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帰る家を探して


桜が咲き切った頃、このご時世なので
お花見をする事も無く終わりそうな時期に
大阪市の南の端っこに引っ越した。
京都の片田舎から片道1時間半掛けて
通勤していた職場が10分で行ける様になり、
商店街も賑わってて近くに町のお銭湯も
何件か見受けられる場所に暮らす。
引っ越して2ヶ月後に仕事を辞める事に
なるのはまた別のお話。


持っていく荷物は最小限にして
業者さんにお願いして先に荷物を
運んで頂きこれから住む家にまで
移動する2時間弱でここ数年の映像が
頭に流れていた。


人生初めての二人暮らしの相手は
お付き合いから2年少しの婚約者。
出会った頃からアラサーだった我々は
惚れた腫れたといったドラマチックさや
キラキラしてる恋愛とは無縁で
恋人よりズッ友の様な関係が続いてる。
公園でたこ焼きを食べて近くのお銭湯に
行ったり、お互いの好きな事を好きな様に
楽しみつつたまにこれ一緒にどう?と
誘ってみて共有したり議論するのが
我々の日常生活の大半で美味しー楽しー
嬉しーと某フレンド達の様に
目の前に有る事を緩く楽しんでいる。


お付き合いが1年過ぎた頃から
入籍前に同棲したいとよく話して
くれていたけど、私はその内ねと
言っては話題を変えていた。
そんな事を言ってくれる人に出会えた
嬉しさを噛み締める反面、生活や環境が
変わる事によって2人の関係が
変わってしまうのではという不安と、
何より私は「誰かが居る家」が怖かった。
家は私にとって、とても気を使う場所で
大人になって一人暮らしをするまで
家が落ち着く・帰りたいと云う感覚が
全く無かったし分からなかった。
自分にとって誰かが居る家は
しんどい以外の何物でも無かった。


生まれた頃から同居家庭で
祖母と母の折り合いが悪くお互いの
悪口を未就学の子どもの私に言い合って
子どもながらに居心地の悪さを感じて
いても大人の険悪な雰囲気をぶつけられる
方が辛かった。




幼い頃、母のヒステリックな金切り声は
何でそんな事も出来ないの!!と
どこにあるか分からない母の中の
常識と理想と比べられる事だった。
その後両親の離婚で人生の半分以上
会ってないし今後もその予定は無い。
元々家族に無関心な父は殆ど家に帰る事無く
家にお金を入れる事も無く好き勝手
していたので実質祖母に育てて貰った。
近所の人達には多感な頃に可哀想にと
言われたけど、やっとあの夜中の両親の
耳障りな喧嘩の声を聞かずに眠れると
悲しいより不安要素が1つ減った事への
安心感の方が勝ってた。


貧しい中、高校まで行かせてくれた事や
衣食住の提供に関しては今でも本当に
感謝していて、志望校も有ったけど
大学進学が出来ない事も中学生の時点で
分かっていたので祖母の商業高校に行って
早く就職して欲しいと云う代わり
一生で一回のお願いで毎月我が家の
家計からは高っかい5,000円の部費を
負担して貰って3年間吹奏楽を続けさせて
くれた事にも。
ただ、感謝と人として好きかどうかは
また別物だった。


元々祖母は気性が激しく気難しく
おまけに口も悪かったので何か気に
食わない事が有る度、
「お前なんか育てるんじゃなかった」
「誰が育ててやったと思ってる」
「私が恥かく様な事ばかりせんとって」等
私が不出来な事は承知では有るけど
数えたらキリが無いモラハラ待った無しの
ここで書くのも憚られる様な事を沢山
言われてきた。
学生だった私は今ここで反抗したら
まだ働けないし食い扶持が無くなると
非常に困るのを分かっていたので
私が悪かったねごめんねと聞き流していた。
反面私が居なかったらこの人は今頃
悠々自適に年金生活も出来てただろうし
もっと楽しく内面も穏やかに
生きれただろうと悲しくなった。 

就職を決める時、お客様と距離が近い
販売職の仕事を選んだ時も
「販売職?!水商売させる為に商業高校に
行かせたんちゃう!」と全国の販売職の
皆様に平謝りモンの時代錯誤な暴言を吐かれ
「じゃあ何の仕事なら満足やの?」と聞くと
16時頃に終業の固い仕事と返ってきたので
当時も今も無茶を言うなと白けて勝手に
学校に希望を出して担任の先生からの説得も
有って勝手にせぇと渋々了承して貰い当時
希望の仕事に就けた。



