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#4 世代のズレと暴力。ゆとりを失った現代を生き伸びる(ゲスト:山本健介)

5月12日(水)より上演予定のかまどキッチン「海2」では、上演作品をより深めるため、それぞれ異なった専門性を持つゲストをお招きして「海2のミ」という関連企画を行います。プレビュートークと題した本企画では、かまどキッチンの主宰2人がゲストの方に、題材や、本作のテーマ「分断につながる加害と消費」についてインタビューを行います。

♯04のゲストはthe end of company ジエン社 主宰の山本健介さんです。

このトークで話す人は? 

山本健介:今回のゲスト。作家、演出家。the end of company ジエン社主宰。
児玉健吾:脚本、演出家。かまどキッチン主宰。
佃直哉:かまどキッチン共同主宰。ドラマトゥルク ・プロデュース。

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1.ただ居て、ただ出会う

児玉:かまどキッチン公演#02「海2」の公演関連企画「海2のミ」と題しまして、作品の元になった様々な題材に関して、ゲストの方をお呼びしてお話をお伺いしています。今回のゲストは、the end of company ジエン社 主宰の山本健介さんです。

山本:ジエン社の山本と申します、よろしくお願いします。

児玉:山本さんと僕が最初に関わったのっていつ頃でしたっけ。

山本:「ただ居る」[1]をやってるときかな。「ただ居る」は2018年頃からやっている企画なんですけど、喫茶店にただ居たところに児玉くんが話しかけてきてくれたところからスタートしていますね。もともとは、劇場に併設してある喫茶店から「何かイベントをしてくれませんか」って言われた時に、当時は大きなイベントをやる余力があまり無かったので「ただ居ることだけだったらできます」って答えて、それで実際にただ居たのが始まりです。

児玉:その節はお世話になりました。実際にそれで、山本さんがその後に関わる様々な方と出会えたと聞きました。

山本:様々な人と出会えたし、思ったよりも1人1人とちゃんと話せるんだなと思いました。あの企画は何かのタイミングでもう一度やってみたいな。

児玉:「ただ居る」の企画そのものが、人と人が出会う最小単位なのかなと感じますね。

山本:少し別の話になるけど、どうしたら自分が芝居を見に行くかなあと考えることがよくあるんです。「素晴らしい人」から話しかけられて、説得されたら行くかもしれないなとか(笑)。あるいはどうすれば自分は自民党に一票入れるかなと思ったときに、自民党の「素晴らしい人」が現れて、1時間くらい説得されたら投票するかもなあとか。まあ今の状態であれば、それでも自民党に票は入れないと思いますが。だから自分がまず「素晴らしい人」になって、1人1人に1日1回ずつ会いに行けば、単純計算で1年間で365人のお客さんが増えるなっていう。なんかそういう企画もやれたらいいなって思いますね。

佃:山本さんのいう「素晴らしい人」って具体的にはどういう人のことですか?野暮な質問だとは承知しつつも。

山本:大量にお金をくれたり、もしくは出会ったら脳からすごい物質を出してくれる、みたいな人ですかね。ハンドパワーみたいな人。そんな人は素晴らしいですよ、なにせハンドパワーですから。あと20万くれたら素晴らしいですよね。まあつまり、何一つ素晴らしくない人ですかね。

自分がその「素晴らしい人」になりつつも、「お芝居を見に来てください」って一人一人を説得していくのってバカバカしくていいなと思って。

佃:なるほど。山本さんの活動を見ていると、演劇の外部からも集客をしていきたいという意思を感じます。

山本:普段は芝居を見ないけど、少し頑張ればこちら側から接続が可能な人に対しては、「こういう世界もあるんですよ」ということを示したいなとは常々思っています。

例えば僕の作品で最も反響があったのは、「夜組」っていう深夜ラジオを題材にした芝居で。とある深夜ラジオの実際にあったコーナーを拡張した話なんだけど、芝居を見たことはないけどそのラジオが大好きだった人が見に来てくれた実感はありました。

