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大切なのは、台詞がないときの芝居


サッカーのオフザボール

 サッカーの「オフザボール」という考え方をご存じだろうか。
 なんでも、試合中における「ボールを持っていない状態」をそう呼ぶそうだ。

 サッカーにおいてひとりあたりの選手がボールをキープしている時間はとても短いらしい。各チーム11人、2チームで戦う中でボールはひとつしかないのだから、それもそうか。ポジションにもよるだろうがどうやら1試合中、1分から3分ほどしかボールには触らないとか。
 しれっと書いているが私がこれを知ったのは三日ほど前。サッカーにはまったく明るくない。しかしこれを知ってまもなく、サッカーと芝居を重ね合わせた。
 オフザボールの考え方は最終的にこのような提案に着地する。
「試合でボールを持てる時間はとても短い、だから、ボールを持っていない時間どのようにプレーするかが肝心だ」と。

 サッカーにとってのボール。それは演劇にとっての台詞に、とても良く似ているなと思った。

芝居のオフザセリフ

 サッカーのオフザボールを、具体的に演劇に当てはめてみる。

 仮に上演時間90分の芝居で、出演者が10人だとする。
 現実の演劇であればほぼありえないことだが、仮に90分ずっと喋るとして、かつひとりあたりの喋る時間がぴったり同じだとする。そうするとひとりあたりが台詞を言う時間は9分。90分の作品の中で、自分が台詞を持てるのは9分ぽっちと言うことだ。
 しかし演劇には、台詞がないシーンがあって、シーン転換があって、暗転している時間もあって、主演に多くの台詞が割り当てられたりもして。なんなら10人以上出演者がいることもザラで。
 そうなると、この9分という時間はもっと短くなるだろう。

 ボールを持っていないときのプレイが肝心。それと同じように。
 演劇の台詞を喋っていないときの時間だって、きっと同じくらい重要だろう。

台詞以外が(も)肝心

 台詞の演技はとても重要。大前提だ。しかし同じくらい、台詞を話していないときの演技も重要だ。なんなら個人的には、台詞以外のほうが何倍も注意深く取り組む必要があると日々痛感している。
 なぜかと言うと、台詞は放っておいても自然に大事にされるから。でもそこで、

  • この台詞はどんな気持ちで言おうか

  • どんな言い方にしようか

  • この台詞を言うのにふさわしい役作りはどんなものか

 これ「だけ」に終始してしまうのは非常に危ない。台詞を話しているとき以外の演技が考慮されていないからだ。そうするとどういう演技になるかと言うとですね……。
 自分の台詞の手前でぐいっと目立つところに出てきてですね、考えた通りに台詞を言ってね、言い終わった後はすすーっと下がってしまってね、存在感が小さくなってしまう……、そういう演技が出来上がります。ただ、そんなに珍しくないんですよ、そういうの。
 そうやって作られた芝居は、確かに台詞回しは美しい。
 でも、それ以上でも以下でもなくて、目を閉じて聞いてもある意味良さが変わらない。台詞が順繰りに回されて、発話者が変わるたびに演技の連環がプチプチと途切れていく。
 
 自分も脚本を書く人間なので、台詞を大切にしてほしい気持ちはすごくある。でも、台詞の奴隷になってほしいわけではない。
 台詞は、あくまで演技の中の一要素。それ以外の要素が芝居にはたくさんある。それが私の考えだ。

台詞以外の要素ってなんだろう。

 それはたとえば、時間。このシーンは何時ごろだろう? 朝、昼、夜、深夜? 
 あるいは、場所。喫茶店? それとも自分の部屋? 相手の家? 野外?
 季節はどうだろう、国は何処だろう、気温はどのくらい? 直前に何があった? 登場人物が今ここにいる目的は?
 これらは、台詞やト書きに書いてあることもあれば、ないこともある。
 しかしたとえ脚本に書かれていなくても、これらの事象は大抵の場合存在する。

 私は自分が演者をするときにも、演出をするときにも、これらの情報を一旦想像してみることにしている。もちろん、脚本に明示されていない以上、正解はない。
 台詞だけの演技でこれらを表現するのは難しいので、自然、台詞がない時の演技に搭載していくことが多い。これが少しでも演技の厚みになればと信じている。
 つまり、感情より先に、状況が先立つべきだと信じているのだ。
 色んな考え方があるのだから、これが私の宗教だというだけの話だけど。
 
