見出し画像

スラバヤの熱い記憶-1996-97年

FBの思い出は何年か前の今日の出来事を表示してくれる。その中に、1996-97年のスラバヤの写真を何年か前に投稿したのが今日表示された。スラバヤ、思えば熱い記憶だった。

画像9

1996年4月、7月、11-12月、1997年1月、3月にスラバヤに滞在でした。会社の同僚・上司はですインドネシア専門と言えるような人が多かったが私としてはこの時がインドネシア初で言葉も含めて苦労した。最初、Hyatt Regency Surabaya(現Bumi Surabaya)に宿泊していた。

画像1

画像2

その近くにテニスクラブがあった、多分、その前を車で通りかかって知ったのだろう。今はグーグルマップをみても見つからない、川の近く、政府系ビルに建て替わったのだろうか。週末、上司達はゴルフに出かけていたが私はこのクラブへ徒歩で、ビジターでもOKだった、コーチは愛嬌のあるこの人、1時間練習すると大汗をかく、これは気持ちよかったが滞在期間が短かったので数回通っただけの記憶だ。写真を見る限り、4面はあったのだろうか。

画像3

スラバヤでは事務所が郊外にあり毎日その事務所へ車(トヨタのキジャン)で通勤し、移動は車が多く徒歩では出かけることは少なかった、ホテルから北が旧市街のようだったが、これは後から知ったことだ。

画像4

写真はスラバヤの街並み、オレンジ色の屋根が特長だった。オープンしたばかりのThe Westin Surabaya (後のMarriott)のペントハウス(25Fのアパートメント)からだ。途中でホテルを変わった、上司がゴルフ場でここのマネージャーと一緒になり紹介を受けたとのこと、MarriottのサービスアパートメントがHyattと比較してリーズナブルだったからだ。

The Westin Surabaya (Marriott)からのスラバヤ、1997年

画像5

その近くの潮州料理屋が美味しくて上司とよく通った。スラバヤは旧日本海軍の軍港があり、戦時中、Majapahit Hotel(アルメニア系サーキース兄弟が1911年に開業)を接収、ヤマトホテルとして使っていた。当時、マンダリンが入手して改装中で1998年にホテルとして再オープン。2006年にCipta Cakra Murdaya (CCM) groupが買収。マドゥラ島とを繋ぐスラマドゥ橋(2009年完成)はアイディアレベルだったが今や現実のもとなっている、インドネシア企業と中国企業との合弁で建設した。

画像8

Hyattに泊まっているときのある週末、夕食時にレストランで20代の女性達と知り合った。英語でコミュニケーションが取れたので興味本位でいろいろ聞いたのだろう、勤務終了後に友達同士で来ていた。政治やプライベイトな話は口が重かったので部屋へ招いてお茶をした。彼女はクリスチャンでカレッジを卒業、私はインドネシア人と中国系のハーフ、大学を出て今は企業で働いているなどなど、政治のことは関心高く部屋の中ということもありかなりストレートな意見を述べていた。

Hyatt Regency Surabayaのレストラン

画像7

数日後に連絡があり、当時はスハルト政権末期(1998年10月まで)で野党勢力の活動がスラバヤでも盛んでその集会へ行くので一緒にどうかと誘われ、軽四輪を改造した乗合タクシーでスラバヤの街をどこをどういったのかわからないが、あるカフェに着いた。学生や若者などが多く集まっていた、会話はさすがにインドネシア語なのでわからなかったが彼女は訳してくれた。そのスラバヤの熱さが強く印象に残っている。

その後、1997年のアジア経済危機によりインドネシアは通貨ルピアの大幅な切り下げを余儀なくされ経済的に甚大な打撃を受け国民生活は苦しくなる一方、それまでのファミリーへの利益配分(マダム・ティエン・パーセントと大統領夫人が呼ばれていた)が国民の怒りをエスカレートさせ、1998年の大統領選に7選していたもののジャカルタをはじめとする地方都市を含み学生による反政府デモが激化、一般市民を巻き込んで大規模、暴徒化したことを受けて1967年以来、スカルノから禅譲されたインドネシア第2代大統領職を1988年5月に辞任表明し、ハビビ副大統領が昇格した。

この時期のことは既にスラバヤを離れており日本か仕事先で聞いていたのだろう。1999年6月、ハビビ政権が新たに制定した総選挙でメガワティ率いる闘争民主党にゴルカルが破れ、その後の国民協議会でワヒドが第4代に選出され、メガワティが副大統領が就任した。2001年にワヒド大統領が国民協議会で弾劾、解任されるとメガワティが第5代大統領に昇格した。メガワティは初代大統領スカルノと第一夫人ファトマワティの長女であり、9・30事件以降、辛酸をなめていた。

スカルノはスラバヤ生まれであったこともあり、東ジャワの州都スラバヤでは反スハルトが強かったのであろう。その時、ストレートに熱い若者たちの鼓動を感じた。以後、インドネシアと縁がないがスラバヤは再度ゆっくり歩いてみたい街だ。

JW Marriott Surabayaのアパートメントから

画像6


いいなと思ったら応援しよう!