芝居が好きな人しか観に来ない現在の状況って、キッツいなあと思います。例えばマンガだったら、それほどマンガに興味のない人もとりあえず読んだりするし、読んだ後にネット上でそのマンガについてとんちんかんなことを言ったりしていて、その状況は羨ましいと感じますね。

佃:マンガの週刊少年誌って、音楽でいうところのフェスを毎週開催しているようなものですよね。多様な作風のマンガが集合していて、それが幅広い読者の獲得につながっている。

山本:演劇は、東京ではかろうじて週1で見れるかもしれないけど、マンガに比べるとちょっと弱いですね。単純に触れる機会がないというか。

児玉:週間少年誌は作品にとってのハブの役割を果たしていますよね。劇場でも似たようなことをやっているところはいくつかありますが。

[1]山本健介が2018年より不定期に行っている取り組み。セミパブリックなスペースを借りて、
ただそこに山本が居る。山本が居るので、そこに行けば山本と話すことができる。

2.岩と紙、紙とインターネット


山本:ちょっとまた別の話にはなるんだけど、昔の話でいうと2000年前は岩に物語を直接刻みつけていたわけですよね。当時はまだ紙が発明される前だから、物語を読みたいと思ったら記憶力の良い人がその岩の前まで行って物語を見て、自分の頭に刻み込んで、その物語を摂取していた。

でもその後に紙が発明されて、その場で暗記しなくても、紙に写しさえすれば他の場所でも物語を楽しめるようになった。これって今でいう、紙かネットか問題とすごく似ているなあと。だから2000年前の物語作家からすれば、「紙に書かれた文章なんて、物語じゃねえよ」って言うかもしれないなと。

わざわざ岩の前まで行って、その場で読むしかない。「その集中力が物語を本当に楽しむためには必要なんですよ」って紙が発明される前の物語作家にいわれたら、「そっすね先輩」って言わざるを得ないよっていう。そのテンションはすごくわかるんだよなあ。

佃:現代でも同じですよね。僕らはインターネットにおける検索ツールが発達した後の世代で、明らかに受信も発信もしやすくなった世代なので、「検索を前提とした知識の集め方に慣れてしまった現代の人間は、体系的な知識が全然足りていない」とインターネット以前の世代の人から言われると、「うー、ごめん」って返す言葉がなくなってしまうとは思います。

山本:物語の価値はある意味で少し下がっているのかなとは感じますね。稗田阿礼[2]ぐらいのテンションで物語を読む人って、今は少ないかもしれない。物語を全て暗記して、語りもできるぐらいの勢いで物語を摂取しているわけじゃないなっていう。

紙が発明された結果、物語の神聖さや人間のwisdomは減ってるじゃないかっていう主張はわかるんですよ。でもそのおかげでいまの我々は2000年前のお話にも接続できてるんだなとは思っちゃいます。インターネット上に文章があることによって、ある土地にいる人が、別のある土地のオタクが所有するドライブと繋がることができる利点もあるわなあっていう。

佃:そこは今回の作品で扱っている問題に近いとは思いますね。コンテンツを直接的に摂取できる、発信できる時代がますます進行していくことによって、市場の論理が強くなりすぎてしまって様々なことが制約を受け、もう僕らはある種のポルノしか作りえなくなっていくんじゃないかと感じてしまいます。

山本:作り得なくかー。僕はそれでもまだ作り得ると思ってしまうんだけど。

児玉:市場の論理からは外れがちな演劇でさえも、特に最近では自分のスタンスや意思を表明するためのツールとなっているのではないかという印象は受けます。

[2]7世紀から8世紀ごろの下級役人。記憶力に優れていたとされ、様々な逸話が残っている。
『古事記』の編纂者の一人。

3.気軽に仲間を集めることが難しくなっている


山本:売れないものや、みんなが求めてないものを作るのが悪だという風潮はあるよね。ジャンル分けや分類がないと誰にも見てもらえないから、団体側もそれはある程度受け入れないといけない。

