1.夢で逢えたら

 2つ年上の幼馴染が結婚を決めた日、大輔は奇妙なノボリを見かけた。
『あなたの夢、売ります買います』
 古本屋だろうかと目を疑ったが、どう見ても『あなたの』に続く言葉は『本』ではなく『夢』である。
 普段ならこんな怪しげなものは無視して素通りするところだが、今日は何故か、ひどく興味をそそられて、その小さなビルに入った。
 細い階段を上がると目の前のドアにまた同じ文句が書かれていた。
『あなたの夢、売ります買います』
 ドアを開けると中は薄暗く、赤いライトがぼんやりと室内を照らしている。
 窓には暗幕、置かれた黒いソファ。それらがある種幻想的な雰囲気をかもし出していたが、大輔は小さくため息をついた。
 どうやら新手の占いのようだ。何となく期待していたので損した気分になった。
 まひるが喜びそうな店だ、と思った。女というのはえてして、こういうものが好きだ。
「いらっしゃいませ」
 声がして奥から人が出てきた。
 現れたのは眼鏡をかけた背広姿の青年。
 絵に描いたような占い師を想像していた大輔は少し拍子抜けする。
「こちらへどうぞ」
 このまま出ていくのも変なので、さっさと奥へ引っ込んだ青年の後を追う。
 奥の部屋には机を挟んで椅子が2脚、対面していた。
 青年が先に座って向かいの椅子を勧めてきたので大輔はそこに座る。
「どのような夢をお望みですか?」
 薄暗い灯りの元、大輔は青年をまじまじと観察した。
 年の頃は存外若い。自分より少し上、24,5ぐらいだろう。
 色が白く、それなりに端整な顔立ちをしているが、ひ弱そうな様子はない。
「どうかしましたか?」
 問われて大輔は我に返る。
「あ、えっと…夢を売り買いするっていうのは、その、具体的に…」
「まあ、お疑いなのも無理はありません。しかし、あのノボリを見てここまできたのですから信じたんでしょ、この、怪しげな話を」
「何故、あのノボリを見てここにきたことがわかったんですか?」
 大輔は少し身を固くして尋ねた。
「簡単なことです」
 青年は肩をすくめる。
「あれ以外に広告してないもので」
 それで商売になるのだろうか。大輔は怪訝な顔で相手を見た。
「最低限の宣伝でも、必要な人の目には留まるものですよ」
 口の端を上げて青年は笑う。
「貴方も夢を必要とされていたわけです」
 柔和な笑みを浮かべる青年の目が笑っていない気がして、浮き足立つ。
 早くこの場から去ったほうが良いのかもしれない。
「あの、オレは…」
「まあ、お待ちください」
 腰を浮かしかけた大輔を青年は手で制す。
「地獄の沙汰も金次第、あなたの夢も金次第」
 眼鏡の奥の瞳がじっとこちらを見据えていた。
「確かに、夢の売買ですから多少のお金はかかります。こんな話に突然そんなにお金は出せませんよね。では、お試しに一回100円ではいかがでしょう?今夜の夢、お選びいただけますよ」
 お試しなのに無料ではないのだろうか。
 問題はそこではないが。
「…いえ、オレはやっぱり、いいです。すいません」
 たとえ本当に望みどおりの夢が見れたにしても、夢は夢。
 店の中にまで入ってなんだが、大輔は一礼して立ち上がった。
「まあ、せっかくいらしたのですから、名刺だけでもお持ち帰りください」
 嫌そうな顔一つせず、青年が差し出された四角い紙を受け取る。
 そこには、『夢売買人 漠』とそっけない文字。
 変わらぬ表情で青年は言う。
「何かありましたら遠慮なさらずお越しください」

