やり場のないモノローグ
「出身どこ?」
「…福島県の郡山市ってとこ。一応新幹線通ってるから、東北行くことあったら通過すると思うよ。」
日常の中の、何気ないやりとり。でも、一瞬だけ歯に被せ物をしたような感覚になる会話。
別に嘘なんかついてない。紛れもなく僕はそこに住んでいたし、柏屋の薄皮饅頭が定期的に食べたくなるし、冷やし中華にはマヨネーズをかける。
でも、そこにはもう実家はないし、幼馴染と呼べる存在はいない。
幸いなのは、妻が同じ高校の同級生で、義実家は郡山にあること。おかげで僕は年末年始も擬似的に「福島県出身」で居続けることができる。
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8年半住んだ東京都杉並区から、埼玉県に引っ越した。初めての土地だが、「大宮に出れば全て揃い、ちょっと外れれば地方になる」というちょうど良さが気に入った。
心の中で「東京を離れて暮らしたい」と思いつつ、やはり退去の時には物寂しくなって、涙がひと筋流れたのはやはりこの土地に愛着が湧いたからなのだろうか。
妻とまだ付き合って数年の頃、数日かけて東京旅行に来たことがある。途中、人混みに苦しくなって、思わずうずくまってしまった。
今でも人混みは好きではないが、ジェット気流に乗る渡り鳥のように、何の気なしに流れに身を任せて地下鉄を乗り換えることができる。
考えてみれば郡山市に住んだのは7年間だけだった。東京にいる時間の方が長い。それに今はどういうわけか実家は文京区にあり、知人も東京にいる人間がほとんど。
自分は東京の人間になってしまったんだろうか、と平坦なイントネーションで呟く。
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偶然、母のSNSアカウントを見つけてしまったことがあった。プロフィール欄には「前世はジプシー?」の一言。そうか、母もまた父の転勤に振り回された人物の1人だ。
子供にとって親が転勤族であることはなかなかハードだと思ってきたが、大人は大人で相当大変なのではないだろうか。
子供には「学校」という半ば強制的に所属するコミュニティがあるが、親にはない。マンション住まいで「同じ屋根の下に住む人同士」から関係を作れたのはラッキーだっただろうが、それ以外で母の友達といえば息子の友達のママ友くらいだったのではないだろうか。
中学生くらいの頃、母が地元の友達に宛てたであろう書きかけの手紙を偶然読んでしまったことがある。「最近はしんどいことが多くて苦しくなってしまうけれど」という文が見えて、ああこれは読むべきでないやつだ、と目を逸らした。
子供の頃、「友達に会えない」という理由で土日が好きではなかったが、どこか母の機嫌を伺いながら過ごしていたからなのかもしれない。
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工事現場や地下道を通ったとき、たまに「あ、ドイツの臭いだ」と思うことがある。それが何の臭いなのかはわからないが、「匂い」ではなく「臭い」であるのだけは確かだ。
9ヶ月だけ住んでいたのは、ベルリンの壁崩壊から5〜6年足らずのベルリン市。思い出すのは、砂場で遊んでいた時、お気に入りだったダンプカーのおもちゃを現地の子供にひったくられ、「返して!返して!」と泣きながら追いかける記憶。あの後、彼はダンプカーを返してくれたのだろうか。
何を思ったかエスカレーターを降りる瞬間に思い切りジャンプして、地面とステップの間に尻もちをつき、尻にバーコードのような切り傷を作ったこともあった。Googleマップもない、言葉の通じない土地で母はどのように病院に連れて行ってくれたのだろうか。
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海外に行ってみたい、とは思う。でも、ただただ、怖い。
社会人4年目、仕事にも慣れが出て、趣味の延長で副業まがいのことをやっていた僕は圧倒的中途半端人間だった。
なんとなく仕事を片付け、なんとなく副業まがい仲間と打ち合わせをし、いかにも「そういう人」かのようにSNSで発信する日々。
そんな僕のことをお見通しだったのか、友人のKさんから「宮島くん、インドでも行けば?」と言われる。
Kさんは就活時代にお世話になった人事の方で、せっかくいただいた内定を辞退したにもかかわらず、今でも時々人生相談に乗ってくれる。
なぜインド?辛いものでも食べろと?
