見出し画像

30代、実家仕舞いと家族離散の予定です

note、下書きだけ溜まって全然上げられずにいます…。お久しぶりです。

実家で色々と動きがありまして。現代の家族間問題が詰まってる!と会社で同僚に言われて、確かになあと思いまして。溜め込んでるのもあれなので実家のアレコレとか、あとは私の家族についてとか、私の家族観についてとか。色々吐き出してみようかと思っています。
長くなるのと、あんまり明るい話題ではないのをご了承ください…。


私の家族と幼少期

私の家庭環境は、複雑という人もいるけれども、とりあえず似た環境の人の中では相当に恵まれていた。と、思う。
大学に行かせてもらい(とはいえ奨学金は当たり前に自分で払っている)、好きな勉強をし、それなりに好きな仕事をしながら生活できている。家庭の事情で、勉強が好きだと言っていて進学を諦めた友人もいる中では、私は恵まれていた。

小学4年に上がる春、私の誕生日に両親が離婚。あとから聞いたところ一応母なりの考えがあって私の誕生日を選んだらしいが、私はお陰様で二十代後半まで自分の誕生日が嫌いだった。嫌い過ぎて誕生日前後は日付を認識しないように生きる癖がついていて、人から誕生日を祝われて「ああ誕生日だったか」と思うような感じだった。
小学4年に上がる春に離婚した両親だが、そもそも論、最初から破綻していた家庭だった。子供部屋おじさんがそのまま親になってしまったような父親、ヤングケアラー状態で幼少期過ごし共依存でしか人と関係性の作れない母親。家族を顧みない、今であれば即離婚届を叩きつけられるであろう父親と、まともに家族らしい関係性だったのは小学1年まで。2年に上がるタイミングで、父の勤めていた会社が倒産し父は借金を背負った。時を同じくして父方の伯母が自殺。九州男児、家父長制を尊ぶ父方の祖父母に呼ばれ母は産まれたばかりの従兄弟達の面倒に駆り出される。私は小学校でのイジメに巻き込まれ、だがしかし家に頼るべき大人もおらず性格が変わったようになる。今思えば、というか後々鬱の診察を受けた際に言われたが、多分私が人生で初めて鬱になったのはこの時だろう。

小学3年までの間、借金を背負った父親のために母は貯金を切り崩し、母の両親を頼りながら生活。結果家計は破綻して小学4年に上がるタイミングで両親は離婚した。父方の祖父母からは罵られ、別れたのが最後だ。その20年近く後に母が1度だけ祖父母と街中で偶然遭遇したそうだが、まあその辺は割愛する。従兄弟達はその後元気かどうかは知らない。彼らに対して覚えているのは、伯母の葬儀の時に一緒に父方の実家でコロコロ転がっていたこと。休みの日に遊びに行ったら従兄弟が熱を出し、それが水疱瘡で私に罹患った事。そのくらいである。

父親とは離婚後も数回会ったが、養育費を払いしぶられた。最終的には養育費は払わず、私へのご機嫌取りでクリスマスや誕生日のプレゼントだけ贈ってくる。母の携帯などから電話を掛ければ養育費の催促だと分かっているから出ない。
そんな父親には確か小学6年の時、非通知にした母の携帯で電話を掛けた。非通知には出たのだあの男。ご機嫌取りだけしてくる父親はいらない、プレゼントより明日の身銭だ養育費を払え。それが出来ないなら二度と顔を見せるな。縁を切る。大体こんな内容を電話越しに有無を言わさずまくし立てて切ったのが、父親との最後の交流だ。
その後、祖父が亡くなった時にも「私に言われたから」と免罪符のように言ってご近所さんに香典を預けた父親を、多分私は一生許さない。お前の娘がお前の借金のせいで生活に困っていた時に援助してくれた恩人が死んだのだ。娘に殴られる覚悟のひとつでもして線香を上げに来いと思うのは、私の好戦的な性格のせいかもしれないが。それでも最期まで祖父にお礼もお詫びもしなかった父親をやっぱり永遠に許せないと思う。

