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「報われない」に向き合う

誰を責めることもできない時ってある。
直接的な原因になった人を恨めば楽なのだけど
そういうときに限って思考は冴え渡り
多少の落ち度はあっても
その人が悪いわけでは無いよなと
無実を証明してしまう。

以前にお付き合いしていた元パートナーが
サプライズでライブチケットを買ってくれた事があった。そのアーティストは転売が高騰する傾向にあるため、業者対策としてチケットの身分確認が必須になっていた。
サプライズということもあり、友人に名前を借りた元パートナーが自己嫌悪に落ちるのと
私が喜んだあとの行けないという虚しい現実を目の前に荒むのはほぼ同時だったと記憶している。

人生には誰を責めるのも違うと感じるような
事象にちょこちょこ出くわす。
もちろん、それを誰かのせいにしてしまう場合だってあるだろう。

反抗期の非行少年、少女は「産んでくれなんて楽しんでない」なんて勢いあまって口にするだろうし
持って生まれたものに対しての「誰かのせい」はあなたも私も青春時代にある程度経験してるんじゃないだろうか。

これは持論だが
報われない事は考えても自身の悲劇のヒロイン度を自身の中でだけ膨らませる行為に等しいと思っている。
考えては行けないとは思わない。
ただ、それがあくまで自己の世界観の中での事であることは認知しておくべきだと思う。

あのとき、元パートナーは私以上に落ち込んでいたかもしれない。
そりゃそうだ、喜んだ私の姿や一緒にライブを楽しむ姿を思い浮かべてただろう。
当選したことにも相当喜んだに違いない。

報われないものは報われない。
報われないとして、ゼロベースで考えるってのはどうだろうか。
そんな事を私は提案したい。

あー。なんだろう。
書いていると、なんだかムカついてきた。
やっぱり、サプライズとは言え
注意事項にも書いてあったわけだから
私の名前を入れれば良かっただろうに。
許すマジ。

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