1.眼鏡屋の息子
ランドセルにさよなら告げて、制服にはこんにちは。中学生になって一週間が過ぎた。
第一中学は付近の四つの小学校の児童が集まって生徒になる。東校、西校、南校、そして、僕の出身である北校。だから、北校出身の連中ばかりとつるんでいた。大体みんな、そういうもんだろ。
けれど、僕には話しかけたい奴がいた。授業中はずっとそいつの背中を見つめている。先に言っとくがそいつは男だ。そして、僕も男だ。けれど変な意味じゃない。単にそいつが前の席に座っているだけだ。
話しかけたいなあ、と思う。けれど派閥というのは結構強力なものである。この一週間、そいつの声をちゃんと聞いたのはホームルームの自己紹介だけだった。
別の学校の奴に話しかけると裏切ったみたいに思われる。幸い、隣の席の野田が同じ北校出身なので横を向いていればこと足りる。
でもなあ、と思う。話しかけてみたいよなあ。
目立つ奴じゃない。意見をバシバシ言う奴じゃない。けど、あいつが口を開くと周りはみんな奴の言うことを聞くんだ。いるだろ、クラスに一人はそういう奴が。
こいつは何かが違うと僕にはよくわかっている。話しかけたい。けれど、数学の授業中もずっとそいつの背中を見つめるだけだった。チャイムが鳴って授業が終わる。負の数と負の数をかけると正の数になる。意味がよくわからない。
昼休みだ。給食とは違って中学からは弁当になる。いそいそと蓋を開けて、いただきますと手を合わせる。
突然、目の前の背中が振り向いた。見つめ続けていた黒い背中がくるりと回転したのだ。そして言った。
「清水、お前の家って眼鏡屋だよな」
それが、そいつ――沢野利也の最初の言葉だった。
その週の土曜日、沢野はうちの店に来た。『清水眼鏡店』はうちの爺さんが始めた店で、親父が二代目、僕が多分三代目になる。
沢野は一人で来たわけじゃなかった。きれいな女の人と一緒だ。聞いてみると母親らしい。
「いつも利也がお世話になっております」
「いえいえいえ」
丁寧な挨拶に出迎えた僕は首をブンブンと横に振る。応対に出たうちの母親にも挨拶をした沢野の母親は早速眼鏡を選び始めた。そう、今日は沢野の母親の眼鏡を買いに来たのだ。
手持ちぶさな僕たちは店の隅に固まる。眼鏡を選ぶ母親たちを見ながら僕は沢野に問いかけた。
「つきそい?」
「この辺は知らないらしいから案内してきた」
沢野は南校出身である。第一中を挟んでちょうど反対側の校区。あちらの方には大きなショッピングセンターもあるからこっちまで来たことないのも頷ける。それに、あんなにきれいな母親ならわざわざ案内するのも頷ける。
「近くの眼鏡屋が潰れちゃってさ」
「沢野のお母さん、近視?」
「普段は眼鏡かけなくていいほどだよ。でも、今使ってる眼鏡は15年ものだから、そろそろ買い替えようってことになったんだ」
物持ちがいいんだなと思った。あまり眼鏡をかけない人だからかもしれない。
「どうしてうちが眼鏡屋だって知ってたの?」
そう尋ねると、沢野は意外そうな顔をした。
「初日の自己紹介で言ってただろ」
そういえば。
「覚えててくれたんだ」
「あれを覚えてない方がどうかしてる」
「そうかなあ」
格別面白いことを言った覚えはない。ただ、「眼鏡はかけていませんが清水眼鏡店の三代目です」と言った後に店の紹介をしただけだ。
それからボツボツと学校の話をした。沢野はクラブに入るつもりはないらしい。僕はサッカー部に入るつもりだったけれど、ミーハーなようでなんとなく言えなかった。
母親たちは楽しそうに眼鏡を選んだ。帰りにうちの母親がおまけと称して眼鏡拭きを十枚も渡した。あんなにたくさんはいらないだろう、いくらなんでも。
明けて月曜日。ボツボツと他の小学校同士も会話するようになっていた。その先陣を切ったのは僕と沢野だ。僕は勝手にそう思っている。
「おはよう」
沢野は僕に挨拶をして前の席に着席した。挨拶を返して訊いてみる。
「お母さん、眼鏡気に入ってた?」
「父親の方が気に入ってた」
「沢野のお父さん?」
「『萌える』って言って怒られてた」
僕が笑うと沢野は顔をしかめた。
ところで、僕の後ろの席は立花弥生という女の子だ。実は、ここ数日、彼女からの視線を感じるのだ。真後ろから見られているような視線。
今もそれを感じた。だから、僕は振り返ってみた。立花さんはビクリとして目をそらし、前髪を押さえるような仕草をした。机に立てた鏡をよく覗き込んでる可愛い子。出身は確か西校。