私の『家族』

両親の離婚以降、住んでいたアパートからすぐ近所にあった、母の実家に移り住んだ。祖父母、叔母、叔父との6人での生活が始まった。
当時は離婚も出戻りもまだまだ後ろ指さされる状況だった。近所のおばあさん達の井戸端会議では、可愛がられるていで私から私の家のよもやま話を引き出そうとするやじ馬根性の素晴らしい人が何人もいた。
苗字も母方のものに変えた私は、格好のいじめの標的だった。人生で初めて自殺について真剣に考えたのはこの頃だ。刃物類は家族の目があり使えない。首を絞めるのは子供一人では現実的な死に方じゃない。溺死も考えたが水泳が得意なのと、近所に丁度いい水場がなくできない。結局仲の良い教員から借りた屋上の鍵を使って身投げしようとした。未遂ではある。私の様子がおかしいと気付いて止めに来てくれた友人達には結果として今でも感謝している。

家でいじめに遭っていることを話せなかった。それ以前に、私の居場所はこの家にないと早々に突き付けられた。
母は元々住んでいた人間だ。それに祖母は母に依存している人間だし、叔母も叔父も幼少期は母に育てられたような面が多々ある(祖母は母達の幼少期、入院しがちな人で、それ故に母はヤングケアラーと化していた)。叔母も叔父も母に全面的に甘えていた。私はまた、自分の頼るべき大人がいない感覚に陥った。
極めつけだが離婚直後、母が鬱のような状態になってしまっていたことも大きい。母は毎日、朝から晩まで泣いていた。既に周りの顔色を見て生活する癖のついていた私が弱音を吐けるわけもなかった。周りの大人も、私よりも泣き暮らしている母のサポートが優先的になった。
結婚なんてしなければよかったのに、と叔母や叔父が話していたのは今でも覚えている。母はおめでた婚だった人なので、極論私がいなければ母はこんな風に泣き暮すこともなかったのだと、叔母や叔父に突き付けられた気持ちだった(無論、叔母や叔父に他意はなく、私の心の余裕がなく卑屈であったがゆえの受け止めだ)。ただこれが、この家で私は望まれていない存在なのだと強く思うきっかけだった。
祖父母の望む、物分りのいい初孫。多少は子供らしくワガママを言うものの、基本的には従順な姪っ子。私に求められた役割はこれだった。
何せ私が彼らの理想から逸れる態度を取れば、あからさまに溜め息を吐かれ、話しかけても無視をされ、そんなあからさまなことも多々あったもので。早いうちに自分の役割は理解したと思う。

母のことはこの頃から、母と呼んでいない。母も母で、自分を立て直すのに精一杯だったんだろう。母らしいことをしてもらった記憶が、この頃からめっきりない。祖母の娘として、叔母や叔父の姉としての側面が強くなっていく母の姿。弱音を聞いてほしくても、私だって私だって、を繰り返すだけの母に、私が甘えるのを諦めてしまった頃だと言い換えることも出来るかもしれない。

私にとって家族とは、求められた役割をそれぞれがこなすだけの集合体だった。だから叔母や叔父が結婚して家を出た時も、そうか、としか思わなかった。叔母が結婚して家を出る時には『きぃの方がお姉ちゃんみたいだった』と笑えばいいのかドン引きすれば良いのかよく分からない手紙をもらった。
唯一というか、祖父が亡くなった時は悲しかった。心底辛かった。考えてみたら祖父は私が本音を飲み込んでいるのを何となく気付いてくれていて、たまに2人だけでどこかに抜け出させてくれる人だった。情に厚く、人望のある人だった。祖父の生き方を格好良いと思ったのは一度や二度では無い。もしかしたら私を1番単なる子供として甘やかしてくれたのは、祖父だったかもしれない。