佃:売れるためには助成金を受け取れるような作品を、数年前から書類レベルで準備して提出しなければならなかったり。

山本:批評の言葉が必要なのはそういうことですよね。「あなたはどういった分類でこの世にいるんですか」「書店の本棚のどこにあなたは所属してますか。そしてそれをあなた自身もちゃんと把握して作ってますか」って問われちゃうわけだから。

佃:あらかじめ陳列されることを前提としないと、そもそも見られる機会が生まれなくなってしまう。僕もふらっと劇場に行くなんてことはしない。見る側の余裕もなくなってしまっているので、ある種必然的な要請なのかなという実感もあります。

児玉:とはいえ、僕たちも実際に支援や助成を受けてはいるので、そうした制度を否定するつもりはないんですよ。助成金を取っていくこと自体は大事だとは考えつつも、同時にそことは距離を取りつつ、もう少し俯瞰して物事を考えていきたいなっていうところで。特に、「作品自体が、ツールとして目的を果たさなければ存在し得ない」という風潮とは距離を取っておきたいです。

山本:ビジネス書で「目的を達成するためのポイント」ってあるじゃん。まずは大きな目的があって、それの目的を追うためのKPIを設定して、現場のマネージャーが「おい、いま中間目標どうなってるんだよ」って言ったりとか。自分はいまどこにいるのか、その段階を整理して紙に書いてねとか。そういうのは「てやんでえ!」って思うし、「うるせえ!」って思うんだけど(笑)

とはいえ、「自分は何のために作品作ってんのかな」っていう言語化が速いチームは作品を作るのも実際早いんですけどね。ビジネス的な価値観が強い世界で生きている人からすれば、場当たり的に物を作ったり、お客さんにちゃんとリーチしなかったりということは気持ち悪いと思うのかもしれない。目的を達成しないし、しようとすらしないっていう生き方をしている人たちに対する嫌悪感なのかなあ。

欲望がまず最初にあって、それを解消してくれるものがコンテンツだという見方が主流な中で、「欲望?知らんわ。俺はこういうのやってみたいんだよ」って言ったら、「いや、それをちゃんと言語化しなさいよ」って言われたりとか。「いや、そんなのないんだけど」「そんなことないでしょあるでしょう」みたいな。

児玉:そんなこと言われるんですか。

山本:いや、内心でずっと言われてる(笑)

でも演出家もそういうことあるじゃない、稽古場で俳優から「結局は何がしたいんですか」って言われたりしますし。もちろん様々な方法で言語化はするんだけど、言葉にすればするほど「ちょっとこれは嘘かもな」って思ったりして。そういうやりとりがあるから面白いものができたりもするんだけど、基本的にはそういうの「てやんでぇ」って思ってるんですよね。

児玉:実際の対話においては、要件としては共通言語が必要ですからね。

佃:曖昧に否定され続けてしまうと、出演者も消耗してしまいます。

山本:実際、「このシーンは何を練習してるんですか」って他の参加者に聞かれた時に「わからない」って答えちゃうと、集団作業においては気持ちが離れちゃいますよね。でも一方で、自分はその時、やっぱりどこかで嘘を言ってるんじゃないかという気がしてしまうんですよ。

佃:ただ、目的意識をはっきり持ってやらないと生き残れないという意識が、最近の世代では強そうだなとは感じています。

山本:この前、児玉くんと同じぐらいの世代の人たちに「劇団を今度作るんですけど、ジエン社はどういった展望で劇団を立てられたんですか」って聞かれて、面食らっちゃいました。

児玉:いや、それは僕も聞きますね(笑)

山本:「お、お、芝居がしたかったから…」って思わず返してしまった。そのときの情けない感じというかさ。その人の話を聞いていくと、周りの人に「演劇をやりたい」って言ったときに、どういった展望があるのって最初に聞かれるみたいなんですよ。それに対して言葉を持っていなくて答えられないとダメなんだと。