その後激務と店長からのパワハラで
血尿と涙が止まらなくなり
メンタルの負担が体にモロに出て逃げる様に
1年目で仕事を辞めざるを得なくなった。
その後もすぐ働き始めても転職活動が
上手く行かず色んなアルバイトや派遣の
仕事を続け、時には掛け持ちで
フルタイムかそれ以上働いた。それだけ
働いても、家に決められたお金を入れても
「正社員以外意味ない。
仕事すぐ辞めよってからに。
私の言う事聞かへんから
アンタの人生は負け組の転落人生や。」
何をしてもこんな事を言われるのが
当たり前でなるべく部屋に引き籠もるか
逃げる様に外に出ていた。


20代中盤で以前から気になっていた
演劇を始めた。それを知られると絶対
嫌な事を言われるだろうと
気付かれない様、基本的に外で練習を
していたけど家で密かに脚本を書いてる
のを知られると
「こんな金にもならん三文芝居してからに。
アンタ昔から絵や吹奏楽とか
金にならん事ばっかり。
金になる事やもっと家事せぇよ。」
自分の思い通りでないモノは
どんなモノも全く無意味なのだと
分かっていたけどやはり堪えた。
この人にとってお金を掛けた分、
数年後便利な家政婦かつATMになる事を
見越しての先行投資だと嫌でも
気付かされたし自覚させられた。
これがお涙頂戴のドラマとかならば、
もう少し後半で
私の事を思って言ってくれてる・・・!!(綺麗な涙を流す)のシーンに
入ると思うけど、残念ながらそこまで
脳をお花畑に自分を落とし込む事は
私には出来なかった。



それでも、好きじゃない筈でも
不思議とお通夜とお葬式は悲しくて
辛くて一生分位は泣いた。
末期のすい臓がんが発覚してから
半年位ほぼ毎日仕事終わりに
入院先の病院にお見舞いに行って
痛がる背中や腰を擦った。
どんなに小面憎い事ばかり言う人あっても、事実としてこの人が居たから今日まで
生活が出来た分に対して出来る事として
思い付くのが出来うる限り傍で
寄り添う事だった。
目の前の人の時間が僅かで、少なからず
何かしら自分に対して
時間を使ってくれた人に出来る事は
結局の所、自身が考えうる限りの
優しいであろう言動と行動だと思う。
この世を去り行く人に嫌悪や
憎悪を持ち続けると自分がもっと
苦しくなるから。病床で寿命を待つ人に
対して無関心まではなれなかったから。
あなたにとって良い孫では無かったかも
知れないけど、あなたの理想とは違う形で
今は結構幸せです。



話は戻って、祖母が生きていた頃、
色んな人からおばあちゃん大事にね、
祖母孝行したげてと言われてきたけど
その大事にせなあかん人から●ねって
言われましたわ。●ねと言われても
大事にせなあかん?と思っていた。
育てて貰ってるんだからと云う罪悪感と
家族を好きになれない自分は
何かしら欠陥が有って、今後誰と
暮らすのも難しいんだろうと思ってた。
そんな訳有るか目ぇ覚ませと心が叫んでた。
例えそれらが相手の愛情表現だとしても
感謝とその人を好きかどうかは別物。
大事な事なので2回言う。



もし同じ様な事で悩んでる人が居たら
家族だろうがあなたを酷く傷付ける
しんどい人達とは離れてね。
物理的に今難しいのなら心のシャッター
閉店ガラガラシャットダウンしたら良い。
それが誰かから見たら小さな事でも
あなたが傷付ける人を傍に置かなくて良い。
世間の正論は、あなたを否定しても
あなたを守ってはくれないからあなたの
好きにしたらえぇんよと全力で擁護したい。
子どもの頃の私はもし自分に優しい人が
居たなら、そう言って欲しかった。



その後、色んな事が重なり実家を
出る事になり、父の度重なるクズ行動と
モラハラ発言から最早こいつを近くに
置く訳には行かねぇと絶縁状態からの
その後の処理で脆いメンタルがまた
足場から崩れそうになった時、
一人暮らし2回目するんよと冬に
彼に言うとどうしてもあなたが一人暮らし
したいって拘って無いなら私とあなたの
職場の近くで暮らそうと言ってくれた。
最初は自分の事情で巻き込んでしまうのは・・・と悩んでいたら「2年と少しでは
一緒に暮らすの不安?」と
寂しそうに聞かれたので、
そういえばこの人に対して
不安を感じた事は無いなと気付いて
「ほな引っ越しシーズンが落ち着いた
4月中旬の安い時期にしよか」と
トントン拍子で進んだので人生に
勢いは必要だと思う。


