「何をしても味方でいてくれる人」が怖い


前回の続き(まあこれだけでも読めます)。

「他人に平気で『バカ』とか言う人」である私が感じる、「何をしても味方でいてくれる人」に感じる恐怖の話。

※ちなみに前回の記事も最後まで読んでもらえるとわかるのだが、他人に「バカ」と言うのは普通に良くないと思っている。この一連の記事では、コミュニケーションの在り方によって人間を二種類のタイプに分類しているが、どちらかを良いものとして扱い、どちらかを貶めることを目的にはしていない。

「何をしても味方でいてくれる人」と漠然と言われてもイメージが湧かないかもしれないので、過去の実例を一つ。

私は会社の上司と馬が合わず、悩んでいた。新人である私に対して、熱意を持って社会人としてのマナーを教え込もうとしてくれるのだが、ちょっとした言葉尻を捉えられては、「お前俺をナメてんの?」「ナメてるからそういう発言が出てくるんじゃないの?」等々と叱責される。
上長(その上司の上司に当たる人)から、「齟齬がないように、メールでやり取りをするようにしたら」と提案を受け、実際に試みても、「お前の文章は結局何が言いたいかわかららない」と電話がかかってくる。私は「すみません、書き直して送ります」と謝るのだが、如何せん熱い人なのでそこで止まらず、「大体さあ、こういうのは読む相手の気持ちを考えてないと~」とお説教が始まる。
私はすっかり疲れ果てて、毎日のように同僚と連れだって呑みに言っていた。

当然その場では、その上司の口で盛り上がる。
同僚たちは、私とは違う部署で、その上司のことは全く知らないのだが、「噂でもヤバイ人って聞いてる」「あなたが悪いわけじゃない」と慰めてくれた。

その内、元気付けるためなのか一人が、その上司の「悪い噂」について教えてくれた。
初めは、「以前にもパワハラで部下を潰したことがある」という関連性のある話題だったのが、いつの間にか、その人の過去の恋愛遍歴やスキャンダルについて話が逸れていった。
何だかそこで「いや、それは関係ないと思う」と言うのも空気が読めない人な気がしたので、笑って流したのだが、直接話したこともないのに「そんなことするなんて最低な人なんだね」と簡単に言えてしまうことが怖かった。

勿論、その同僚は私を慰めるために話を合わせてくれたところも大いにあるのだと思う。追い詰められた顔をして「でもあの人も悪気があるわけじゃないから……」とパワハラ上司を庇っている人を見たら私だってそうするだろう。

それでも私はそのまま流されて、いつの間にか無関係なことで人を詰ったり、「この人は何をしてもダメ」という俗人的な判断をするようになってしまうのが怖かった。

「何をしても味方でいてくれる人」は、裏返せば、「敵と認めた相手の話は耳にもいれようとしない人」だ。

先述の「他人に『バカ』とか平気で言う人」への対応は簡単だ。
「うるせえ!」と一言言い返してやればいい。あるいは無視。
喧嘩を売ってきたのは向こうなのだから、こちらが悪く見られることは基本的にない。

しかし「何をしても味方でいてくれる人」は厄介だ。
あくまで相手のスタンスは「味方」であり、同調してくれるのは「親切」というスタンスなので、「いえ、私はこの人に対してこういう意見ですが、あなたはあなた自身の目で判断し、行動してください……」のもなんだか無粋だ。
そうやって合わせている内に、個々人であったら決して踏み越えることなかった一線を踏み越えて、「敵」として認定した相手に極端な態度を取ってしまう集団の一部になってしまうことを私は恐れる。

繰り返しになるが、同調はあくまでその場のもの、本心からそう言っているわけではなく、「味方」に合わせてこき下した相手とケロッと笑顔で話しているという方が大多数だろう。

ただそうでないケースも確かに存在し、それがいわゆる「いじめ」に発展していく様も目撃したことがあるので、何となく居心地が悪く感じてしまう。

以上、前回から二つのタイプの集団におけるコミュニケーションの違いを述べてきたが、結局どちらの集団も、こき下ろすのが「身内」か「敵」かという差しかないのかもしれない。
敵を作らず、本当に「〇〇はいいよね」「〇〇って素敵ですね」という言葉だけでコミュニケーションが成り立っている集団も存在するのかもしれないが、結局裏返せば、「〇〇以外は良くない」という含意がそこには存在する。
「そんなことはない、〇〇も良いし、それ以外の全ても良いのだ」と反論を受けるかもしれないが、そう言った全肯定=他人を否定しないことを原則とする集団では、当然のことながら「他人を否定する人」は排斥される。

この記事もそう。
きっと「そうそう、ポジティブな言葉だけで生きている人間こそ暴力性に満ちているんだよな」という人の共感を集める一方で、ネガティブな言葉を控えて生きてきた人には疎外感を与えたりするのだろう。

最近ところどころで目にする「無思想が一番危険」という話を通ずるところがあるかもしれないが、とにかくどんな言葉でも、態度でも、他人を縛ることができる──できてしまうのだということを常々考えている、という話でした。

「縛る」という意思がなくても「縛られてしまう」ということはあり得る。
人間は本来的に暴力的で攻撃性の高い生き物であるということを常に頭の片隅において生きている方が、私は気楽だ。

ところで、「何をしても味方でいてくれる人」は怖いが、「何をしても見捨てないでいてくれる人」がいることはとても心強いと思う。

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君嶋復活祭
1本の記事を書くのに大体2000~5000円ほどの参考文献を購入しているので完全に赤字です。助けてください。