スラバヤの思い出
A view from The Westin Surabaya
1995/96年のスラバヤです、会社の同僚・上司はインドネシア専門と言えるような人が多かったが私としてはこの時がインドネシア初で言葉も含めて苦労した。
最初、Hyatt Regency Surabaya(現Bumi Surabaya)に宿泊していた。その近くにテニスクラブがあった、多分、その前を車で通りかかって知ったのだろう。今はグーグルマップをみても見つからない、川の近く、政府系ビルに建て替わったのだろうか。週末、上司達はゴルフに出かけていたが私はこのクラブへ徒歩で行きテニスをした、ビジターでもOKだった。コーチは愛嬌のあるこの人、1時間練習すると大汗をかく、これは気持ちよかったが滞在期間が短かったので数回通っただけの記憶、長期滞在者が羨ましかった。
スラバヤでは事務所が郊外にあり毎日その事務所へ車(トヨタのキジャン)で通勤し、移動は車が多く徒歩では出かけることは少なかった、ホテルから北が旧市街のようだったが、これは後から知ったことだ。
写真はスラバヤの街並み、オレンジ色の屋根が特長だった。オープンしたばかりのThe Westin Surabaya(現Marriott)のペントハウスからだ。途中でホテルを変わった、上司がゴルフ場でここのマネージャーと一緒になり紹介を受けたとのこと、The Westin Surabaya (現在のMarriott)のサービスアパートメントがHyattと比較して安かったからだ。当時のインドネシアは地方でもホテル代は高く、ここで月1800ドル程度だった。このホテルの先の角を曲がると食堂が並んでいて、その中の潮州料理屋の海鮮料理が美味しくて上司とよく通った。イカのクイリスピーフライ、海鮮スープなどなど。
スラバヤは旧日本海軍の軍港があった、戦時中、Majapahit Hotel(アルメニア系サーキース兄弟が1911年に開業)を接収、ヤマトホテルとして使っていた。当時、マンダリンが入手して改装中で1998年にホテルとして再オープン予定だった。2006年にCipta Cakra Murdaya (CCM) groupが買収。マドゥラ島とを繋ぐスラマドゥ橋(2009年完成)は当時アイディアレベルだったが今や現実のもとなっている、インドネシア企業と中国企業との合弁で建設した。
Hyatt Legencyに泊まっているときのある週末、夕食時にレストランで20代の女性達と知り合った。英語でコミュニケーションが取れたので興味本位でいろいろお話をした。勤務終了後に友達同士で来ていた。政治やプライベイトな話は口が重かったので部屋へ招いてお茶をした。一人の派手目の彼女はクリスチャンでカレッジを卒業、もう一人の彼女はインドネシア人と中国系のハーフ、大学を出て今は企業で働いているなどなど、政治のことになると食い付きが良かった、国内政治に関心が高く、部屋の中ということもありかなりストレートな意見を述べていた。
数日後に連絡があり、当時はスハルト政権末期(1998年10月まで)で反政府勢力の活動がスラバヤでも盛んでその集会へ行くので一緒にどうかと誘われ、ロビーで待ち合わせして出かけた。
軽四輪を改造した乗合タクシーでスラバヤの街をどこをどういったのかわからないが、あるカフェに着いた。学生や若者などが多く集まっていた、会話はさすがにインドネシア語なのでわからなかったが彼女が要旨を説明してくれた。つまり、現政権は腐敗し私腹を肥やしている、そして、国民生活は厳しくなる一方だと、そのスラバヤの熱さが強く印象に残っている。
その後、1997年のアジア経済危機により通貨ルピアの大幅な切り下げを余儀なくされ経済的に甚大な打撃を受け国民生活は苦しくなる一方、それまでのファミリーへの利益配分(マダム・ティエン・パーセントと大統領夫人が呼ばれていた)が国民の怒りをエスカレートさせ、1998年の大統領選に7選していたもののジャカルタをはじめとする地方都市を含み学生による反政府デモが激化、一般市民を巻き込んで大規模、暴徒化したことを受けて1967年以来、スカルノから禅譲されたインドネシア第2代大統領職を1988年5月に辞任表明し、ハビビ副大統領が昇格した。
この時期のことは既にスラバヤを離れており日本か仕事先で聞いていたのだろう。1999年6月、ハビビ政権が新たに制定した総選挙でメガワティ率いる闘争民主党にゴルカルが破れ、その後の国民協議会でワヒドが第4代に選出され、メガワティが副大統領が就任した。
2001年にワヒド大統領が国民協議会で弾劾、解任されるとメガワティが第5代大統領に昇格した。メガワティは初代大統領スカルノと第一夫人ファトマワティの長女であり、9・30事件以降、辛酸をなめていた。
スカルノはスラバヤ生まれであったこともあり、東ジャワの州都スラバヤでは反スハルトが強かったのであろう。その時、ストレートに熱い若者たちの鼓動を感じた。以後、インドネシアと縁がないがスラバヤは再度ゆっくり歩いてみたい街だ。