万里子さんと、僕(3)
海月と万里子さん
「水族館、新しく出来るんだって?」
部屋の本棚から海洋生物の写真集を
引っ張り出してきて、パラパラ見ている
万里子さんから唐突な質問をしてきた。
初夏にしては気温が暑く、室内には
エアコンと写真集の音が微かに響いていた。
「来月末からみたいですね。
隣の市の海沿いにオープンする
みたいですよ。TVで宣伝してましたっけ?」
「TVは見てないけど、何かポストにチラシが
入ってたからちょっと気になってね。」
「水族館、お好きなんですか?」
「アザラシが…………好きでね。
あのフォルムが可愛くて。
少年アシベのゴマちゃんが好きなのよ。」
「ゴマちゃん?」
「国民的アニメだよ。見て、必ず。」
珍しく力強くお薦めされている。
目線は写真集のままだがその先にはアザラシ。
僕の中の国民的アニメは
某猫型ロボットと海の生物の名前が
割り振られた一家の話だと思っているけど、
万里子さんの中では順位が違う様だ。
「外に出れる様になったら見れるかな?」
アザラシが悠々と泳ぐページを見ながら
一人言の様に問いかける。
その言葉には期待も憧れも悲しさも無くて
無機質な抑揚を感じさせない声が響く。
「出てみたいですか、外?」
「叶うなら。でも無理でしょう?」
万里子さんは何も感じていない表情でそう呟いた。
このアパートの敷地は広くない。
よく有るワンルームタイプにキッチンと水場が有り
敷地内には自転車置き場と集合ポストに
玄関先に桜の木が数本。
一階の誰かが育ててる鉢植えの植物達。
それが万里子さんが今、手を伸ばして
触れて生活出来る範囲の世界。
「もし来世が有るなら、次は海月が良いな。」
「海月ですか?アザラシじゃなくて?」
「世界を泳ぐのに大き過ぎると駄目な気がする。
揺られやすい形で波に揺られて、何処へでも
流されて、色んな所に行きたいの。」
「魚の方が、より自由に泳げる気がしますけど。
どこへでも行きたい所に行けるかと。」
ページを捲る音が止むと少し間が空いてから
無表情でポツリと呟いた。
「自分の行きたい所や動ける気力が
最初から無いのが私に似てる。
生まれもった手足が、自らが意図しなくても
誰かを苦しめる様な毒を有するのも。」
普通に動けたり無毒な海月もいるんだけどねと
普段と同じ様にヘラッと笑って再び音が響く。
万里子さん、僕は知っています。
あなたが何物にも影響されない様な
気怠さを纏うのはこれ以上誰かを
自分に巻き込むのを最低限にしたい事を。
他人の名前を呼ばないのは誰かに愛着を
持ってしまった時のその後の憂いに
押し潰されない様にしている事を。
このアパートの外から出ないのは、
……出れないのは。
あなたの心がこれ以上傷付く事が
増えない様、僕は隣人かつ世話役以外の
境界線を越える事を望んでくれるのを待っている。
「隣人が部屋に来た時に
最低限のお世話をするだけ。
良いアルバイトだと思わない?」
このアパートの二つ隣の302号室の人が
引っ越す数日前、老年の管理人さんは
僕にそう問いかけた。
晩秋の日の落ちる時間が早くなった
夕暮れ時、この話は始まった。