長は『生き物?だから?』って感じの人だと思ってたんですよ。超クールですしね。そこがいいんですけどね。大好きだったんですね―犬。あ、猫はどうですか? 僕どっちもいけるんですけど、犬派の人は猫あんまり好きじゃないから」
「ちょっと、待ってくれる?」
立て板に水。杉山くんの話に無理やり割り込む。
「何で、そう思うわけ?」
「え? だって」
杉山くんの黒い目が楽しそうにクリクリ動く。
「リボンちゃんとずっと見つめ合ってたじゃないですか」
「……」
見つめ合い。
確かに私は『リボンちゃん』から目を逸らさなかった。けれどそれは、目を逸らしたら負けるからだ。見つめ合いには程遠いオーラを出していたはずなのに、杉山くんはどうしてそんな風に思うのか。
「人前で『かわいい~』とか言ったりしたらイメージ崩れると思ってやめてるんでしょ。じっと我慢してるんでしょ。それで葛藤して見つめ合ってたんですよね。可愛いなあ、会長は」
やけに饒舌な彼からまた数歩下がる。
ああ、そうか。私は納得した。杉山くんは犬が大好きだから。
犬が好きだから嫌いな人がいるなんて想像も出来ないんだ。誰でも犬を好意的に見ていると思っている。それはきっと、リードを外して散歩をする飼い主や、抱っこしたままバスに乗ってくるオバさんもそうで。
「杉山くん」
「はい」
小型犬の瞳を持つ彼は喋るのを止めて身を乗り出す。
「私はね、犬が嫌いなの」
その目がきょとんとなった。
「あれは見つめ合ってたわけじゃなくて、硬直してたの。どんなに小さい犬でも嫌なの。犬は獣でしょ。だから怖いの。私はここへは行けないわ」
そっとチケットを返す。杉山くんは茫然としながらそれを受け取った。
「悪いけどそういうわけだから。じゃあ仕事をして、副会長。早く始めないと下校時間までに帰れないわよ」
「はい……」
踵を返した彼はのろのろと自分の席へ向かう。気がついて途中で方向転換し、犬のポスターを剥がしてくれた。
新しい一週間が始まった。月曜日の放課後。生活指導部主任と冬休みのクラブ実施状況について話していたので、生徒会室に行くのが少し遅れてしまった。
「遅れてごめん」
生徒会室のドアを開けると杉山くんが一人でいる。彼はにこっと笑って挨拶してくれた。
「何か変わったことは?」
「陸上部の部長から運動場使用の件に関して異議申し立て書が来てます」
「破って捨てといて」
「はい」
会長机に座り、ふと上げた私の顔が引きつった。目の前の壁に先週よりも大きなポスターが貼られていたのだ。
「杉山くん、これは……?」
「キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルです」
「それは何の呪文?」
「犬種です」
小型犬は小首を傾げてポスターの中からこちらを見ている。
「犬の名前は聞いてないの。これは一体どういうこと?」
「僕はあれからいろいろ考えました。どうしたらいいのか」
杉山くんは立ち上がって、バンとポスターを叩く。
「会長、習うより慣れよ、です」
自信満々の彼の言葉にとてつもなく嫌な予感がした。
「会長が犬嫌いなのは怖いからだと言いましたよね。でも徐々に慣れていけば平気なはずです。まずはポスターから」
「いや、ポスターは大丈夫なんだけど……」
「じゃあ行きましょう、ドックランドへ。小型犬の赤ちゃんから始めましょう」
「いやよ」
「そこを何とか!」
「犬が嫌いでもいいじゃない。犬好きの人に迷惑はかけないから」
「駄目です。会長が犬を好きになってくれないと僕が困ります」
「何で?」
「前にも言った僕の夢です」
「夢?」
『僕の夢は、でっかい庭付きの家で奥さんと三人の子供とおっきい犬たちに囲まれて暮らすことなんですよー』
小型犬と同じ瞳がこちらを見つめてくる。小さくて黒くてくりくりした真剣な目。
犬は苦手だ、吠えるから。けれどその実、一番苦手なのは尻尾を振って擦り寄ってくる犬だ。慣れていないから扱い方がわからない。私に擦り寄ってくるなんて、何を考えてるのかわからない。
睨み合いは出来ない。見つめることはもちろん出来ない。私は彼から視線を外した。
その後の私がどうなったのかは、トイ・プードルの目を持つ彼が知っている。
初出:2006/11/18
美味しい珈琲を飲みます!