勧められたわけは、インドにある「死を待つ人々の家」でボランティアでもしてきなよ、とのことだった。
そこはかのマザー・テレサが設立した、貧困や病気で最期を迎えようとする人のための施設だという。
幸いなことに、それまでの僕は「死」を身近に感じることはなかった。だからこそそのような施設に行くことには抵抗があったし、そもそもインドに行ったらお腹を壊して病院のお世話になる未来しか見えなかった。
それでも変な意地からか、Kさんにご馳走になっているからなのか、言ってしまった。
「わかりました、すごく行きたくないですが、行ってみようと思います!」
それから数週間、自分の発したハリボテの約束に苦しめられることになる。
朝起きたとき。仕事中。鼻歌を歌いながら。いつでも頭の片隅には「インドに行かねばならない」という思いが、剥がしきれなかったガムテープのようにへばりつく。
でも、飛行機のチケットを取ることも、ホテルを調べることも、何もできなかった。ただただ、怖い。
自分で言ったからにはやらねばならない。身から出た錆はやがて全身を侵食し、ついには変なプライドごと崩れていった。
「Kさん、ごめんなさい。インドに行くと言いましたが、怖くて行く気になれませんでした。(中略)情けないですが、これが今の僕なんだと思います。」
Kさんからは、何杯もごはんをたいらげてもう食えない、と言いたげな謎のスタンプが送られてきた。
今でも、ただただ海外は怖い。
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物心がついてから父の海外赴任が決まったのは中学生の頃。さすがに一家全員ついて行くとはならず、僕と母と弟は日本に残った。
父が帰国したのは高校生になってからで、それまでは半年に一度程度しか家に帰ることがなかった。
思い返してみれば、父と2人きりでじっくり話をしたのは大学3年生が最後かもしれない。
当時父は千葉県で単身赴任しており、就職活動で東京に行く際にたびたび泊まらせてもらっていた。
どういった経緯かは忘れたが父が居酒屋に連れて行ってくれた日があった。「成長した親子と一杯やる」という、何ともエモいワンシーンであるが、僕はどんな話をしたらいいかわからず、母の昔の話や弟の話で場をしのいだ。
白子を食べたのはこの時が初めてで、白子を食べるとこの夜を思い出す。
お互いを理解し合えている相手との会話は尽きないが、逆もまた然り。僕は父のことをあまりわかっていなかったんだと思う。
大人になってわかったのは、完璧のように見える父も案外不器用だったということ。
いつか自分自身が父親になる時、成長した我が子の目に自分はどう映るのだろうか。
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話したいのに何を話したらいいかわからない、という経験がもう一つある。
郡山に引っ越してきて間もない頃、その前に住んでいた兵庫県西宮市の友人が電話をくれたことがあった。
お互い久しぶりに話せたことは嬉しかったが、だんだんと口数も減っていき、「話すこと、ないな」という友達の一言で電話は終わった。
友人関係って何なのだろう。どこからが「知り合い」でどこからが「友達」なのか。どのラインを越えると「親友」になるのか。片方が「知り合い」と思っていて、もう片方が「友達」と思っている関係は何と呼んだらいいのか。
何度となく、「親友」だと思っていた人に突然距離を置かれたり避けられたりすることがある。
原因は今もわからない。だから、だんだんと人と関係性を深めることが怖くなっていった。
しかし皮肉なことに、ひょんなことで急に仲が深まった人にはズカズカと距離を詰めてしまうきらいがある。
だから、頻繁に連絡しすぎたり、うっかり相手に配慮しない言葉を口にしてしまったりして、自覚のないままに相手を傷つけてきたのかもしれない。
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30代になった今でも、人間関係を扱うのが下手くそだ。
年下相手は特にそうで、どのタイミングで敬称や敬語を外していいかがわからない。
漫画やドラマの主人公のように、「○○って呼んでいい?俺のことは○○でいいからさ」と言えたらどんなに楽だろうか。
「もう結構親しいだろうから、そろそろ呼び捨てでもいいのではないでしょうか」「しかし、『こいついきなり呼び捨てにしてきたな』とか思われるリスクはまだあります」「ふむ…頭の中では呼び捨てにしていますが、いったん敬称つけておくのが無難そうですね」
脳内の小さな自分が、日々そんな会議を繰り広げ、一定の決意を持って相手の「呼び方」を選択する。
いつからこんな固い考えになったのかはわからないが、そもそもの原因として、「どんなに仲のいい相手だろうといつか嫌われてしまうのではないだろうか」という思い込みがある。
どんなにいい人間関係を築けても、転居によってリセットされてしまう経験が、ずっと尾を引いている。
だからこそ、常に独りよがりの孤独感を持っていて、自分と何かを分かち合える、通じ合える人に情を向けすぎてしまう。その人のためなら、自分を犠牲にしてでも力になろうとしてしまう。