だからその人は、例えば2025年までに助成金をもらってみたいな計画を先に立てて、次の公演はこの劇場でやるから、批評家に先にアクセスしておいて、批評を書いてもらって人を集めて、みたいなことをするらしい。それを聞いた時、「良かったこの時代に生まれなくて」と思ってしまいました。

児玉:今の時代って就職して社会で生きていくことすら難しいし、それで自分の生存が保証されるわけではないですよね。果たして自分は何歳まで生きられるんだろうみたいなことがそもそもありますし。その流れの中で演劇をやるっていうのは、また一つ、

山本:死にいざなうことだよね。

児玉:そうですよね、だから人を誘うからには強固な考えを持っておかなければっていうのは、確かに我々の意識としては強くありますね。

山本:その点に関していえば僕はまだ楽かもしれない。なんだかんだ10年ほど芝居をやってきているので、その謎の信頼感でごまかしながら、スタッフや役者を集めることもできるんですよ。ただ、今の時代に経験がゼロの人が「お芝居やりませんか」って誰かを誘うときに、それぐらい言葉や目的を持っていないと、一緒にやっていくことはすごく困難だなと思いました。1人1人の責任が大きいのかなあ。生存の問題なんですかね。

児玉:そうだと思います。何かを表現したいという欲求よりも先に、自分自身を守らないと今は生きていけないんですよね。だから人を誘う時に、今後の展望を語ることが対価になってるんだと思います。そうしないと、その人の生活の保証までしなければならなくなる。

佃:コンテンツが明らかに飽和している状況と時代的な余裕のなさも大きいと感じます。例えば現代で成功したい人って、初期投資がそれほどかからないことをやると思うんですよね。

僕の文脈で話すと例えば演劇や美少女ゲームは、作る上で初期投資がかなり必要で、その事業が軌道に乗るまでの投資はもっとかかる。ただ投資者はほとんどいない。お金にならないから。商業としてまともに成立するまで持ちこたえられないことを、ほとんどの人が理解している。

だからiPhoneやPC一つでできるYouTuberが流行っているのかなと思います。お金をかけずに集客しようとするとSNSマーケティングぐらいしか選択肢がない。とりあえず最初は自分がインフルエンサーの振りをしておけばいいし、それならタダでできるので。

4.ファンの暴走、煽る運営


児玉:コンテンツ全般の話をすると、今はとても意義のある作品か、全く意味のない欲望を刺激するだけの作品に二極化している傾向があるのかなとは思いますね。

山本:もの作りって、制作側が色々考えてるっていう幻想を抱きがちだけど、何も考えなくても目的さえあれば誰でもコンテンツを発信できますよという風潮は感じますね。でも例えば文章を書くときに、欲望を充足するためのものを作ろうとしたときに、何の神聖さも、何のクリエイティビティも発揮せずにそれを作ることができるのかなとは思います。

佃:それはある種、山本さんがクリエイターに夢を見すぎてるんじゃないでしょうか。おそらくできますよ。

山本:できるのか〜。

佃:例えば最近精力的に展開されるコンテンツの一部は、関わっているイラストレーターやシナリオライターを明らかにしない。作品という形で一つで完結したものではなく持続し続けるアプリであるため、ある作家性に依拠しない方向、つまりコンテンツの属人性を排除しようとしている傾向があるように思えます。

山本:個を立たないようにするわけだ。

佃:山本さんの言う個人の価値観、倫理観があまり表面化しない形に意図されたコンテンツはすでにありふれているような気もします。

山本:作家の名前を出さないってそういうことなんですね。より興行的なものにしたいんだ。それが二極化を加速させているのかな。

児玉:買い切りではないコンテンツだからこそ継続を意識して、常に普遍的に気持ち良い状態を維持させる。いかに既存のユーザーをコンテンツに対して強く依存させるかってところで、無数のコンテンツでその競争が行われていますね。

山本:買ったら終わりじゃなく、その後ずっと課金し続けてもらうことで存在するコンテンツだから、欲望を充足させるコンテンツでファンを煽り続けると。新興宗教みたいなものかもしれない。