思い切って声をかけてみることにした。クラスの人数が奇数なので、うちの列は7人、右隣の列は6人座っている。つまり、一番後ろの彼女の右隣が空いているのだ。となれば、雑談したければ前に座っている人間に声をかけるしかない。けれど違う学校出身なので声をかけにくい。その気持ちはよくわかる。だから、こちらから声をかけよう。
「立花さんは眼鏡に興味ある?」
「え?」
戸惑ったように立花さんは首を傾げた。
「もし入り用だったらうちで作りなよ」
「あ、じゃあ……」
「買う予定ある?うちで眼鏡買ってくれたら眼鏡ケースも眼鏡拭きもいっぱいサービスしちゃうよ」
途端に立花さんは戸惑った顔をした。
「あ……ごめん。買う予定ないや」
「そっか……」
心持ち肩を落とす。沢野の方に向き直るとこちらの様子を見ていた彼は厳かに口を開いた。
「お前いい加減、眼鏡から離れろ」
その週は中学生になって初めての健康診断があった。書き入れ時だと視力検査の後で店の宣伝をすると嫌な顔をされた。仕方ないだろ、個人商店はどこも厳しいんだ。
土曜日に店番をしていると、母親が買い物から帰ってきた。ちらちらとドアの方を気にしながら耳元で囁く。
「さっきから女の子がここの様子、伺ってるよ」
「どんな子?」
「自転車に乗ってたよ。可愛い系ってやつだね」
『可愛い系』の子を拝むべく二階に上がってこっそり窓から外を見た。いた。斜め向かいの昔花屋さんだった空き店舗の前に自転車にまたがった女の子が一人。女の子向けの雑誌から切り取ったような格好をしている。
「……あれ?」
何となく見覚えがある気がした。母親の部屋からオペラグラスを持ってきて覗いてみる。
「立花さん?」
制服姿じゃないけれど間違いはない。うちのクラスの立花さんだ。
「へえ、あんな服着るんだあ」
小学校とは違い制服通学だ。遊びにでも行かない限り私服を見る機会なんてない。
「もしかして……」
視力検査の結果が悪くて眼鏡を作りに来たんだろうか。
彼女はしばらくうろうろとその辺りを回っていた。迎えに行ってあげた方がいいかな、と思い始めた頃、うちの店とは反対方向に走り出す。
「なんだあ?」
首をひねる。店に入りづらかったんだろうか。
日曜日、暇だったので自転車に乗って沢野の家に行ってみた。約束をしたわけではないけれど、行ってみたくなったのでふらりと遊びに行ったのだ。
沢野はとんでもなく迷惑そうな顔をした。
「連絡ぐらいしろよ」
「だって電話番号知らないだろ」
「家の場所はどうやって知ったんだ?」
「この前、沢野のお母さんが眼鏡を買ったときに書いただろ。お客様カードに」
カードに書かれていた電話番号は携帯電話のものだった。遊びに行きます、とお母さんに連絡するのも変な感じがして止めたのだ。
ちっと沢野は舌打ちした。
「個人情報保護法違反」
「固いこというなよ。この辺あんまり来ないからよく知らないんだ。案内してよ」
一旦家に引っ込んでから、自転車の鍵と帽子を持って沢野は出てきた。美人のお母さんは「いってらっしゃい」の声だけ聞こえた。
沢野と並んで自転車をこぐ。不機嫌そうな背中に声をかけた。
「もしかして怒ってるー?」
「クラスメイトがいきなり家の前に立ってたらどういう気持ちになる?」
「いらっしゃいませ」
「眼鏡屋から離れろって」
「そういえば、立花さんが昨日うちの店に来たよ」
「立花が? まさか」
「入ってこなかったけどね。うちの店の前うろうろしてた」
沢野はキュッとブレーキをかけて自転車を止めた。斜め後ろを走っていた僕も止まる。
「どうしたの?」
口元に手を当て沢野は何か考えていた。そして、こちらを向いて尋ねる。
「立花ってさあ、おしゃれ?」
「はあ?」
いきなり何を言い出すんだろうと僕は眉をしかめた。
「大人っぽい服着てたからおしゃれなんじゃないの」
「ふうん」
一つ頷いて、沢野は口から手を離した。
「じゃあ、ショッピングモール行くか」
「うん」
『じゃあ』の意味がよくわからないまま僕は沢野についていった。モールの中にある百均をひやかして回る。
夕方、家に帰ると母親が意味深な顔で近づいてきた。
「あの女の子、また来てたよ」
立花さんは今日も店に入らずこちらの様子を伺っていたらしい。
何がしたいんだろう。よくわからなかった。
月曜日、教室に入ると沢野はもう来ていた。おはよう、と挨拶をして机の上にカバンをのせる。後ろの席の立花さんも自分の席で鏡を覗き込んでいた。
「おはよう、立花さん」
「おはよう」
席につくと沢野がやってきて僕の隣に立った。そして、立花さんに向かって言う。
