中途半端な中高一貫校はねじ曲がったものを育むという話。
こんにちは、タイトルの通りこの記事は中途半端な偏差値の中高一貫校をぶっ叩く記事です。始めに断っておきますが、あくまで個人の意見と経験による偏見まみれの半怪文書なので暖かい目で拝読していただければ幸いです。
私の通っていた中高は、偏差値が50〜60のいわゆる典型的な自称進学校でした。小学校の頃は純朴だった彼ら生徒たちも、この地獄に一度足を踏み入れてしまえば堕落の一途を辿ることになります。そんな、悲しくも地獄に落ち着いてしまった彼らの高校生活を間近で見てきた中で、彼らの道徳や倫理観の欠けてしまっている行動をいくつか記していきます。
①高校から入学してくる生徒を見下す。
このタイプの学校に高校から入学してくる生徒は、基本的に第一志望があと一手のところで叶わなかった人々です。高校受験とはあくまで中間地点に過ぎず、これからの人生はまだその結果だけで全て決まったりはしません。それなのに、彼らは中途入学の人々を烈火のごとく罵倒し、落伍者のレッテルを貼り付け見下します。少しでも弱みを見せれば攻勢に出る彼らは、さながらピラニアのごとく中学で培ってきた人間関係のアドバンテージを用いて何ら罪のない彼らに牙を向きます。
②家庭の裕福さマウント
ここが彼らの最も恐ろしいポイントです。家庭が裕福であるというのは素晴らしいことですが、彼らはそれさえも他人を攻撃する道具にしてしまいがちです。元々、中学からいる生徒と高校から入学した生徒では校舎が違っており、前者にのみクーラーが設置されていました。校舎が設立され、ある程度学校の基盤が整って行く中で、後者にもクーラーを設置するということが決定しました。それを彼らは許しません。あろうことか、資金を多く払っているのは自分たちなのだから、自分たちのみがクーラーを使う権利があると主張し始めたのです。確かに、彼らは中途入学の者よりも多くの金額を支払っているというのは確かですが、それとこれとは話が別であるというものです。度が過ぎる裕福マウント、まさにスリザリンのような貴族主義です。
このように、彼らの行動は目に余るものばかりですが、結局根本の行動原理はプライドにあります。自分は彼らよりも上等な存在である。という尊大なプライド、ですが薄々本人達も本当は知っているのでしょう。自分たちの身の丈を知覚始め、自分の小ささに気づくことが怖いだけだと。それを気づかないように、必死で毎日他人を攻撃しているのです。彼らの問題は、彼ら自身にでは無くきちんと子供自身を見てあげなかった親にあると言えるでしょう。彼らは学力と引き換えに親との時間、自然と触れ合う体験をぽっかり抜け落としてしまったのです。そう思えば、彼らもまた被害者なのでしょう。これは、彼らのクラス内におけるカーストがそれをよく表現しています。
中高一貫校におけるヒエラルキーなため、通常のものとは少し異なる
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カースト上位の人々は、常に「ディス」や「イジり」という概念で笑いをとっています。笑いの内包する攻撃性をより露骨にし、人々へ投げつける様は、個人的に見ていてあまり気持ちのいいものでは無いです。それに対し、カースト下位の人々は一言で言ってしまえば甘えん坊達です。自分を見て欲しいという当然の感情の行き先が、家庭には存在しなかった。それ故に、間違った形で学校で自己顕示欲が発露してしまうのです。それがカースト上位の格好のイジり先になってしまう。イジられる側は自己顕示欲が満たされず、自分を分かって貰えないと感じてさらに間違った自己の発露を行い。イジる側は、これで笑いが取れると認識して攻撃性を増していく。これこそ学校内における負のスパイラル。
あくまでこれは私が観測し、私が勝手に思ってきた個人の意見です。ですから、全ての中高一貫校に当てはまる訳ではないですし、もしかしたらどこにも当てはまらないのかもしれません。ですが、私がこの記事において何を主張したいかと言うと、教育にのみ熱心な親が子供を見ずに中学受験を受けさせ、親にしっかり見られなかった子達が集まるところでは当然他人を真っ直ぐ見つめることなどできない。だから他人との付き合い方がわからずに傷つけてしまう。16歳から18歳というのは、社会性を身につける上で最も重要な時期です。しかし、そもそもこの時期に社会性を身につけるための土台は家庭で培い、親が身につけさせるものです。つまり、これは中高一貫校批判に見せかけた親への嘆願文書という訳です。もし、この記事を読んだ方にお子様がいらっしゃるのであれば、ちゃんと見てあげてください。何が好きで、何が嫌いで、どういう考えをしているのか。できるだけ寄り添ってあげてください。それこそが、屈折した子供を産まない唯一の方法なのです。