白いバラをあなたに
窓から入る夕日が目にしみる。
静かな部屋に響くのは自分の呼吸音と手持ちぶさにめくる雑誌が擦れる音。
「帰ろうかな……」
答えるように水道から雫がピチョンと落ちた。
すでに2時間、待ちぼうけ。
事前に何のアポもとらず、突然ふらりとやってきた。この部屋の主が家にいないのは当たり前。それでなくとも、彼女は忙しい。付き合い始めて1年になる伊崎友香は、静かにブレーク中のモデルさんなのだから。
とっくに暮れた窓の外を見て寝転がる。手を伸ばして雑誌を引き寄せる。マリンレジャーの雑誌。半年前の号。以前、自分が持ち込んだものだ。
それから、更に1時間。
「何やってんだかな……」
雑誌を置いて起き上がり、立ち上がる。彼女は忙しい。会えなくても仕方がない。
ここにいても、仕方がない。
帰ろう、と玄関のドアに手を伸ばす。ドアは触れる前に開いた。
「あら、祐司。来てたの」
向こう側からドアを開けたこの家の主は驚きもしないで言う。
驚いたこっちは固まったまま動けない。
「帰るの?」
「あ……うん……」
「そう」
友香はこちらの横を通り抜けて靴を脱ぐ。持っていた花束がガサリと揺れた。赤と白のバラの花束。
「それ……」
「ん?」
「その花、誰から?」
「これ? 今日、花屋のCM撮影だったのよ。同じ事務所の子と一緒に」
そのうち流れるだろうけど、と友香は付け加える。気をつけとく、と答えた。
「忙しいんだな」
「そうね。ありがたいことだわ」
確かにありがたいことではあるが。
祐司は内心で息を吐く。
「じゃあ、帰る」
疲れて帰ってきたのだろうし長居するのも悪いので、潔くドアノブに手をかけた。
ちょっと待って、と友香の声。振り向くと目の前に差し出された一輪のバラ。
「あげるわ」
面食らったまま祐司は花を見つめた。
「わかってるの?」
「何が?」
「わかってないでしょ」
「何を?」
「受け取りなさい」
「花を贈るの、普通逆じゃね?」
「そう?」
悪戯っぽい目に促され、礼を言って手にする。
「大切にしてね」
彼女の声に送られて、白いバラを一輪持ったまま祐司は部屋を後にした。
出会ったのはバイト先だった。1年前。深夜のコンビニ。当時、自分は大学生2年で彼女は売れないモデル。
『どうして売れないわけ? 美人なのに』
2人でレジにいた。あまりにも暇だったから何となく聞いてみた。
『愛想悪いから』
言われてみれば確かに、客商売のこのバイトでも笑っている所を見ない。
『だったら辞めれば』
ついそう言った。
『それでも続けたいのよ』
返ってきたのは強硬論。
『続けてどうなるの』
返答は沈黙。
関係ない、と言って押し切るのだと思っていた。それなのに、意外な沈黙。
自動ドアが開いて客が1人入ってきた。
いらっしゃいませ、と声をあげる。
『夢を……追ってるとか?』
黙ったままの彼女にフォローのつもりで尋ねる。
『駄目なまま逃げるのが嫌なだけよ。ただの意地』
『そうなんだ』
『うん』
客を送り出し、また2人になった店内でそっと隣を伺う。
すっと立つその横顔はとても綺麗だった。だから。
『応援するよ。今にみんなが伊崎さんの良さに気づくって』
彼女は長いまつげを瞬かせた。無愛想なままで、それでも少し目元が優しくなって。
『祐司さん優しい人ね』
そう言った。
付き合いだしたのはそれからしばらくしてからだ。
「今にみんなが、友香の良さに……」
別の子のついでに受けたオーディションに合格し某携帯電話のCMに出演。以来、事務所の社長が頭を抱える愛想のなさは、誰にも媚びないクールビューティーに変身。あれよあれよと言う間に、化粧品やら清涼飲料やらのCMや広告に引っ張りだこの売れっ子さんだ。本業の仕事もそれに比例して増えた。
ほら、自分の言った通りになった。
「当然の結果ですよ」
電話が鳴らない。そのことを気にするようになったのはいつからだろう。
