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夜更けの迷子とラジオの君

私はその夜、ひとり高速道路を走っていた。
仕事終わりに、実家暮らしの年上の彼氏を暖かそうな明かりの灯る玄関へと送り届けた帰りだった。早く自分の家に帰りたい。薄い壁の寒い部屋、私だけの天国。

音楽が好きという漠然とした理由だけで何かにしがみつくみたいに地方の小さなイベント関連会社に勤め始めたけれど、おおよそ会社とは呼べないようなグレーな環境に日々忙殺され、気づけば好きだったらしい音楽を楽しむ余裕など1ミリもなくなっていた。

今日怒られたこと、明日もきっと怒られること、低すぎる賃金のこと、それでも動き出せない自分のこと、ぐるぐる考えが巡り、何ひとつまとまらない。
カーオーディオにはもう何ヶ月も前から同じCDが入りっぱなしだ。

無性に誰かの話す声が聞きたくてラジオをつける。
明るくはきはきとしたパーソナリティとは対照的な、静かで淡々とした話し声が聞こえた。一言一言、噛み締めるように話すその人はクリープハイプというバンドの尾崎世界観という人らしい。不思議な名前。
車を走らせながら知らない人が話すのをただ聞いていた。

ふと、耳をつんざくような高音が聞こえた。
クリープハイプの曲だった。
さっきまで囁くような声で話していた人の、破裂しそうな歌声にバチっと頬を、いや、頭の中央をバシンと垂直に叩かれたみたいな衝撃を受けた。
感情的なギターの音色に、たっぷりの哀愁を含みながら矛盾したように疾走していくその曲は『ウワノソラ』といった。
音楽を聴いて心臓が跳ねる感覚はいつぶりだろうか。
久しぶりに、手を伸ばしてみたくもなった。
降りるはずだったICの手前で降りて、一般道へ潜り込む。
遅くまで営業している大きめのレンタルショップへ車を走らせた。
「邦楽ロック」とカテゴライズされた棚の中から覚えたての名前を探す。
「く」の欄の後ろの方に詰め込まれたわずかな枚数のCDを、頑なに目を合わせてくれない店員さんのもとへ持っていく。
財布の中にはまだ、有効期限内の会員カードがあった。

自宅の駐車場について、あれだけ帰りたかった部屋が目の前にあるのに、眠るだけの部屋に帰る気にはなぜだかなれなくてカーオーディオのCDを交換した。
クリープハイプというバンドの曲を改めて聞いてみる。
直接そう言っているわけではないけれど、「なんなんだよ」「悔しいよな」「ムカつくよな」「このままじゃ終われないよな」と鼓舞されるような感覚と、自分の内面の浅ましく愚かなのをすべて見透かされているような恥ずかしさがあった。
バンドってやっぱりカッコいいな。
あー 今の私って、めちゃくちゃカッコ悪いな。

後日、車の中でアルバム『待ちくたびれて朝がくる』を流していると後部座席で携帯をいじっていた彼が身を乗り出してきて言った。
「あれ、ボーカル急に変わった?」「ベースの人も歌うんだってさ。」「へえ、面白いね。俺この曲好きだな。」
普段はダンスミュージックやサントラしか聞かないのに、私が好きなものには興味を持ってくれた『グレーマンのせいにする』を気に入ったという彼の、そういうところは好きだった。
それからしばらくして、案外あっさりと因縁の職場を辞めた。
彼とはそれ以上にあっさりとお別れした。
なんなら車も手放した。

失っていた時間を補完するみたいに、友人とフェスに行ったり、CDショップに通ったり、本を読んだり、少しずつ心に余裕を取り戻す日々。好きな音楽もまた、取り戻したり増えていったりした。
満を持して初めてクリープハイプのライブに行ったのは2014年4月17日の武道館公演2日目。『〜有給休暇の使い道、これが私の生きる道〜』と冠された公演に、有給休暇を使って行くことができた。
メッセージ性の強すぎるタオルを首に巻いて挑んだ、実際多くのメッセージが詰まったあの日のライブのことはどうしたって忘れられない。今までCDでしか聞いたことのなかった曲を生で聴けた感動はもちろん、あの日鳴っていた『寝癖』という新曲は暗い夜を切り裂くみたいに切実で、心をさらにぐんと持って行かれた。
次の日の姉との浅草観光はたぶんずっと上の空だった。

月日は流れ、それから生活がどんなに変わっても歳をとっても趣味が変わっても、クリープハイプとの関係性は大きくは変わらなかった。
彼らは比較的コンスタントにリリースを続けてくれて、ライブをしてくれて、こちらはそれを受け取る、聞きに行く、健全で良好な関係。
「あのバンド、なんか変わっちゃったね。」なんて嘆きを含んだセリフを耳にすることは多々あるしきっと私も言ってしまったことはあるが、ことクリープハイプに関しては「あのバンド、進化しちゃったね。」である。
彼らが新譜を出す度、まだこんなアプローチもあったのかと驚かされるからだ。どこにそんな隙間があったのだろうというところに引き出しが増設されていく。だから彼らの動向を追うのは単純に楽しい。
そしてたとえ新しいジャンルに挑んでも、4人が奏でると独特の哀愁を纏ったクリープハイプの曲として完成してしまうのだから、バンドは本当に面白い。

ライブでは、過去と現在とが明確に地続きであることを体現するみたいに、最新曲と織り交ぜて昔の曲も演奏してくれる。過去にリリースした楽曲が懐メロのようになってただ色褪せてしまうということがないのもひとつ、彼らの凄みだろう。

仕事に行くのが憂鬱なときには『身も蓋もない水槽』を聞いてしまうし、昔を思い出してやるせないときには『傷つける』を聞いてしまうし、ある人のことを思い出さずにいられないときには『エロ』を聞いてしまうし、背筋を伸ばしたい時には『二十九、三十』を聞いてしまうし、ちょうどよく酔った帰り道には『5%』を聞いてしまうし、新たなスタートを切るタイミングでは『栞』を聞いてしまうし、良い映画を見たあとには『ナイトオンザプラネット』を聞いてしまう。

こんな風に、今も昔も関係なく彼らの楽曲はすっかり日常に溶け込んでいる。
これが、あの夜の出会い以降、いまに至るまでに築かれ保たれている私とクリープハイプのリアルな丁度良い距離感である。
彼らの楽曲は側にあってくれる、彼ら自身は届かない距離にいてくれる、何歩も先にいてくれる。悔しくて私はまだ頑張れる。

彼らの楽曲の中から一言だけ借りるとするならば、
”死ぬまで一生”
よりも個人的には、
“付かず離れずでこれからも” 。


高速道路の一本道で迷子になっていた私を、導いてくれてありがとう。


#だからそれはクリープハイプ

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