佃:ある枠の中で充足され続けることで生まれてしまう万能感みたいなものは、今回の作品でも扱っています。

元々個人で楽しんでいたコンテンツが、SNSの登場によって万単位で同時に共感や楽しみを共有できるようになりました。アニメやゲームでは売り上げという形でそれらの序列が可視化され、ランキング上位のコンテンツ…俗に覇権とも呼ばれる作品を楽しむ方々は、作品の中でも肯定され、数字の上でも何かの価値があるように見える状態にあり続けることになります。ツイッターの全体のトレンドでは、社会や芸能情報に勝る影響力を持っているように見えることもある。

そうすると、コンテンツを楽しむ界隈の中に「これは私たちを気持ちよくさせてくれるだけにとどまらないすごいコンテンツなんだ」と考える層が生まれてしまうように思えます。その雑に言ってしまえば万能感みたいなものが、他者への加害につながる瞬間があるなと。具体的な言及はなるべく避けたいですが、安室奈美恵[3]さんの引退時の一部のFGO[4]ユーザーのエピソードはそういう感じだったのかなと…。

児玉:晒し上げみたいなのは結構ありますね。その大元には運営側の戦略もあると思います。

利益を出すことを目的とするならば、FGOのような「強いファン」を作るのは非常に理にかなった方法なんですよ。いかに既存のユーザーをコンテンツに対して依存させ、ファンの立場を相対的に強化していくか。コンテンツ市場の大きな流れとしてもそういったことはあるのかなと感じています。

山本:お金を儲けるという一大目標のために、極端に偏った狂信的なファンを育成し、ファンに対して「君たちはすごいんだよ」と煽っていく。そうしたことから生まれてくる個の暴走みたいなものはあり得るんじゃないかっていうことですね。

まあでも、どんなものであれ面白いものを見ると「これを知っている俺すげえ」となるとは思いますけどね。僕の場合だとそれが「月刊漫画ガロ[5]」の中にある。僕にはガロ信仰がずっとある。

児玉:その万能感は近いですね(笑)そういった感情自体は、小劇場でもどの界隈の人でも大なり小なり持っているとは思います。

山本:ただ、それが暴走することはあんまりなかったと思うんですよ。ガロは所詮マイナーなマンガなんだとか、その自虐がセットになるのが僕の世代の一つの傾向なのかなと思ったりはしました。

[3]JPOPの歌手。1990年代に『CAN YOU CELEBRATE?』など数多くのヒット曲を発表した。
2018年をもって歌手活動を引退。

[4]スマートフォン向けのRPGゲーム。正式名称は『Fate/Grand Order』。ゲームの母体である
『Fate』は人気作として知られ、現在に至るまで様々なメディアミックスが行われている。

[5]青林堂が2002年まで発行していた月間誌。白土三平の『カムイ伝』やつげ義春の『ねじ式』など
独自性のあるヒット作を生み出し続け、カルト的な人気を博した。

5.自分の普通が暴力になる瞬間


佃:
少し脱線してしまったので、元の趣旨に戻りたいと思います。

山本さんに聞きたかったのは、僕たちがやっている表現はそもそもある加害性をまとっているのではないかということです。そして山本さんの世代と僕たちの世代における価値観というものはそもそも違っていて、山本さんはそのズレに対してどう思っているのか、そして山本さんは暴力性や加害性というものを現在はどのように認識されているのか。

山本:自分では暴力だと思っていなかったことが、年を取ってきたからなのかはわからないけど「それは暴力ですよ」って急に指摘されるようになったという変化は感じています。自分は普通に生きているつもりでも、ある日突然それが暴力であると見なされてしまう。

先ほどの話でいうと、今後に対して何の展望も持っていないのに演劇に誘うことも暴力なのかもしれないですね。3ヶ月も拘束しているのに、大した対価も払えずにやりがいだけ搾取することになってしまう。今の時代はそういった展望を持つことそのものが当たり前になっているのに、僕はそれを10年間持たずに演劇をやってきてしまった。それ自体が暴力なんだってことを認識しないといけないのかもしれない。

