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レイテ島とサマール島を結ぶSan Juanico Bridge (Marcos Bridge)、戦後賠償で建設

San Juanico Bridge, レイテ島とサマール島を結ぶ美しい曲線を描いている、この写真は2014年5月に撮影したが、その次、数か月後に行ったら赤色に塗り替えられていた。

2014年10月2日撮影

2013年11月に発生したスーパー台風ヨランダがレイテ島タクロバン付近を通過、甚大な被害をもたらした。その災害復旧のための緊急調査で2014年初頭から3回ほどタクロバンへ出張し、そこを拠点として周辺地域を踏査した。このSan Juanico Bridgeはタクロバンからサマール島への唯一のルートであり、何度となく通過した。そのたびにこの美しい曲線の橋梁に魅せられた、台風の災禍など忘れてしまうほどに。

San Juanico Bridge

このSan Juanico Bridge、1990年代初めに仕事をしていたパナマのパナマシティからパナマ運河を跨ぐアメリカンブリッジとデザインが似ている。San Juanico Bridge、建設当初はMarcos Bridge(下の写真参照)という名称だったが政権が交代し変更したののだろう。

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この橋は、日本の対フィリピン戦後賠償の一環として建設され、日比友好道路建設事業の一部であった。対フィリピン戦後賠償は1951年に締結された日本と連合国との講和条約であるサンフランシスコ講和条約第14条aに賠償義務の規程をしている。その適用地域はフィリピン、ベトナム、ラオス、カンボジア、インドネシア、オーストラリア、オランダ、英国(香港、シンガポール)、米国であった。しかし、カンボジア、ラオスは賠償を放棄し準賠償というかたちで経済協力協定が締結されいったり、法的に請求権を有しななど、最終的に第14条aを基に請求した国はフィリピンとベトナムの2カ国であった。また、中国とインドは第6条aにより賠償請求を放棄している。
フィリピンとの賠償協定は1956年7月23日に締結、賠償金は1902.03億円であった。その他、日本の賠償はビルマ、インドネシア、ベトナムに対して賠償協定が締結され、実施された。賠償形態は、在外資産の接収、撤去賠償、役務賠償であったが、最初に行われたのが国内の資本設備の引き渡しであった。しかし、これは日本の復興に影響を与えることから、途中から資本財提供、すなわち円借款の供与へ変わっていった。

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対フィリピンの賠償は純賠償や借款などを合わせて合計8億ドル(2880億円相当)、支払い期間20年間に及んだ。つまりこの戦後賠償は1976年に終了した。この賠償では、インフラ建設やプラント建設事業、さらに鉄道車両、発電機、航空機等の機械器具等も賠償によって役務提供、円借款、無償が供与された。
San Juanico Bridge橋との関係では、インフラ建設として日比友好道路、ルソン島からミンダナオに至る道路建設に108億円が計上されていた。

San Juanico Bridgeの銘板、レイテ島側

この橋は銘板よりマルコス橋という名称だったようだが、マルコス政権後にSan Juanico Bridgeへ変わったのだろう。以下、銘板より。
橋梁長:2.162㎞、
幅員:10.620m
メインスパン:192m
航行可能範囲:水平113m、垂直24.2m
構造基準:活荷重AASHO H-20
設計施工:パシフィックコンサルタンツ、
サプライヤー:丸紅、
鉄鋼構造:日本鋼管、宮城鉄工所
建設期間:1969年8月から1972年12月

レイテ島とSan Juanico Bridge (Marcos Bridge)の想いでより。
参考文献:
永野慎一郎、近藤正臣『日本の戦後賠償 アジア経済協力の出発』勁草書房、1999年


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