「大輔ー」
 奇妙な名刺をとりあえず財布にしまって家に帰ると、玄関でまひるに捕まった。
「まひるちゃん」
 もうすぐ花嫁となる幼馴染の彼女の顔はこのごろ幸せ一杯だ。
「お帰り、大輔。ねえねえ、これから何しに行くと思う?」
「さあ」
「隆彦さんとウエディングドレス見に行くの」
 満面の笑みで言う。
「ふうん、まひるちゃんの体に合うドレスがあるといいね」
「どういう意味よ」
「もう少し痩せなきゃ、できちゃった結婚とか言われるよ」
「ひどーい」
 ポカポカと大輔の肩を軽く殴ってまひるは笑った。
「大輔、そんな口の利き方じゃ女の子に嫌われるよ」
「別にいいよ、嫌われても」
「嘘つけー。そういや、あんた彼女いたことないじゃない。お姉さん心配だわ」
「自分が結婚するとなったら、今度は人の心配?そのうち仲人が趣味のおばさんになるよ」
「小池さんのおばさんみたいに?」
 近所のおばさんの名を挙げてまひるは笑う。
 何を隠そう、彼女が花婿となる『隆彦』なる男と出会ったのは、このおばさんの紹介なのだ。今度の結婚式では仲人となる。
「次は大輔が狙われてるわよ」
「は?何で。オレまだ大学生だし」
「『朴念仁の大輔くんがおばさん心配なの』って言ってたもん」
「人を勝手に朴念仁呼ばわりかよ」
 はあ、とため息をつく。
「好きな人ぐらいいるっつーの」
 まひるの目が大きく見開かれた。
「えー!だれだれだれ?あたしの知ってる人?」
 思わず出たぼやきに反応され、大輔はしまった、と小さく舌打ちする。
「教えない」
「けちー。まあ、いいわ。大輔も人並みに好きな子いたのね。お姉さん安心したわ」
 ふふふと笑ってまひるはとん、と大輔から離れた。
「じゃあ、隆彦さんと待ち合わせしてるからそろそろ行くね」
「はいはい、行ってらっしゃい。『隆彦さん』に捨てられないようにね」
 はーい、と明るく笑ってまひるは駅の方へ駆け出していった。

 何気なく言った冗談が現実のものになるとは、思いもしなかった。

 それから1ヶ月ほどたったある日。
 その知らせをもたらしたのは母親だった。
「大輔、ちょっと」
 家に帰ると母親が深刻な声で告げた。
「お隣のまひるちゃん、彼氏に逃げられたらしいわよ」
 一瞬、何のことかわからず大輔は反応できなかった。
「結婚詐欺だったそうよ。まひるちゃん、今まで稼いだお金を全部とられて捨てられたらしいの」
 言葉が耳を伝って脳に達すると同時に、大輔は家を飛び出していた。
 幼い頃から行き来している隣の家。チャイムを押さずにドアを開ける。
「大輔くん」
 まひるの母親が驚いた顔で大輔を見た。
「おばさん、あの、まひるちゃんは…」
 顔が曇るのがわかった。
「部屋に閉じこもってるの。誰にも会いたくないって…」
 靴を脱いで、勝手知ったる他人の家にずかずかと上がりこんだ。
 まひるの部屋のドアに手をかけると鍵がかかっていた。
「まひるちゃん」
 ドンドンとドアを叩く。
「まひるちゃん!」
「大輔?」
 か細い声が聞こえ、大輔はドアに耳を当てた。
「振られちゃった」
 えへへ、と力なく笑う声が聞こえる。
「隆彦さんが優しかったのはわたしがお金持ってたからなんだって」
「まひるちゃん…」
「わたしは隆彦さんのことが好きなのになあ」
 かける言葉を見つけられず、大輔はただそこに立ち尽くした。

 その2日後、目元に大きな隈を作ったまひるがふらふらと歩いているのに出くわした。
「まひるちゃん」
 慌てて傍に行き支えるようにして隣に立つ。
「大丈夫?ちゃんと寝てる?」
「ねえ、大輔。お金貸してくれない?」
 力ない声にぎくりとなる。
「やっぱりこの世はお金かなあ」
「何言ってんだよ、まひるちゃん」
 彼女の両肩を掴んで強く揺さぶった。
「あー、そうだ。あれがあった。隆彦さんにプレゼントしようと思って別にとっといた2万円」
「まひるちゃん!」
 大輔が強く名を呼ぶと、まひるはへらっと笑った。
「うん平気。大丈夫だよ。もうすぐ平気になるから」