一般的な両親のいる家庭よりは、制限のある生活だったと思う。高校は公立一択、大学も学費の問題で志望校を途中で変えた。無論自分で勝手に計算して勝手に決めた事なので、家族からはどうせならもっと良いところに…とは言われた(だが母以外はそれぞれの学費を知らないため単なるお気持ち表明として言われただけである)。現実的に4年間間違いなく通えて、かつ学びたいことのある大学に進学した。
無い袖は振れない。先立つものがなければ、何も出来ない。制限のある中でめいっぱい誰よりも貪欲に楽しまなければ割を食うだけ。大学はそんな風に、偏差値もとことん落として入った大学だった分、首席を取ってみたり色んな団体に参加したりと動いた。結果、周りの大人からは生き急いでいると言われ、案の定過労で倒れた。学生で過労って何やってるんだという話である。

家に帰りたくなかった。でも家に帰らなければ、素行のいい子供でなければいけなかった。だからできる範囲で家にいる時間を削る努力をした。その過程で得た経験は得がたいものばかりで、なんだかんだ結果オーライとはこの事かと思う。

実家仕舞いと家族離散計画

私の実家は自営業を営んで、いた。過去形だ。祖父が起業し、祖父が亡くなる時に叔父が継ぎ、けれど叔父ができない事務方を賄うために母は外の仕事を辞めた。そんな自営業を、今年の初夏、廃業した。不景気だから致し方ない、赤字になって立ち行かなくなる前に見切りをつける他ない。
このタイミングの見極めが難しいのだと思う。しくじると甲斐性なしの私の父親の二の舞になる。だから廃業も致し方ないと思った。

私は秋には、結婚する。彼を婿取りする話もあったが、あまりにもごちゃついている実家の諸々に嫌気がさしたところもあり、嫁入りすることにした。この辺、こだわりがないコンビだと状況に応じてコロコロ話し合いで決められるから楽である。
彼にはとても申し訳ないことをした。そもそも結婚願望のなかった私が、結婚してもいいかと思える状況までもっていってくれ。そこから母の説得。最初はこれが難航した、何せ彼の家庭環境はまあ複雑なもので。それが我が家が揺れまくった結果、お前はお前の幸せを選びなさいと手のひらを返して結婚のOKが出たという。完全に我が家に振り回されている。そして母のひとり立ちにあたってはサポートしてくれると明言してくれているので頼もしいことこの上ない。あなたは今世でどれだけ徳を積むのか…と、ちょっと聞きたいレベルだ。

さてここからが問題だ。
我が家の家族構成。実家(自営業の事務所を含む)に住まうのは祖母、母。私は実家と同棲用のマンションとの2拠点生活をしているため、まあ0.5人分とする。
叔母は結婚し、家を出ている。そちらは義母と同居。叔母夫婦は二馬力で働いており、従姉妹が1人。
叔父は家を建て別に住んでいるが実家の仕事を継いでいるため職場が実家。そして閉業したため改めて個人事業主となった。叔父夫婦と従兄弟、従兄弟は先日大病が発覚した。叔父の奥さん(叔母と区別するため便宜上こう記す)は最近パートを始めた元専業主婦。

実家は、元々大人が6人暮らして更に仕事場でもあった建物だ。それなりにデカいし、明らかに2.5人で生活する家では無い。さらに、祖母は言わずもがな無職。年金は貰っている。母は廃業に伴い無職。残務処理のためまだ次の職を探せない。つまり無給労働中である。
現実的に、祖母は叔父が引き取り、実家は売り払う方向で一時話がまとまった。母は50代にして初めての一人暮らし予定。私のマンションの近くで部屋を探しサポートすれば万事解決だろうと。定年まではまだもう少しある年齢なので、仕事は何でもいいから探してもらう必要がある。本人の一応の貯金と、私と彼氏が保証人になればまあギリギリ次の家探しの審査が通るか通らないか…という瀬戸際のラインだ。