メールの返事が返ってこない。重要なメール以外はリアクションが遅い。彼女は元々そういうタイプの人間だと知っているはずなのに、それが気になり始めたのはいつからだろう。
「はあ……」
思いっきりため息をつく。自分の部屋だ。遠慮することはない。
あれから1ヵ月。会えない日が続いている。
今日は大学が休みでバイトも夜から。テレビはお昼のワイドショーを垂れ流す。どこぞやの俳優と元モデルの離婚話。IT社長とモデルの結婚話。
思考は自然、友香のもとへ飛んでしまう。
微妙な関係。そう思う。こっちは彼女のことを考えているのに、向こうはどうでもいいと思っている。そんな気がするここ最近。
忙しいのはわかるけど、もう少し構って欲しい。
昔は、もうちょっと……。
「いや、昔からこんなもんだけど……」
けれど、今、華やかな世界に彼女はいる。きっと自分では物足りなくなる。そんな日が来る。
首をゆっくり横に振る。やめよう。考えていても仕方がない。
「腹、へったな」
立ち上がってカップラーメンを取り出し、ヤカンを火にかける。程なくしてお湯が沸き、コンロの火を止めた。
テレビの声が耳に入ったのはその時だ。
『紅いバラをあなたに』
お湯を注ぎながらちらりと目をやる。映っているのは友香と同じ事務所の子。確か高校生で、名前を千影とかいった。
「あーこれが例の……?」
彼女から貰ったバラをちらりと見る。大切にして、と言われたそれはドライフラワーになって、今も空の花瓶で花を咲かせている。
カップラーメンにふたをして上に箸を置き重石代わりにする。テレビの前に座り友香の出番を待った。
降り注ぐ赤い花の中で千影が楽しそうにくるりとまわる。
花を両手いっぱいに抱え込み、ぱっとぶちまける。
白い服と白い空間に紅いバラはよく映えた。
座り込んだ千影は花束を作った。
後ろからのアングル。振り返った千影は嬉しそうに笑う。
ロゴが出た。祐司も知っている大手の花屋だ。
すっと、ロゴがフェイドアウトし、無邪気に笑った千影が紅いバラの花を差し出す。
『私を射止めて』
笑顔の千影とバラの花、そして、最後に出た花屋の名前が消え、次のCMが流れた。
「……なんじゃそりゃ」
よくわからなかった。
「友香、出てないじゃんか」
適当にチャンネルを変えると、また流れる同じCM。
今度も千影のみ。たださっきと違って最後に出たテロップに気がついた。
『バラ(紅)の花言葉:私を射止めて』
「ああ……そういうことか」
最後のテロップは花言葉に無縁なものへの配慮だろう。
「それで、『私を射止めて』、か」
出来上がったカップラーメンに、いただきますと手を合わせる。
ズルズルとそれをすすっていると、耳に馴染んだ声がした。
『白いバラをあなたに』
「ん?」
食べながら画面を見ると友香がいた。
赤い大きく襟ぐりの開いたドレスを着て赤い空間にすっと立つ。
片手には白いバラの花束。
一瞬一瞬の細切れの風景を映し出すように画面が変わる。
背中から首筋までの綺麗なライン。
伏せ目がちの表情。
すらりと伸びた長い足に綺麗な後ろ姿。
遠巻きの画面が近づいていく。
彼女は顔を上げる。瞬間、花束を突き出した。右、左、そして正面のアングル。
画面に浮き出た花屋のロゴ。それが消えると、友香の目に挑戦的な光が宿り低い声が響いた。
『私はあなたにふさわしい』
箸が手から転がり落ちた。
瞬きを繰り返す。視線は自然にバラの元へ。
『わかってるの?』
『受け取りなさい』
『大切にしてね』
頭の中に声がまわる。
視線を落とす。ゆるゆるとおかしさがこみ上げてきた。
カップラーメンをそのままに、バタリと後ろに倒れこむ。
目に入るのは煤けた天井。
「強気。さすが、友香さん」
手を伸ばして携帯を掴む。CMを見た。そう伝えるために。
「次は、こっちから」
白いバラを贈る、と伝えるために。
『覆面作家企画』さん投稿作品(テーマ:『花』) 2006/2/14サイト再録
美味しい珈琲を飲みます!