 それから数日が過ぎた。
 もう一度、訪ねてみようとずっと考えていたが、力ない笑顔を思い出してはどうしても踏ん切りがつかず、まひるの様子は母親づてに耳にするのみだった。
 まひるは少し落ち着いてきて、眠りすぎるほどよく眠り、目の下の隈も消えたそうだ。
 少し安心していた、そんな矢先。
 家を出ようとした大輔は、血相を変えて飛び出してきたまひるの母親と鉢合わせる。
「大輔くん!まひるが!」
 そのまま大輔は隣の家に駆け込んだ。
 まひるの部屋のドアは開いていた。
「まひるちゃん!」
 彼女はベッドの上で幸せそうに微笑みながら眠っていた。
 しかし、その顔は青白く大輔が名を叫んでも微動だにしない。
 駆け寄って、頬を叩いてもいくら名を呼んでもまひるは全く反応しなかった。
 体を抱えたまま呆然とする大輔の目にふと白い紙が留まる。
 白い名刺。
 そこには素っ気無い字でこう書かれていた。
『夢売買人 漠』と。

 睡眠薬を飲んだらしい。医者はそう言った。
 しかし、まひるの体内から検出されたそれは決して致死量ではなく、いつまでたっても目覚めない理由がわからない、とも言った。
 そして、その次の日。
「どういうつもりだ、お前!」
 ビルの扉を開けるなり、大輔はそう叫んでいた。
「何ですか?いきなり」
 奥から以前の格好のままの青年、漠が少し億劫そうに出てきた。
「お前、まひるに何をした!」
 漠は両の手の平を大輔に向け落ち着くよう言った。
「まひるさんは当店で夢をお買い求めになりました」
 まあ、うちは夢しか扱ってないんですけど、と漠が小さく呟く。
「…どんな夢を?」
「お客様のプライバシーは守ります。ので、言えません」
 無言で漠に近づくと大輔は彼の胸倉を掴んで笑顔で締め上げた。
「ふざけるなよ、てめえ。オレは怒ってるんだ」
「まあ見ればわかりま……お教えしますので手を放してください」
 大輔が手を放すと、漠はネクタイの乱れを直す。
「まひるさんは、隆彦さんとおっしゃられる方との夢をお買い求めになられました」
「あんな奴との…」
 顔を歪め大輔は青年に詰め寄る。
「まひるが眠ったまま目を覚まさない。ここで買った夢のせいじゃないのか?」
「そうですよ」
 あっさりと答えた漠の胸倉に再び大輔は手を伸ばした。
 それをひょいとかわして漠は言う。
「手の荒いお人だ。二の鉄は踏みませんよ。痛いのはごめんだ」
 睨み付ける大輔に軽く肩をすくめた。
「まひるさんは残りの人生全ての時間分の夢を買われました。眠り続けるのは当然です。寝なきゃ夢は見れませんからね」
「残りの、人生全て……?」
 呆然と大輔は呟く。
「どういうことだ?」
「ずっと夢を見ていたいということですよ。そういうお客はたまにいますからね」
 視線だけを向けてくる大輔に漠は言った。
「こちらを責めるのはお門違いですよ。彼女はお金を払いこちらは商品を売った。売買契約成立です。どこにも入り込む余地はない」
「…いくら払った?」
 大輔の呟くような言葉に漠は答えた。
「2万円です」
 彼女と交わした会話が蘇る。
「じゃあ、じゃあ、オレが10万払う。あんたは夢を買ってもいるんだろ。それで彼女の夢を買い戻してくれ」
 漠はため息をついた。
「お客様、夢の売買は基本的にその夢を見るご本人様との契約しかいたしておりません」
 それに、と続ける。
「こんな喩えがあります。年商10億円の大金持ちが神様に100万円をお供えしました。そして、お金も仕事もない貧しい人が全財産の1万円を神様にお供えしました。さて、この100万円と1万円はどちらが価値があるものでしょう?」
「こんな時に何を…」
「まひるさんは自分の全てを投げ打ってこの夢を買いたいと言った。本来ならば、あの若い方の人生すべての夢は2万円では買えないものです。けれど、あの方の気持ちを尊重してお売りいたしました」
 漠は大輔を見て口の端を上げた。
「あなたの10万は彼女の2万円よりも価値のあるものですか?」