一方で、そうした状況に対しては心の中では「てやんでえ」と思っています。でもその「てやんでえ」の部分がある種の暴力なんだろうなと。

佃:そうですね。その「てやんでえ」の部分が、時代と摩擦を起こした場合に開き直りとして出てしまうとマズいのかなとは思います。

山本:でもそれがないと、僕は物を作れなくなっちゃう。自分が死んでしまう。

佃:価値観の衝突をどのように創作に落とし込んでいくかという問題は、僕たちも考えていることです。僕も比較的、上の世代のコンテンツに触れることで育ってきたので、尚のことそう思うのかもしれないですが。

山本:でも僕は、もともと暴力性がある作家が好きなんですよね。ガロの人たちはたぶん、マンガを作る時点でケンカを売る気満々だったと思うし、その影響は受けてるかもしれない。社会的な弱者がやってるよっていう担保で物を作ったりとか、うまくいってない、社会的に排除されている人たちが生きていくための手段として、暴力を伴うくらいのテンションでガロ的な漫画を作ったと。そこにはある種のカウンターのようなものがあるだろうし。

僕自身がいまはそんなに権威を持っていないつもりでも、そのテンションでずっとやってたら、いつか権威を持った瞬間にそれが全部暴力になってしまうんだろうなとは思います。

佃:カウンターカルチャー側だと思っていたのが、気づけばメジャー側の人間となっていることって現象としてはよくありますよね。

山本:例えば「つかこうへい[6]正伝 1968-1982[7]」を読むと、つかさんはずっと権力側に歯向かうパフォーマンスをしていた。でも、一方で権力のある人にも上手く取り入るようなこともしていて、次第につかさん自身も権力側の人になっていくっていうところがあって。つかさんもある瞬間から作家や演出家としては機能しなくなっていて、でも自分の名前は大きく残ってしまっているから、その後は自分でもよくわからない状態になってそのまま続けてしまうんだなっていう。そのおっかなさみたいなものを読んでいて感じました。

[6]劇作家、演出家。1974年に戯曲『熱海殺人事件』で第18回岸田国士戯曲賞を受賞。1994年には
『★☆北区つかこうへい劇団』を設立し、数多くの俳優を輩出した。

[7]長谷川康夫の著作(新潮社)。様々な関係者への取材から、つかこうへいの実像を描き出そうと
試みた評伝作品。

6. 山本健介のカウンター性


佃:もう一つ聞きたかったのは、山本さんが持っていたカウンター性はどこにいったのかなということなんですよ。山本さんって就職氷河期[8]の方ですよね?

山本:正確には、就職氷河期の1〜2年後の人ですね。広く括ればそうなんだけど、僕の二つ上か一つ上の人がちょうど就職氷河期って言われてた。大変だな、就職しないでおこうかなとは思ったので、余波の影響は受けてましたね。

でももっと大きな括りでいうと酒鬼薔薇聖斗[9]とか、キレる14歳という括りの方が自分は強い影響を受けている気がしています。僕の世代の一つ上がちょうど酒鬼薔薇聖斗だし。大人から「すぐ暴力振るう奴だ」「理解できん奴だ」「人を殺害しうるポテンシャルを持ってんだろ」っていうような偏見を、ギャグ込みで受けてた世代です。

佃:なるほど。個人的には山本さんってカウンター性に関してはそこまで意識していなくて、自分の興味関心にしたがって作品を作っているのかなと思っています。でも、それであったとしても当時の情勢に対するカウンター性やメタ性が、山本さんの作品からは読み取れてしまうんですよね。山本さんの中には、無意識なカウンター性が隠れているのかもしれない。それも含めて山本さんは評価されてきたのかなと僕は思っています。

ただ、最近の山本さんの作品からはあまりそういったことが感じられなくなったなと思っていて。カウンター性を持った山本健介はどこにいったんだろうと。何かきっかけはあったんでしょうか?

