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急激な変化から半年経って、「純粋な希望から生まれたコンテンツ」が欲しくなってきた話。

働き方、遊び方、生き方が大きく変わってから半年。

ふと、「飽きてきたかもしれない」と気づいた。

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「お店で飲めないので、Zoom飲みをやりました」
「対面で会えないので、オンラインでセッションしました」
「会場に人を入れられないので、配信形式で無観客ライブをやります」

そういった営みの裏には、困難な状況を打開して人々の笑顔を守りたい、という思いがあるだろうから、否定するつもりは全くない。

むしろ、「テクノロジーの力をもってすれば、人間はどんな状況にも適応できる」ということの事例として、讃えられるべきだと思う。

(ついでに言うと、先日観た吉澤嘉代子の配信ライブが最高だった。)

でもやっぱり、どこか違和感が残る。

あまりにも、「〇〇ない」というネガティブな文脈で生まれたコンテンツが多すぎやしないだろうか。

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思い返してみれば、ビデオチャットツールを用いた飲み会や、オンラインセッションや、配信ライブなどは前から存在していた。

それらは、「〇〇ないからやろう」ではなく、純粋に「その形式ならではの楽しみ方」があり、そこに魅力を感じる人々がいるから、行われていたんじゃないだろうか。

それが、今では「〇〇ないから」というネガティブな枕詞なしには語られなくなっている。

その営みをするたびに、不都合な今の状況に目を向けざるを得なくなっている。

そんなコンテンツに囲まれて半年。

もっと、純粋な希望に満ちたコンテンツがあってもいいんじゃないか。

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僕の大好きなMr.Childrenの曲に、「かぞえうた」というものがある。

ご存知の方もいるかもしれないが、東日本大震災の際に制作されたチャリティーソングだ。

noteを書きながら、この曲の一節を思い出した。

たとえるなら
ねぇ なんにたとえよう
こえもないかなしみなら
ひとつふたつ
もうひとつと わすれて
また ふりだしからはじめる
きぼうのうた

出典:Kazutoshi Sakurai『かぞえうた』

この曲と出会って9年以上、作詞者であるボーカル・桜井さんがなぜ「わすれて」という言葉を使ったのかが分からなかった。

でも今なら、その意味がわかる気がする。

絶望にばかり目を向けていては、希望は生まれない。
絶望から得た教訓や、失った大切なものは忘れてはいけないけど、たまには辛い今を忘れて、フラットな目線で振り出しから考えてみる。
そうして初めて、「きぼうのうた」を見つけることができる。

桜井さんは、きっとそんなことが伝えたかったんじゃないだろうか。

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いつになればもとの生活に戻れるのか、誰も知らない。

いや、もしかしたらもう戻ることはできないのかもしれない。

「〇〇ないから」で始まるコンテンツは、創るのにも消費するのにもある程度のエネルギーがいる。

だから、もしそういったコンテンツに疲れてしまったときは、あえて現実から目を背けてみるのもいいのかもしれない。

その先に、純粋に希望から生まれた、希望に満ちたコンテンツがあるのだと思う。

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