「苦手なもの」草子

乗り換え

が苦手だ。特に帰りの電車。一日の疲れや、友人との楽しいひと時に思いを馳せているうちに、気づけば反対方向に進んでいる。

だいたいなんで、二十何番線まであるような大きな駅なのに、一つのホームに別々の路線が交互に停まるのだろう。埼玉の新居から出勤する初日、渋谷へ向かうはずが上野に到着し絶望した。

Amazonのプライムデー

が苦手だ。あまり物欲が強い方ではないため、「安いから買う」よりも「必要に迫られているから買う」ことの方が圧倒的に多い。

なのにプライムデーだけは、「何か買わないと損」という気持ちにさせられる。だから無理やり欲しいものを探す。でも見つからなくて、なんだか自分はつまらない人間なんじゃないか、と思ってしまう。

そのくせ、観光地のお土産屋さんやライブ会場の物販では息をするように財布の紐を緩めてしまう。

予期せぬ場所で知人に鉢合わせする

のが苦手だ。向こうに先に気づかれたときには腹を括るが、こちらが先に気づいた時にはついつい気づかれぬよう逃げてしまう。

別にその人のことが嫌いとかじゃない。ただ、今日はその人に会うと思って来たわけではないのだ。だから会う必要がない、それだけ。

不動産や銀行、行政手続きの類

が苦手だ。百歩譲って難しい言葉をたくさん読まされるのはいいとしても、なんでそれを担当者が見守る前で読まねばならないのだろうか。

「誰かを待たせている」プレッシャーのもとではあんなの絶対に頭に入らない。頼むからその時間だけ、ゆっくりお茶でも飲むなりしていてほしい。

極めつけは、何度も書かされる自分の名前。僕のフルネームは四十四画、面倒臭いったらありゃしない。

泣いている子供を見ること

が苦手だ。ついつい自分が泣いた時の思い出が甦り、こちらまで悲しくなる。

恥ずかしいことに、昔は人前でよく泣く子どもだった。一番古い泣いた記憶は幼稚園の年少時の運動会。ビニール紐を何本も束ねて作ったフリフリを腰に巻いて、音楽に合わせてダンスを披露する予定だったのだが、とにかく人前で踊るのが嫌で泣いていた。

幸い心優しい友達が「ほらみて、蛇みたいだよ」とビニール紐を振って気を紛らわせてくれた。その後のことは覚えていない。

見た目のいい人

が苦手だ。だからアイドルも嫌いだった。いや、わかっている。その人に罪はないし、自分を磨こうと日々努力する姿勢は尊敬に値する。でもそういった人を前にしたとき、自分の見た目を蔑まれているような惨めな気持ちになるのはなぜだろう。

生っ白い肌。少し垂れた目。丸い鼻。でしゃばりな前歯、鋭い八重歯。

昔から自分の見た目が好きではない。写真を撮るときは口を閉じて必死に口角を上げていた。初めて眼鏡をかけた日、想像以上に母親に似ているのが嫌で泣いた。髪をセットすることさえ、「見た目を気にしている」行為の表れであるから抵抗があった。

でも、ここ数年になって少しずつ自分の見た目への抵抗感がなくなってきた。キャリアアドバイザーとして不特定多数の人前に顔を晒すようになり、思い切って前髪を上げてみた。デコが広いのもあまり好きではなかったが、堂々として見えた。

ふと思い立って、パーマをかけてみた。思いの外、周りからは好評だった。スタイリング剤を色々試すことが楽しくなった。

ある日、2週間連続で自分が金髪になる夢を見た。これはそういうお告げなのかもしれない、と思い初めて髪を染めた。前の自分よりも優しく、気さくに見えた。

髪色に合わせて、眼鏡も新調した。少し自分が垢抜けて見えた。もっといろいろ試したいという欲が湧き、メイクにも手を出し始めた。言われなければわからない程度だが、「少しでも綺麗な自分でいる」ことは自信になった。

「自分の為にしてるだけ」だと
「誰かの気を引きたいわけじゃない」と

Mr.Children『横断歩道を渡る人たち』

小学2年生のときの担任の先生

が苦手だ。40代前半くらいで、少し化粧は濃いが第一印象は優しく包容力のありそうな女性の先生だった。

その先生に不信感をもった出来事だけは鮮明に思い出せる。

当時僕にはAくんという親友がいた。仲良くなったきっかけはあまり覚えていないが、クラスが同じで、たしか帰り道も一緒の方向だったのかもしれない。よく彼の家にお邪魔して、2人でゲームをして遊んだ。あまり有名なゲームではなかったが、武装した車同士でお互いの車を壊し合う、なんとも物騒なゲームだった。

ある日の朝の会。Aくんが担任に呼ばれ、ひとり前に立たされた。

そして担任はこう続けた。

「Aくんに嫌なあだ名をつけてからかう人がいるそうです。そういったことはやめましょう。Aくんも悲しんでます。Aくん、なんて呼ばれるのが嫌なのか教えてちょうだい。」

「…○○○○○。」

Aくんがぼそっと、彼の苗字をもじった動物の名前を口にした。

その時の彼の表情、静まり返った教室、なんでこんな仕打ちをするのかとざわざわする心の感触。

その後も、クラスでたびたびいじめまがいのことが起こり、だんだんと「自分が標的になるのではないか」と不安が募る毎日。

学校に行きたくなくて、親に「お腹が痛い」と嘘をついて、1時間目の授業を休んだことがあった。

2時間目の途中、「いや〜ごめんなさい、お腹いたくなっちゃって〜ハハハ」と必要以上に明るく振る舞い、バタバタと自分の席についた。

その日の休み時間、担任に呼び出される僕。担任に「今のクラスの雰囲気が嫌なんです」と話した。そんな僕に担任が言ったのは、

「がまんしなさい」

という一言。

その先生の顔も名前も、今はもう覚えていない。

大切な人が笑顔でいてくれないこと

が苦手だ。

自分の目の前にいるその時だけでもいいから、少しでも幸せでいてほしい。だからその人の悩みを知って、ともに原因を究明し、策を講じたい。

裏を返すと、自分が関わりようのない範囲での愚痴やぼやきはできる限り聞きたくない。

そう、これは、優しさの皮を被ったエゴの押し付けだ。

自分の無力さを直視したくない、というプライドの表れにすぎない。

いつになったら、純粋にその人の幸せを願い、本人が問題を解決できることを静かに見守る、本当の優しさを手にすることができるのだろうか。

自分の思いを、人に伝えること

が苦手だ。

憧れ、尊敬、感謝、好意。

ポジティブな思いほど、伝えることは難しい。それを伝える気恥ずかしさもあれば、受け取ってもらえないかもしれないという恐れもある。

そして、過剰に受け取られてしまい、それが相手の負担になることはもっと怖い。

とにかく、人に迷惑をかけたくない。人の重荷になりたくない。でも、人と関わりたいし、その人にとっての特別でありたい。

「ヤマアラシのジレンマ」を、一人でずっと抱えている。

自分を自分で認めること

が苦手だ。

どこか「自分はできるやつだ」と常に思っていて、現実との差分に苦しめられる。

周りが常に自分に期待をしていて、その期待に応えないと価値がない、と思ってしまう。

「いっそ期待されない方が楽なのでは」とも思うが、期待されないと勝手に自分で自分を良く見せ、新たな期待を集めようとしてしまう。

期待のオーバードーズ。

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