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30歳を超えてからひしひしと感じ、それが確信にかわったことがある。
自分は自分が思っているよりもずっと「無力」であるということだ。
28歳、2回目の転職で、未経験からキャリアアドバイザーになった。きっかけは様々だったが、その1年前に大学時代の友人が亡くなったことは大きかったと思う。
ファーストキャリアで選んだ仕事で、大変だが楽しくやっているだろうな、としか思っていない中での突然の訃報。
そこまで特別な仲ではなかったにせよ、何か彼のためにできたんじゃないか、と思わずにはいられなかった。手遅れでも、それを知りたかった。
そして3年がむしゃらにやってみてわかった、自分の無力さ。「キャリアアドバイザー」なんてものにはほど遠く、仕事で繋がった人はおろか友人のキャリア相談にもまともに力になれやしない。
できることは、その人の痛みをできる限り理解し、ただその人を見守るだけ。求められてもいないのに自分の意見をずけずけと語るのは傲慢だ。「求めよ、さらば与えられん」と言うではないか。
それでも、目の前の人にとって、少しでも「自分の痛みを分かち合ってくれる人」だと思ってほしい。だから分かち合えるだけの余裕と強さがほしい。
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相手が与えてくれたことに、時が経ってから気づくことがある。
社会人2年目のときに上司だったMさんは、頭が切れる一方で気さくさも併せ持った、関西出身のおじさんだった。
そんなMさんからある日突然、「なあなあ宮島くん、歌ってどうやったら上手くなるん?」と声をかけられた。
大学でアカペラをやっていたことは話していたが、そこに興味を持ってくれる同僚はほとんどいなかったため、職場で音楽、ましてや歌唱技術について話すなど初めてのことだった。
「マニアックな話なのであまり伝わらないと思いますけど」と前置きした上で、声はこんな仕組みで出ていて、だからこういったトレーニングをしたらいいんじゃないですかね、とふわっとアドバイスをした。
それからというもの、思い出したようにMさんは僕に歌のアドバイスを求めてきた。それどころが、僕も知らないような専門的な知識まで調べている様子だった。
戸惑い半分だったが、自分が興味を持つことに、同じように興味を持ってくれている人が身近にいるのは嬉しかった。
その会社を離れて4年。
Mさんが"歌に興味を持った"のは気まぐれでなく、「職場で燻っている部下への愛」だったことに気づくのは、僕が当時のMさんと同じ年齢になる頃だった。
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子どもの頃、文章を書くのが嫌いだった。折に触れて祖父母に送る手紙はもちろんのこと、夏休みの読書感想文は本当に地獄だった。
とにかく、どう書いたらいいのかがわからない。
我ながら感受性は豊かな方だったと記憶している。本を読んでいると情景や映像、登場人物の声が浮かぶ。周りの大人がする思い出話でも、ついつい勝手に想像を膨らませ、感情移入していた。
だから病気や怪我や戦争などの話の類は本当に苦手だった。胸がしめつけられ、頭がくらくらする感覚。図工の授業中に先生が話した、ノコギリで誤って指を切ってしまった生徒のエピソードを聞いた時には、耐えきれずに泣き出してしまい恥をかいた。
いつも、頭の中には何かが渦巻いていた。そしてそれを整理する術を、当時の僕は持ち合わせていなかった。
表現したい思いはある。でもどう言葉にしたらいいかわからない。書けない。目の前に広がるのは白紙が4枚、傍で見守る母親、氷の溶けた麦茶、エアコンの音。
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幸いにも本を読むこと自体は好きだったため、自分の中に渦巻くものを代弁してくれる著者や思想家の存在に救われた。
僕の人生観を構成するものの一つ、ニーチェの「積極的ニヒリズム」という考え方に出会ったのは高校生のとき。
クラスで孤立し、部活でもいづらさを感じ、成績も上がらない。「何のために勉強して高校に入ったんだろうか、人生って何なんだろうか」と悲嘆に暮れる自分を、優しく絶望に突き落として救ってくれた、異国の変人の言葉。
言葉にすることで、心ではなく頭で受け止められる。頭で受け止められれば、耐え忍ぶことができる。だから、言葉にできないこと、言葉にならないものは怖い。
自分はどこ出身の人間なのか。周りからどのように見られているのか。あの人と自分はどういう関係性なのか。死んだあとはどこに行くのか。
この文章を読んでいるあなたは今、何を思い
、どう感じているのか。
言葉にはならないから、自分で勝手に言葉を当てはめ、カテゴライズし、レッテルを貼り、安心する。
結果、相手が本当に発している言葉に耳を傾けることが下手くそな人間になった。
だから最近、「言葉にならなくてもいい、曖昧なものは曖昧で、感覚はそのまま感覚でいい」という考えに出会えたことは、自分にとって大きな意味を持つことになるのだと思う。
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