 普段生活していて、感情だけで生きている人っていないはずだ。
「ありがとう」と言うとき、猛暑と極寒では言い方が変わると思う。それは感謝度とは関係がない。悲しくて泣くとき、ひとりきりのカラオケボックスと、壁の薄いアパートでは声の大きさが変わるんじゃないだろうか。それは悲しみの深さとは関係がない。
 台詞は大切。感情はとても大切。しかし同様に、感情だけで生きている人はいない。
 状況や立場や建前やら。数々の矛盾の中で生きているのだ。

 そんな、オフザ芝居のおはなし。

 来月、演劇の公演をします。劇場観劇と配信視聴がございます。
 もしよろしければよってらっしゃいみてらっしゃい。

獣の仕業 The Out of Beast 2023
「改作・日本文學」

文豪たちの古き良き作品を選りすぐり、我々烏滸がましくも少々手を加え、 仕立てましたは輝かしい名作の影のごとき四つの短編たち。
名付けて「改作・日本文學」

残暑の季節にお誂え向きな、仄暗く香り立つ文學オムニバス。

日時:

2023年9月15日(金)~9月17日(日)

9/15(金) 20:00
9/16(土) 14:00/17:00/20:00
9/17(日) 14:00/17:00※

  • 上演時間:約70分

  • 受付開始・開場は開演30分前

  • ※9/17(日)17:00回:生配信+配信アーカイブ収録回

【劇場での観劇予約(1ドリンク付き)】

劇場チケット:2,500円
劇場+紙脚本付チケット:3,000円

  • チケット予約開始:7/28(金)20:00

  • 前売・当日同料金

  • 本公演二回目以降のご観劇から1,000円引き※要予約

  • 未就学児童入場不可

【配信での観劇購入(生配信+アーカイブ視聴)】

配信チケット:2,300円
配信+脚本データ付チケット:2,800円

  • 販売期間:7/28(金)20:00~10/16(月)23:59

  • 配信期間:9/17(日)17:00~10/17(火)23:59

  • 応援キャスト指定でのご予約をご希望の方は「備考」欄へのご記入をお願いいたします

演目紹介

脚色・演出:立夏

「待つ」

作:小林龍二 原作:太宰治
出演:手塚優希 雑賀玲衣

その小さい駅。省線の改札口で女は、待つ。
初出1942年6月。戦争が始まった半年後、太宰治はこの「待つ」を世に出した。
これは「女」の独白だが、二人芝居でもあり役者二人が演じる独白でもある。
─いったい、わたしは、誰を待っているのだろう─

「ごんぎつね」

作:きえる 原作:新美南吉
出演:きえる 小林龍二

「おやすみなさい、お月さん」
月に語りかけるひとりぼっちのこぎつね、ごんと、母を亡くしひとりぼっちになった男、兵十。
ごんの無邪気ないたずらからはじまる、一人と一匹の物語。

「藪の中×歯車」

作:雑賀玲衣 原作:芥川龍之介
出演:小林龍二 手塚優希 雑賀玲衣

雨の降る夏の夜、作家Aはタクシーに乗る。運転手はふいに、一年前に石神井公園で起きたある殺人事件のことを口にする。ポツリポツリと……。
「目撃者は何人もいるのに、証言が不思議と食い違う」
そうして運転手は、事件の夜に乗せたというひとりの男の話を語り出した。

「約束」

作:立夏 原作:夢野久作 演出補佐:小林龍二
出演:立夏

ある人は、橋の下で待っていた。
「日暮れ前にこの橋の下で会おう」と約束をしたからだ。
しかし日は暮れ、小さく雨まで降りだした。それでもその人は橋の下から動こうとしない。
約束をしたのだ。約束は、果たされなければならないから……。

会場

レンタルスペース+カフェ「兎亭」
練馬区旭丘1-46-12エイケツビルB1

  • 西武池袋線「江古田」駅より徒歩7分

  • 都営大江戸線「新江古田」駅より徒歩13分

  • 駐車・駐輪はできません。駐車は近くのコインパーキングへ、駐輪は江古田駅近くの公営駐輪場へ(地図参照)お願いいたします

レンタルスペース+カフェ「兎亭」MAP

スタッフ

  • 舞台監督:小林龍二

  • 照明プランニング:手塚優希

  • 音響プランニング:立夏

  • 撮影・配信:U-3

  • 衣装スタイリング:きえる

  • 写真撮影:加藤春日

  • 制作:手塚優希


 


 

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