 大輔はまひるが入院している病室にやってきた。
「まひるちゃん…」
 眠り続ける彼女を見ながら思う。
「そんなにあの男がよかったのか?」
 自分の残りの全てを捧げてしまうほどに。
「まひるちゃんは、いつも明るくて、可愛くて、二つ年下のオレなんかよりも全然子供っぽくて」
 だから彼女が見合い相手と付き合いだすなんて思っても見なかった。
 これまでも、彼氏はいたがそれはどれも男友達の延長線のようなものだった。
 安心していたのかもしれない。
 まひるにそういう意味での男ができない、と。
「もうちょっと待っててくれたら…」
 大学を卒業して、彼女と同じ社会人という立場になれたら。
 その時は。
「言いたいことがあったんだけどな」
 漠は彼女の残りの人生全て分の夢を売ったと言った。
 夢の売買。そんなものが可能か不可能かなんて知らないが、今現実に目の前で起こっていることを見るとそれが真実であると思う。
「これからの人生、ずっと夢の世界で…」
 それでいいのか、と聞きたい。
 現実に起こり得ないことを期待して、ずっとそこに捕らわれてしがみついて。
 未来に起こるどんなことも全て拒絶して。
 ただ、夢の中で。
「鬱陶しい男ですねえ」
 声にはっとして顔をあげるといつの間にか、部屋の中に漠がいた。
「なっ……いつの間に!」
「人の胸倉にいきなり掴みかかる男も嫌いですが、女が寝てるベットの横でうじうじ考え込んでる男も嫌いでして」
「……何しに来たんだ?」
 漠はふっと笑った。
「決まってるでしょ。商売です。夢を買いませんか?どんな夢でもお売りしますよ」
「ふざけるな」
 地の底を這うような声で大輔は吐き捨てた。
「お前の顔なんか見たくもない」
「おやおや。嫌われたもんだ」
 腕組みをして漠は大輔を見据える。
「まひるがこうなったのはお前のせいだろうが!」
「そうですか?ならばあなたは園芸用のハサミが凶器の殺人が起きたら、それはハサミを売った園芸店の主人のせいだとおっしゃるんですね」
「そんなことは言ってない」
「言ってますよ。頭とハサミは使いよう。その血の上った頭を静めてみたらいかがです?」
「余計なお世話だ」
 吐き捨てるように言う大輔に漠は笑った。
「好きなんでしょ、彼女のことが」
「………」
 沈黙は肯定の証だ。
「いいじゃないですか。よくあることです」
「オレはまひるちゃんに男扱いもされてないんだよ」
 2歳の年の差は意外に大きく二人の間を阻む。
 それきり黙りこんでしまった大輔を漠はしばらく眺めていたが、やれやれと首を横に振った。
「要はまひるさんを目覚めさせたい、そういうことですね」
 怪訝な顔で大輔は漠を見る。
「方法はないこともないですよ」
「どうするんだ?」
「それ相応の料金を払って下さるのなら、お教えしましょう」
 大輔は一歩、漠に詰め寄る。
「いくらだ?」
「そうですね」
 漠は大輔を値踏みする。
「あなたがこれから見る夢すべて、ではいかがでしょう」
「それでいいのか?」
「ええ」
「なら、売る」
 漠は頷いた。
「ご利用ありがとうございます。まひるさんを目覚めさせる方法は簡単です。まひるさんがご自分の夢を手放してもいいと強く願えばいい。ただ、こちらは夢の売買以外のことはやってないんです。ですから」
 漠はにやりと笑った。
「あなたがご本人と直接、交渉していただけますか?」