元々は、母が祖母と2人暮らしの予定だった。実家を売る金を元手にマンションを買い、終の住処にすると。それができれば実家は売り払っても、3家族それぞれで暮らしていても、3家族が揃って初めて『我が家族』と呼んでいる今と同じ関係性でいられるだろうと。
そう思っていたが、そうはいかないとなったのが実家の家業、廃業の2ヶ月前だった。そこから話がこじれに拗れ、三姉弟の骨肉の争いが始まった。

取り急ぎ決まっているのは、祖母は施設へ。母は一人暮らし。私は結婚して実家を出る。3人ばらばらになるのは勿論のこと、そうなったあと、三姉弟(プラス私たち従兄弟)の交流は無くなること必須というのが現状の見立てだ。全員生活に余裕がある訳じゃあない。叔母家族以外、全員環境が変わる。集まれるだけの心の余裕があるかと言われれば、ない。そして祖母という家族の集まりの発起人が声を上げなくなれば、自然と集まることはなくなるだろう。完全なる離散である。

祖母のこと

廃業2ヶ月前。祖母の様子がおかしくなった。正確には、廃業を決めた約半年前から、徐々におかしくなっていた。
祖母は、鬱と診断された。

最初の異変は、言葉数少なくなったことだった。祖母はお喋りが好きで、人と日がな1日何もなくても話していたいタイプ。寂しがり屋ともいう。それが口が重たくなった。ご飯は食べるがあまり食欲もなさそうに見える。これが1月の終わりごろ。
正月の3家族の集まりでは、今までと何も変わらない様子だった。ひと月しないうちに、様相が変わった。

実家仕舞いの話が出た事で、昨年から結婚するかとぼんやりしていた私と彼氏も動くことになった。実家があるうちに、彼氏を招いて3家族の集まりを開催した。
彼氏はあまり親戚との付き合いがなく、大家族に憧れがある人だったので、ワイワイガヤガヤとした顔合わせを選んだ。この時から、祖母の異変が分かりやすくなる。何せ皆で騒いでいる場で、その場に混ざってやいのやいの言うのが何より好きな人だったのだ。それが、自分が食べ終われば皆のいる部屋から一人離れて居間に移動してしまう。
その後でトランプ大会だのビンゴ大会だのを開催している間は昔通りではあったものの、どこか様子がおかしい。

はて、と言っていた3月。多分あれが、私の『家族』全員が、和やかに集まれた最後になるんだろう。

祖母の様子は顔合わせの後から輪をかけて日々おかしくなり、家の外で散歩中に意識を失って倒れたという事件があったあと、「外が怖い」と言って部屋にとじこもっている。
電話が怖い。雨戸の開け閉めが怖い。雷が怖い。エトセトラ。今まで何でもなかった何もかもに怯えて、自室のベッドで寝転がるだけの祖母。加えててんかんの発作が起こるようになり、家の中を時折右往左往している最中倒れるのを繰り返す。
母は気が短く、かつヒステリックな人だ。祖母が鬱になってからの会話に苛立つらしく、よく2人で衝突し合っている。私からすると20年近く前の焼き直しの光景だ。ボソボソと己の不安だけを延々と繰り返す人と、それにヒステリックを起こす人。立場が変わっただけの光景。

一応、骨肉の争いは置いておいて──というか、私が泣きながら電話口でブチ切れた結果、ようやく叔母が祖母の介護の手伝いをし始めたので、母の負担は軽減された。鬱とてんかんの通院は、叔母が担当することになった。ここまでが長かった。
金の話しやら現実的では無い介護の理想論ばかり振りかざし、でも何もしない叔母に、母と祖母が泣いていた日があった。ただ泣いてるだけならまだしも、2人して「もう死ぬしかない」とまで話していた。叔母はその時点で母と祖母がまあまあ限界突破していることを、状況もろくすぽ確認せずにいたので致し方ないと言えば致し方ないが、余計な口出しするな、口出すなら金を出すか手伝うかしろという話である。あまりに余計な口出ししかしないので、そんなに言うなら貴方が義母と共に祖母の面倒まで見れるのかと話したところ、できないと言う代わり最低限通院は担当してくれることになった。万々歳だ。