そんな事を思いながら運転してると
あっという間に現地に着いて、玄関を
開けると既に業者さんの荷解きは終わって
彼がおかえりと迎えてくれた。
今までの改札口前で手を振るまたねが
今日からおかえりになると不思議で
暖かい感覚だった。


最初、彼は多分言わないだろうけど
家事を完璧に出来なければ
何か思われたり出来ない事が有ったら
駄目な人とガッカリされるかもと
勝手に心配してると、こちらが言わずとも
当たり前に家事をして作るご飯を
毎回美味しいと食べてくれた。
多少焦げたり失敗しても大丈夫よと
笑って食べてくれる。
体調が悪い時は食べやすいご飯を作った
り看病もしてくれた。
一緒に暮らし始めて暫く経っても
それは変わらず私が知ってる家族とは
違う事に気付いた。


超偏食で作ったご飯を食べず不味そうと
箸を付けられず、時短料理をすると
手抜きだと難癖を付けられ、体調悪い時に
開口一番「飯は?」と言われたり
家事を丸投げかつ仕事道具を家に
散らかすばかりで一切何もせず文句を
言って気に食わなかったら
がなってモノに当たり「お前何も
出来ひんわ。」と口癖みたいに言ってた
クソもとい父との差よ・・・!と
比べるのも本当失礼なんだけど
こんなに暮らしの中で協力したり
しんどい時に心配してくれたり何かを
お願い出来る人が今まで居なかったので
正に目から鱗だった。


家を出る前、最初で最後になると思うが
彼とうちの父が二人暮らしをするにあたり
顔合わせする時も彼と合流する前に
一悶着有ってこのジジィを今すぐ
釘バットで殴りたい衝動を挨拶の場なので
抑えつつ何とか何もなく終わりそうかと
思ったらほぼ喋らなかった父から
「こいつすぐ料理手抜きしたり訳分からん味のモン作りよるんですわ。」
と半笑いで言われた時、会わせる前に
屠っておくべきやったと
殺意を巡らせていると「麻衣さんの料理は
今まで色々作って貰いましたけど
どれも凄く美味しいですよ?」と真顔で
返してくれて父はバツが悪そうに
ゴニョゴニョ何か言っていたが、
彼が以前私に「私は何時だってあなたの
味方よ。」の言葉を地で守って行動して
くれる人なのを実感した。


出会う少し前、真冬の風呂場で倒れて
死にかけた程に心身共に弱って
人間不信状態でお付き合いが始まった後も
会う度に意図せず辛い記憶がフラッシュ
バックしては大泣きして話を聞いて貰って
泥みたいに眠ったら添い寝をしてくれて
その後落ち着いたらご飯を作って一緒に
食べて貰うデートと言うよりリハビリの
様な介護が当時一人暮らしの私の家に
週1で来ては大丈夫、大丈夫よと支えて
くれていた。
本人に後から聞くとこんなにボロボロに
なった不憫な人を放っておけなかったし
何とか元気になって欲しい一心との事。
誠実と優しさの塊である。
いつだったか、そんなメンがヘラりに
ヘラった時に何で私いつも他の人みたいに
上手く行かないんかな。
私こんなんだからにあなたに迷惑掛けて、
駄目な人な自分が嫌いなんよ。
もう心がしんどい。と純度100%の
面倒くささで八つ当たりをしてしまった際、
少し考えてから手を握りながら言ってくれた言葉を今でも覚えている。



「無いものねだりをしても仕方無いから
人は自分の持ってるカードで
どうにかするしか無いんだけど、
あなたが助けてと言ってくれたら
私は必ず助けるからね。あなたがその
カードを持ってる事をどうか忘れないで。
私は何時だってあなたの味方だから。
人を思い遣れる優しいあなたが大好きよ。
どんなあなたの全てを受け入れるからね。」



二人暮らしももうすぐ1年が
経過しようとしている。
30年分位のしんどさも辛さも
ひっくり返す位穏やかで緩く、
家が安心出来る場所になったので
ご時世関わらず今ではすっかり
インドア派になった。

「ただいま」
「おかえり」

ここから引っ越して別の場所で
暮らす事になっても、この人が居る場所が
私の帰る場所で、それが末永く続く事を
願っている。
もう帰る家を探さなくても大丈夫だから。












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