「清水の家の周りをうろうろしなくても、ショッピングモールの百均で売ってた」
立花さんは鏡から目を上げ沢野を見た。複雑な表情を浮かべている。
「うろうろって……」
「見られてたぞ、清水に」
「やだ、本当?」
こちらを見た立花さんに僕はこっくりと頷く。彼女の頬が赤くなった。
「恥ずかしい」
分かり合っている二人が面白くなくて僕は沢野の服を引っ張る。
「どういうこと? 眼鏡って百均で売ってたっけ?」
老眼鏡なら見かけたが、昨日行った百均にも近視用の眼鏡は置いていなかった。度を合わせなければいけないので当然だ。売っていたのは、と昨日沢野と一緒に見た商品を思い出す。眼鏡関係で言うなら……。
「眼鏡拭きぐらいしか売ってなかったけど」
首を傾げる僕に沢野は肩をすくめて言った。
「立花が欲しかったのはそれだよ」
視線を送ると立花さんがこっくり頷いている。
「眼鏡拭き? 立花さん、眼鏡持ってるの?」
「立花は多分、眼鏡持ってないよ」
僕はパチパチと目を瞬いた。ますます意味がわからない。一方、立花さんも驚いたように沢野を見ていた。
「私の視力が1.2って知ってたの?」
「そこまではわからない。でも一番後ろの席で文句を言ってないから、視力がいいか、コンタクトのどっちかだろうなと思った」
そういえば、出席番号がクラスで一番最後の渡辺さんは、黒板がよく見えないという理由で席を替わってもらっていた。
「コンタクトを持ってる奴は基本眼鏡も持っているし、眼鏡で困ったのなら買った店に行けばいい。クラスメイトの家の前をうろうろしなくてもいいはずだ」
「うん」
「それなのに、清水の家の前にいたのは、眼鏡屋に用があったから、けど眼鏡が目的じゃなかったから入りづらかったんだろうなと思った」
立花は感心したように頷いた。
「沢野くんって頭いいんだね」
「用って眼鏡拭き? 眼鏡もないのにどう使うの?」
僕が尋ねると沢野は手で何かをこするしぐさをした。
「石鹸を泡立てるんだよ。そうするときめ細かい泡ができる」
「それで顔を洗うとお肌にいいの。この前テレビでやってたの。私よくニキビできるから眼鏡拭き欲しいなって思ってたんだよ」
そういって立花さんは前髪を押さえる仕草をした。彼女がしょっちゅう鏡を覗き込んでいるのは、おでこのニキビを気にしていたのかと思った。
「言ってくれたら眼鏡拭きぐらいあげたのに」
「だって、眼鏡を買わないといけないのかと思ってたの。清水くんに頼んでみようってお店まで行ってみたけど、いざお店の前まで行くと恥ずかしくって。でも、他にどこで売ってるかもわからないし」
口を尖らせて言うと申し訳なさそうな反論が返ってきた。沢野が笑いながら付け足す。
「清水は商魂たくましいから、タダじゃくれなさそうだしな」
失礼な、と僕の口はますます尖がる。立花さんは楽しそうに笑って、その笑顔が何だかいいなってそう思った。
「そういえば、どうして沢野は眼鏡拭きで石鹸泡立てるって知ってたんだよ」
掃除の時間。ホウキでゴミを押しやりながら僕は尋ねる。隣で同じくホウキを使う沢野は肩をすくめた。
「うちの母親がそうしてるんだよ。洗面所に眼鏡拭きが置いてある」
「……それってもしかして」
「そう、お前のとこでもらったやつ」
あの十枚の眼鏡拭きは思わぬ形で役に立っていたのだ。へえと思う。
「まあ、そもそもお前のところに行ったのもそれが目的だったし」
「へ?」
沢野は意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「息子の同級生のお母さんが来たら何かサービスするだろ。で、眼鏡を選んでいる最中に、石鹸を泡立てる話をする」
「何だそりゃ」
「眼鏡を買い替えるならついでにってことだよ。うちの母親、その辺しっかりしてるから」
「へえ」
そういえば、と思う。
あれだけわかっていたのなら、昨日百均で見つけた眼鏡拭きを立花さんに買ってやったらよかったのだ。たかだか105円のことなのだから。
机運びを手伝う彼を見て思う。
もしかして、沢野ってケチ?
まあいいや。立花さんはものすごく感心していた。これで目当てのものを差し出されたら沢野のことを好きになってしまうかもしれない。それは何だか困る。
立花さんと目が合った。明日、例のあれを彼女にプレゼントする約束をした。喜んでくれるなら本望だ。使い方は違うけれど、それはまあ置いておこう。
初出:2009/10/12
美味しい珈琲を飲みます!