ちなみに祖母の介護について、家族会議のもと私は一切関与しない事になっている。一応孫の枠なので。実子が3人、全員五体満足でしかも近隣に暮らしているのだ。子供らでやって欲しい。私は年功序列で鑑みれば、割とすぐに母の介護が始まるのだ。
とはいえ叔母も叔父も母に甘えて頼っていれば何でもどうにかなる、という考えの持ち主なので、祖母の今後についての話し合いには途中から全参加している。抜けられたのは最初だけだった。最も実際に対応する側になっていないだけ御の字かもしれないが。話し合いは私が参加しないと何故か母が号泣して何も結論が出ずに2時間くらい消費して終わる。仕方ないので参加して、議事録をとって今後の動きについて時系列で書き出して可視化するのを担当している。本当はこれもしたくない。

年の離れた従兄弟たちはこういう面倒な家族会議の中身を知らない。少しばかり羨ましいなと思う。子供らしく過ごさせよう、無理に大人の話し合いに巻き込まないようにしようと叔母と叔父が従兄弟たちを守るのが、それが本来だと思いつつ、羨ましい。早くに大人にならないと、自分の身を守れなかった身として。確かにとっくに大人ではあるけれども、子供の時分から私は大人たちの話し合いにごく普通に一参加者として同席していた。それもあり、今なお親世代のいざこざに否応にも一人巻き込まれるのが煩わしくてたまらない。

終わりに、これからのこと

多分年内には、祖母の介護認定やら何やらがおりる見込みだ。その頃には実家の廃業した仕事もカタがついているだろう。そうなれば実家が売れる。祖母の施設を見つけて、実家を売って、それで全部終わりだ。早く全部終わらせたい。
とはいえそれらが済んだら、今度は母の家探しと職探しのサポートをしなければならない。色々とまだまだ頭の痛い問題は山積みだ。

秋に結婚するにあたり、苗字が変わるだけのような、それ以外も全て変わるような不思議な感覚を抱いている。とりあえず籍を入れない限り分からないフェーズにいくことだけは確かだ。人生で苗字が変わるのは2回目なので、諸々の手続きだけが心底面倒くさくはある。
実家仕舞いの話が出なければ、もしかしたら踏ん切りがつかなかったかもしれない──いやでも、そもそも結婚するかと話したのは去年の話で、廃業の話も出ていなかった頃だから、まあそうはいかないはず。
…とはいえ家族の結婚への後押しが強くなったのは、間違いなく今回の話があったからこそだ。そう思えば、私の人生単体で見れば、良いターニングポイントになるのかもしれない。ここまで家族間で揉めるのが良いか悪いかはこの際棚上げしておくが。

結婚の話をした友人からは、安心したと言われた。曰く自分の人生を諦めているように見えたと。生き急いでその先に、何も残さず消えようとしているようにすら見えたとも言われた。生き急いでいると言われたのは、学生時代ぶりだった。ただ周りが諦めて言うのをやめただけで、これまでもずっと生き急いでいるように見えたのは変わらなかったらしい。
確かに思っていた以上に体にガタは来ているものの、そこまで言われるとはとやや不服な部分はある。だが言われざるを得ない生活を続けているのは自分なので何も言いようがない。

これから新しい生活になると思うだけで気持ちが浮き立つような初心さは正直ない。ただ、自分の新たな『家族』『家庭』を築いていくに当たって。理想の家族やら、幸せな家族像やらは上手く想像ができないけれど、少しでも良いそれを築けたらいいと思う。何かを諦めなくていい家族の姿が、きっとあるはずだと信じたい。

諦めながら暮らすのも、割合疲れるものなので。気持ちの休まる空間で暮らしてみたいと心の底から思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?