 気がつくと、大輔は遊園地にいた。
 メリーゴーランドの明りがちかちかと眩しい。
『隆彦さん、次はあれに乗りましょうよ』
 振り返るとそこには長身の男と腕を組むまひるの姿があった。
 男の顔は光に翳ってよく見えない。
『まひるちゃん』
 名前を呼ぶと、大輔の姿を認めて笑う。
『大輔も遊園地に来たの?』
『まひるちゃん、これは…』
 夢なんだ、と言いかけて口をつぐむ。
 漠に言われているのだ。これはまひるの夢なのだから彼女に意に染まぬことを言うと、はじき出される恐れがある、と。
 意に添うように少しずつ、彼女を夢から引き離す。
『隆彦さん、この子が大輔よ。ほら、前に話したお隣さんで幼馴染の』
『こんにちは』
 大輔はとりあえず頭を下げた。
『じゃあね、私たちデートだから』
 行きましょ、と腕を組んだまま歩き出すまひるに大輔は声をかけた。
『まひるちゃん、今、幸せ?』
 首だけ少し振り返り、まひるは微笑む。
『ええ。とっても』
『本当に?』
 強くなった声にまひるは立ち止まって瞬きした。
 隣の男もそれに準じて止まる。
『まひるちゃんは本当にそれでいいの?』
『……何言ってるの?大輔、おかしくなっちゃったの?』
『まひるちゃん』
 近づいて彼女の目の前に立った。
 男と腕を組んだままのまひるを見つめて言う。
『好きです。ずっと昔から』
 驚愕にまひるの目が大きく見開かれ呆然と大輔を見た。
『何、言ってるの……?』
 ゆっくりとその目が一度閉じ開いた。
『隆彦さんの前で』
『その男は違うだろ』
 まひるがギュッとすがりついた男にちらりと目をやって大輔は言った。
『気がついてるんだろ。その男、さっきから全然喋ってない』
『………』
『喋らせたくないんだろ。これはまひるちゃんの夢なんだから、まひるちゃんの思う通りにできる』
『何、言って…』
 まひるは男を見上げ大輔に視線を戻した。
『何言ってるのよ、大輔!』
『そもそも、まひるちゃんをこんなにも傷つけるような男に、たとえ夢の中であってもくれてやる道理はない』
 まひるがじりっと一歩下がった。
 腕を掴まれたままの男もそれに従う。
『嫌よ、大輔…』
『まひるちゃん!』
 大輔はまひるを男から無理やり引き離し彼女の両肩を掴んだ。
『オレは夢の中でだってあんな奴となんか会って欲しくない。まひるちゃん、現実の世界にはオレがいる。絶対にまひるちゃんを泣かせたりしない!約束する。だからこんな夢、早く終わりにするんだ』
『何言ってるか全然わかんないよ、大輔』
 泣きそうな顔でまひるが言う。
『これのどこが夢なのよ。隆彦さんは優しいもん。あたし、隆彦さんのことが好きだもん。勝手なことばっかり言わないでよ』
 ぐらり、と階段を踏み外したような感覚があった。
『隆彦さんは優しいの。あたしに優しくしてくれたもん』
 目から涙が溢れ出す。
 優しくしてくれた。過去形の言葉。
 そう本当は彼女だってわかっている。
『隆彦さんがあたしを置いていくわけないもん』
 引き離される。そう直感した。
 まひるの意に添わぬことをしたら弾き飛ばされる、これがそうなのだろう。
 しかし、簡単に引き離されるわけにはいかない。
 手を伸ばして大輔はギュッと彼女を抱きしめた。
『好きだよ、まひる』
 不安定な世界の中で伝えたいのはこの言葉だけ。
『ずっと側にいるから』
 何かに引っ張られる。
 名残惜しくその体を離すと涙に濡れるまひるの顔が見えた。
 足元が崩れる。
「いいんですか?まひるさん」
 どこかから、声がした。
「このままじゃ大輔さんはどこともしれない夢の世界へ放り出されて、いなくなってしまいますよ」
 落ちる。
 意識が急速に流れていく。
『嫌』
 フェイドアウトする直前、まひるの声がした。
『大輔までいなくなるなんて嫌!』

 パチリと目を開けると、そこは病室だった。
 くらくらする頭を支えようとして、まひるの手を握っていたことに気づく。
 反対の手で頭を抑え、何があったのかを思い出そうとした。
 ピクリと、握っていた手が動く。
 はっとして顔に目をやると、長い睫が小さく震え瞳が開いた。
「まひるちゃん……」
「大輔?無事だった?」
 掠れた声に涙が出そうになった。

「まひるさんの一生分の夢と大輔さんの一生分の夢が手に入りました」
 パタンとトランクを閉め呟く。
「仏心を出してしまいましたねえ。まあ、今回はこれで良しとしましょう」
 ネクタイを締め直し、背広姿の青年はその場を後にした。

 大輔はあの奇妙なノボリがあったはずの場所を通った。
 しかしそこにはノボリはもちろん小さなビルもなく、薄暗い路地があるだけだった。
「ここだと思ったんだけどなあ」
「どうしたの?大輔」
 隣で首を傾げるまひるは何も覚えておらず、財布に入れていたはずの名刺もいつの間にかなくなっていた。
 あの出来事は何だったのか。あの青年の方が夢だったのか。
 今となってはよくわからないけれど。
「何でもない」
「何よ、教えなさいよー」
 まひるが軽く叩く振りをする。
 大輔は笑ってそれを受け止めた。
「もう夢はいらないってことかな」
 眉をひそめた彼女に大輔は右手を差し出す。
「行こうか、まひる」
 まひるは頷いてその手をとり、二人は歩き出した。


初出:2004/04/28-05/02

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