山本:震災さえなければ、もう少し元々の自分は生きていたんだろうな、生き延びたんだろうなって感覚があったりはします。震災の影響でちょっと真面目にならざるを得なくなっちゃった感じが自分の中ではあって、そこから徐々にズレていったかもしれないですね。

2010年くらいまでは、有効な立ち振る舞いができていた気がする。それがどうも震災のせいで、自分の中では時間が一つ進まされてしまった感じがあって。それまでの自分の生き方や振る舞いが、効力を発揮しなくなってしまったのかなと思ったりします。

もっといえば、自分は震災に対して無力だったし、今回のコロナに対しても一切できてないっていうこともあったりするし。無為であること、何もしないでいるということの、力のなさみたいなものは今はあまり求められていないのかなとは思う。それでも僕は何もしないけどね。「でも、やらないんだよ!」っていう気持ちはすごくあるかもしれないです。

[8]バブル崩壊後の日本において、就職が困難であった時期を指す用語。2021年現在の40代前後が
就職氷河期世代であるとされる。

[9]1997年に発生した神戸連続児童殺傷事件の犯人が名乗った名前。犯行内容の残忍さや、
犯人が中学生であったことなどから世間の注目を集めた。

7.意味のないものしか楽しめない?

児玉:近年の山本さんに関するお話が聞けたところでそろそろおしまいにしようかと思うんですが、最後に何かありますか。

山本:最近「花束みたいな恋をした[10]」を見たんだけど、あれは固有名詞大喜利だなと思いました。こんなに色々なコンテンツに触れているのに何も感じないんだって。

児玉:今のコンテンツが消費しやすいことの現れなのかもしれないですね。僕は見ていないのであまりうかつなことは言えないんですが、知り合いから話を聞いていると、生存そのものが難しくなってきていて、人々が無為のような一見意味のないものに余裕を割けなくなってきている流れの中で、消費しやすいコンテンツしかどんどん消費できなくなっている、受容できなくなっていることを反映させた作品なのかなとは思いました。

山本:わかりやすいなと思ったのは、サラリーマンの主人公がいるんだけど、大変な目に遭って会社で寝泊まりするときにやるのがパズドラなんだよね。

児玉:それはかなり面白いですね。

山本:会社で寝転がって、パズドラ[11]を全然眠れないからやってるっていう。かつてマンガとか絵がすごく好きだった人が、結局パズドラで暇をつぶすことになっちゃうのが面白い。パズドラはでも救いなんだろうなと思って。

俺もこの状況下で、本当にしばらく意味のあるものを見たくないなと思いましたよ。なんかもう作品を見れないよって。特にコロナがきつかった2020年の4月から6月は日向坂46[12]にハマってたんですけど。日向坂46自体の中身がないとは思ってないんだけど、日向坂46の作る作品はあんまり中身がなかったりするんですよね。電子ドラッグみたいなもんだなあって。

児玉:そこはあえてですよね。

山本:どうだろう、あえてなのかな。わからないな。

児玉:あえてじゃなかったとしても、ゆえにハマるみたいな。

山本:なんでこんなに何も考えさせない物を作れるかなあと。でもプロの仕事は随所に感じるんですよ、さすがに一大メジャーの作るものだから。

児玉:いずれにしても、そういった流れに大きく乗れるものが必要とされているのかなと。ゆえに我々は準備をして、自分たちはこういったものを作っているということを強く表明しながら、作品を作り続けなければいけないっていう。

佃:ここら辺で〆としたいと思います。ありがとうございました。

[10]2021年1月に公開された映画。『東京ラブストーリー』や『カルテット』などの
人気TVドラマを生み出した坂元裕二が脚本を手がけている。

[11]ガンホー・オンライン・エンタテインメントが配信しているスマホゲーム。正式名称は
『パズル&ドラゴンズ』。ソーシャルゲームの大ヒット作の1つとして知られる。

[12]秋元康がプロデュースするアイドルグループ。以前は『けやき坂46』として活動していた。


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